深沢七郎(1914-1987)
大正3年1月29日ー昭和62年8月18日 73歳 
埼玉県秩父市・秩父聖地霊園


 立止まって目の前を見つめた。楢の木の間に白い粉が舞っているのだ。
 雪だった。辰平は
 「あっ!」
 と声を上げた。そして雪を見つめた。雪は乱れて濃くなって降ってきた。ふだんおりんが、「わしが山へ行く時ャきっと雪が降るぞ」と力んでいたその通りになったのである。辰平は猛然と足を返して山を登り出した。山の掟を守らなければならない誓いも吹きとんでしまったのである。雪が降ってきたことをおりんに知らせようとしたのである。知らせようというより雪が降って来た!と話し合いたかったのである。本当に雪が降ったなあ!と、せめて一言だけ云いたかつたのである。辰平はましらのように禁断の山道を登って行った。
 おりんのいる岩のところまで行った時には雪は地面をすっかり白くかくしていた。岩のかげにかくれておりんの様子を窺った。お山まいりの誓いを破って後をふり向いたばかりでなく、こんなところまで引き返してしまい、物を云ってはならない誓いまで破ろうとするのである。罪悪を犯しているのと同じことである。だが「きっと雪が降るぞ」と云った通りに雪が降ってきたのひとことだ。これだけは一言でいいから云いたかつた。
 辰平はそっと岩かげから顔を出した。そこには目の前におりんが坐っていた。背から頭に筵を負うようにして雪を防いでいるが、前髪にも、胸にも、膝にも雪が積っていて、白狐のように一点を見つめながら念仏を称えていた。
(楢山節考)

「私はこの小説を面白ずくや娯楽として読んだのじゃない。人生永遠の書の一つとして心読したつもりである。」と正宗白鳥に絶賛された「楢山節考」を、深沢七郎は「道楽で書いた小説」と迷言?する。この得体の知れない作家に対して、方々から「異端」「鬼才」「したたか者」「隠者」などという様々な評言があたえられたが、彼の奔放な視線は文学を超え、ひょうひょうと瞬間を過ぎ、昨日を追いやった。昭和62年8月18日の早朝、埼玉県南埼玉郡菖蒲町のラブミー農場のリビングルームには、愛用の床屋椅子に座ってこと切れた静かな老人の顔があった。

  秩父盆地の小さな街の空、息苦しいほどの熱気を閉じこめた斑模様のほの憂い雲が浮かんでいた。一方の山腹にあるこの霊園には、芝草の生臭い匂いがもやい立ち、時折、思い掛けなく激しい風が街の底から吹き上げてくる。昭和46年に自ら建てたこの碑「深澤家」の墓は光彩を失って、区画一面に雑草は生い茂り、どくだみの白い花が台石の周りを取り囲んでいる。「私は生まれたということは屁と同じ作用だときめたが、本当はもっとオカシイことだと思う。(中略)そんな変な作用で私たちは生まれたのだから、生まれたことなどタイしたことでないと思うのである。だから死んでゆくこともタイしたことではないと思う。」とも書いた深沢の「無」の形がこれなのか....。そういえば先ほどから雷が鳴り始めたようだ。