津島修治(1909-1948)
明治42年6月19日ー昭和23年6月13日 39歳 (文綵院大猷治通居士)
三鷹・禅林寺


 
私は散歩の途中、その道場の窓の下に立ちどまり、背伸びしてそっと道場の内部を覗いてみる。実に壮烈なものである。私は若い頑強の肉体を、生れてはじめて、胸の焦げる程うらやましく思った。うなだれて、そのすぐ近くに禅林寺に行ってみる。この寺の裏には、森鴎外の墓がある。どういふわけで、鴎外の墓が、こんな東京府下の三鷹町にあるのか、私にはわからない。けれども、ここの墓地は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救ひがあるかも知れないと、ひそかに甘い空想をした日も無いではなかったが、今はもう、気持が畏縮してしまって、そんな空想など雲散霧消した。私には、そんな資格がない。立派な口髭を生やしながら、酔漢を相手に敢然と格闘して縁先から墜落したほどの豪傑と、同じ墓地に眠る資格は私に無い。お前なんかは、墓地の択り好みなんて出来る身分ではないのだ。はっきりと、身の程を知らねばならぬ。私はその日、鴎外の端然たる黒い墓碑をちらと横目で見ただけで、あわてて帰宅したのである。
(花吹雪)

 昭和23年6月13日雨の深夜、愛人山崎富栄の部屋に二人の写真を飾って間に合わせの仏壇をしつらえ、遺書数通と「グッド・バイ」草稿を遺して、連日の雨で水かさの増した玉川上水に入水した。遺体はなかなか見つからずようやく6日後の19日早朝、入水推定箇所より2キロほど下流で二人の遺体は発見された。太宰治39歳の誕生日であった。その口元に細い麻縄がくわえられていたのが印象的であったという。

 本人の希望通り森鴎外の墓と向き合って建つその墓は井伏鱒二筆による「太宰治」の文字のみが刻まれていた。碑の両側にはつげが植え込まれ墓前には供えられたカーネーションの花が枯ればみ、かって密かに佇んだこの土の下に作家は眠る。多くの訪問者が、武蔵野の臭いを嗅いで過ぎ去っていく。私の影も寄る辺ない風となって、この寺の松木を巡り、やがてはその空に消えるのだろう。
「生きていたい人だけは、生きるがよい。人間には生きる権利があると同様に、死ぬ権利がある筈です。」
 桜桃忌6月19日禅林寺は人であふれる。