江頭淳夫(1933-1999)
昭和8年12月25日ー平成11年7月21日 66歳 
青山霊園



 一人の作家が生き、そして死んだという事実が、重苦しくてこでも動かぬもので、その事実のあたえる戦慄が、なまはんかな知的操作を拒絶するものだということは、一つの教訓をぼくらにあたえる。つまり、ぼくらにとって重要なことは頭の切れ味を磨くことでもなければ、整理統合の術に熟達することでもなく、ぼくらが現に生き、やがて死ぬ、というつまらぬ事実以外にはないというのがそれであって、美の感覚などは大方ここにつながっている。美しいと思われる絵を観、音楽を聴き、詩を口ずさむ時、人の感じるあの哀しみのような感情は、いわば、一瞬のうちに自分の生と死とを啓示されるような驚きから生れるといってよい。そして、やがてその生涯を閉じる作家の晩年に立って、彼の半生を展望する時にぼくらの精神に生ずるある種の緊張――仮りにそれを悲哀と呼ぶならばその悲哀の性質もこの驚きに似ている。ぼくらの生と死が、作家の生涯の重々しい時間に触れてはね返って来る。この人間はこのように生きて来た。だとすれば、自分はどうするのか? 
(夏目漱石・作家と批評)

 昨秋、最愛の慶子夫人をがんで失い、自身も不自由な病を得ていた。平成11年7月21日、この日の夕、鎌倉には激しい雷雨がおそった。全てのものを洗い流す雨音とともに、誘い落とされるように江藤淳は自裁した。「心身の不自由が進み、病苦堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。」

 三島由紀夫、川端康成の自殺に対して一種冷淡とも思える批評を下した彼も、遂には自らの命を制した。その自裁に対して、前後左右から様々な言質が放たれたが、命日を過ぎたばかりの霊園の南寄り、緩やかな斜面にある「江頭家之墓」にこそその哀しさがある。激暑の合間、時おりの涼風が通る細道に、墨色の碑に映りこんだ一盛りの白蘭。ささやかな匂い。墓のうしろに隠れるように小さな墓誌。江頭淳夫と室慶子の没年月日、享年が並び記されてある。