勝見次郎(1907-1993)
明治40年12月20日ー平成5年4月16日 85歳 (藤翁静誉居士) 
静岡県藤枝市・岳叟寺


 2月26日の正午すぎ、妻は息を引きとった。
 翌日火葬にし、私は少量の遺骨をビニール袋に納め、ポケットに入れて一週間の旅に出た。
 妻はまったくの無宗教で、平静から自分が死ねばどうせ水になって消えるのだから、骨の小さなかけらを少女時代に親しんだ浜名湖と、それから大好きな倉敷の美術館の庭の隅に埋めて砂利でもかけて踏んでおいてくれ、墓は作ってくれるなといっていた。
 それを果たすための旅行のつもりであった。
 3月2日の小雨の降る朝、、人気のない美術館に行くと、中庭の真ん中に低い数株の木のかたまったところが在ったので、受付の若い娘さんの許しを得て、一本の木の根の砂を指でかじって2センチばかりの骨を入れて土をかけ、お礼を言って立ち去った。
 その日の晩、私の身を心配して同行してくれた本多秋五と街の店を覗いていると、朝の受付の娘さん二人が通りかかって私を見つけ、「館の事務長さんが明朝来るように伝えてほしいといってました」と告げた。 翌朝開館を待って出頭すると、事務長という人から「埋めた骨を掘り出してもって帰れ」といわれた。
「供養のためなら近くに寺が在るからそこへ納めて拝んでもらいなさい。こういうことをされては困る」ということで、これは確かに骨は不浄のもの、忌むべきものと考えるのは一種の常識で在り、ことに美術館を預かるものとしては当然の抗議でもあろうと思った。
 雨に濡れたこころおぼえの場所にしゃがんで少し砂利を除け、白い片を掻き出してポケットに入れて、詫びて去ろうとしたが、やはり少しあわてていたのと、骨の形そのものに記憶がなかったので石片と間違えたらしく、門を出ようとすると事務長 さんが追い駆けてきて「すぐ横に土が盛り上がったところがあったので念のため調べたらこれが出てきました。ーーこれでしょう」と確かに妻のものと思われる新しい、白っぽくて少し泥のついたもろい骨片を手渡された。
 鼻紙にくるんで胸ポケットにしまったが、死んだ妻が哀れで可哀相でならなかった。
 なぜこんな残酷な目に合わされるのだろうと思うと、自分のヘマも一緒くたに腹が立って年甲斐もなく涙が出た。
(妻の遺骨)

 平成5年4月16日、三浦半島先端近くの療養所で藤枝静男は逝った。晩年の藤枝は自分の娘や永年の友、本多秋五のことも判別できず、自分が小説を書いていたことさえ忘れていたと聞くが、大正15年(昭和元年)春、旧制第八高等学校に相見えた三人の男達を、思い出すことはついぞ無かったであろうか。平野朗(筆名謙)、本多秋五、そして勝見次郎自身を。平野や本多は評論家として時代を築いた。浜松の眼科医であった勝見は39歳にして処女作「路」を発表し、藤枝静男の名を世に刻んだが、愛しくも曖昧な薄靄は、遠い月日を抱き包んでかき消えた。

 
「藤枝静男」のペンネームは本多秋五が名付けた。故郷の「藤枝」と八高同窓の亡友「北川静男」の名を採ったものであるが、その故郷藤枝の寺に作家の墓はある。藤枝在住の作家小川国夫宅の真ん前にあるバス停から徒歩15分、一片の翳りもない春陽の最中、ちゅんちゅんと鳴く小雀の声にさえ、真新しい季節の息吹が青々と感じられてくる。「累代之墓」、台石に「勝見」の彫り、側面に父母、兄弟の名に続いて藤枝の戒名と俗名次郎の名がある。「一家団欒」の場所、ここには昭和52年、60歳で先に逝った妻智世子の名が見えない。妻の遺言に因するのか、個々の問題に他人が詮索することではないが、出来得ることなら二人の墓が欲しいと思ったのは感傷的にすぎるか。