壇 一雄(1912-1976)
明治45年2月3日ー昭和51年1月2日 63歳 (能嶽院殿檀林玄遊居士)
福岡県柳川市奥州町・福厳寺

キリギリス牀下に入る、と云うけれども、ここは五階だ。そのどこの部屋の壁とはっきりしないが、窓壁にリリリ、リリリの、夜気を震わす思いつめたような声がある。
都会の真ン中、時たま聞えてくるのは自動車の疾走音、酔い倒れた男達の坤き声だ。
その都会の、空間と時間の不思議な裂け目の中に、まるで、にじみこむような声を上げるのである。
生滅というものがそもそも何であるか。
このキリギリスは、その無残をよく知っていて私にまっすぐ語りかけてくる心地がする。
時折、窓の外に音もない秋の稲妻があって、その稲妻の光りの蒼白に、こおろぎの追悼は哀しかった。
私は、たった一つ、この宿にぶら下げてきた風呂敷包みの古靴を取出しながら、そのカビだらけの靴を、はいてみるか、それとも棄ててしまうか、不決断な焦慮をもてあましている。
すると咄嗟に、
なーんだ! オレ、ヒトリボッチ!
私はいぶかしく、自分の身の周りを眺めまわしながら、今更のように、孤影悄然の、オノレの情況に気がついた。
そこで大アワテの思い入れになってみたが、いや待て! 今日が日まで、自分のヒトリボッチに対してこんなメザマシイ程の初い初いしさを、感じたことがない。
そうだ。あの古靴のなかに、啼いているコオロギを一二匹かくしこんで、思い切りよく、パリの安宿へでも、逃げていってしまいたい。あのパリの安宿へ向ってだ。
(火宅の人)
肺癌からくる激痛に絶えながら口述筆記に精魂を傾けた10日間、昭和50年最後の夏に壇一雄の全ては昇華した。慚愧であったか、贖罪であったか、着稿以来20年を経て「火宅の人」は最終章を閉じた。九大付属病院東病棟呼吸器科923号室、いまは冬の烈風がガラス窓をならしている。ひゅーひゅーと笛のように。「モガリ笛いく夜もがらせ花ニ逢はん」、絶筆となった色紙は死の5日前に書かれた。終の棲家、博多湾に浮かぶ能古島の明光、あるいは盟友太宰治の故郷弘前に咲く桜花、いずれにしても虚空をつかむような遠い遠い思いであったろう。年の明けた次の日に破滅派の作家、無頼の人は逝った。
川下りのどんこ船がゆるりゆるりと漕ぎだして行く水郷柳川。藩主立花氏の菩提寺でもある福厳寺山門をぬけると影絵のように開山堂があらわれた。炎天下に人影もなく境内は蝉時雨一色。堂裏にひときわ異色を放つ赤い墓があった。「石ノ上ニ雪ヲ 雪ノ上ニ月ヲ ヤガテ 我ガ 殊モ無キ 静寂ノ中ノ憩ヒ哉」と墓碑銘にある、草野心平揮毫の「壇一雄之墓」。26歳で死んだ前妻「律子」、14歳で死んだ「次郎」などと共に眠っている。あの憂鬱な修羅の日々も、荘厳な時が淡々と洗い流してしまったように。「この夢は 白い頁に折りこめ ああ この夢も 白い頁に折りこめ その頁頁 夢にくらみ 皎皎 皚皚 舞ひのぼるもの 遂に虚空に滿と」