藤沢桓夫(1904-1989)
明治37年7月12日ー平成元年6月12日 84歳
大阪・齢延寺

傷だらけの歌−−それは「インターナショナルの歌」だ。第三インターナショナルの歌であり、世界の勞働者農民の團結と闘争と勝利への歌である「インターナショナルの歌」だ。
何故それは傷だらけの歌なのか?何がそれを傷だらけの歌にしたか?
毆打、足蹴、宙吊り、逆吊り、鞭、竹刀、赤いゴムの太管、指析り、水漬け、その他ありとあらゆるxxと、ビストルと、機関銃と、絞首基臺と、電気椅子とが、それを傷だらけの歌にした。世界のxx主義の強盗どもとその同盟者どもとそのあらゆる手先どもが、それを傷だらけの歌にした。われわれを苦しめ、妨害し、追及し、傷つけ、XXにする、一切のものが、それを傷だらけの歌にした。
故國の同志よ。僕のこの比喩めいた言ひ方は、思ひあがつた感傷主義として、君を不愉快にさせただらうか?あるひはさせたかも知れない。が、もう少しこの手紙を讀み進めてくれ。さうしたら、君は決してそれを思ひあがつた感傷主義だと思はなくなるに相違ない。きつと僕の言ひ方に同意してくれるに相違ない。
(傷だらけの歌)
代々漢学者の家に生まれながら都会的新感覚派の若手作家として注目され、のちプロレタリア文学運動に移って新しい可能性を生み出したが、その流行作家としての活動とともに通俗大衆小説を多く発表して純文学からは離れていった。昭和10年以降は常に大阪にあって、晩年は大阪文学者の長老格として慕われてきたが、平成元年のこの日午後2時35分心不全によって84年の生涯を閉じた。
藤澤家累代漢学者の墓があるこの寺の墓地はラブホテル街を抜けきった小域にあった。「私がなく透明感のある人柄、大阪のエスプリを愛し、大阪人を蒸留酒にしたような人」と、司馬遼太郎に表現された彼の人の墓は漢学者の家系にふさわしい厳粛な石面をもって屹立していた。
