円地富美(1905-1986)
明治38年10月2日ー昭和61年11月14日 81歳
谷中霊園

大分夜が更けてからのこと、丘の上の方の音楽学校の生徒と思われるのがテノールらしい高音を一ぱいに張って、同じリードの一節を繰返し練習しながら、只一人坂を降りて来るのが毎夜のようにつづいた。自分の若い歌声が坂の腹に沈みこんでねている中年の女の耳にどんな風に伝わっているだろうかなどと、青年はゆめにも思っていまいが、千賀子はその若く張通る響きの強い声音から、逞しい咽喉の盛上る筋肉や鳶色に光る胸の隆起を想像して、不覚に涙ぐむことがあった。床の上げ隆ろしする力さえ萎えた自分を思うと、暗澹とするのである。別の二階で冷たい骨童品に囲まれて寝入っている勇と今更どう結ばって見たところで、どんな新しいゆめが孕まれるというのか。髪の毛の薄くなるのを気にし、老眼鏡をかけねば文字は見えず、義歯をぬき取れば口の中はがらん洞になる。眼鏡だの義歯だの、やがては他人の髪でつくった髢だの、肉体と別のさまざまなものを鎧兜のように身につけて、猶若く見せたい美しくありたいと渇くほど願う自分は、一体何ものなのであろう。
(妖)
お嬢様作家といわれていた円地文子。病気の問屋と書かれるほど病がちの一生であった。子宮がん、糖尿病からの網膜剥離、白内障、脳梗塞と次から次ぎへと入退院を繰り返したが、その病とともに作家としても次々とめぼしい賞を取っていった。昭和60年の文化勲章受章が最期になったが、翌年秋のこの日朝、付き添いの家政婦がごみを出しに行った数分後、急性心不全で安らかな死を迎えた。
この塋域には父「上田萬年之墓」、文子の長女素子の婚家「冨家家之墓」、文子夫妻の「圓地与四松 圓地文子墓」の三基がある。菩提寺は青山にあったが、文子の遺言により葬儀は無宗教で行われ、寺との確執の末に今の様子となった。荒れた周辺の雰囲気にいささか鬱がれた気分でお詣りしたのだが、訪れる人もないのか昨秋の落ち葉がそのまま塋域を埋め、その養土に夏草が喜として広がっていた。
