有吉佐和子(1931-1984・昭和6年-昭和59年)
昭和59年8月30日歿 53歳(マリア・マグダレナ有吉佐和子)小平霊園



生きるということは、人の死を数々見送ることではないかと朋子はかねてから考えていた。人はそれぞれの母親から同じように生まれて同じように死ぬのであるのに、決して等しい寿命というものがない。朋子より齢上の者が死ぬばかりでなく、朋子より若くても死ぬものがあるたとえば、この常治の兄か姉に当たる子供は、生まれ落ちる瞬間に死んだ---。だが長く生きたからといって、人の死を惜しいと思わないときはなく、死は誰のものであっても、それは常に突然のことであった。つなの死。神波英公の死。野沢宗市の死。江崎文武の死。そして朋子の母親である郁代の死---。生きるということは、こうして身近い人の死を数々見送ることなのだ、と、たった今まで朋子は考えていた。それがどうしたことか、常治の無心に煎餅を噛む音を聞くうちに、朋子の胸の疼きは、次第にこれまでとは違う考えを持つようになって来ていた。
生きるということは、身近な者の育つのを見守ることではなかったろうか---朋子は翻然としてそう考えていた。常治の煎餅を噛む音は次第に間遠くなって、いつか彼は炬燵の上に俯伏して眠っていた。右手には、食べかけの塩せんべいを握っている。この無邪気な姿勢から、彼の生命の終り---死を想像することはできなかった。
  

 (香 華)



熱帯夜の続くその年の夏、死は突然訪れた。8月30日朝、6秒ほどの瞬時に起きた急性心不全だったという。熱い心で駆け抜けた53年の生涯であった。黒潮洗う紀州の熱い血が、天衣無縫の有吉に覆い被さって留まることを許さなかったように思われた。「ミーハー精神なくして、ものは書けません。」と言っていた紀州女の精神は、ミンミン蝉の声と一緒に昇天していった。



「マリア・マグダレナ有吉佐和子 昭和五十九年八月三十日帰天 五十三才」、「有吉家之墓」に刻されたその何気ない文字が遂には有吉の生命となった。私は思う。烈しく生きようと、静かに生きようと、豪勢に生きようと、清貧に生きようと、遂には一つの生命なのだと。小砂利のうえに足を置くと微かに「じょりっ」と音がした。