有島武郎(1878-1923)
明治11年3月4日ー大正12年6月9日 46歳 
多磨霊園 

 難者のいふ自滅とは畢竟何をさすだらう。それは単に肉體の亡滅を指すに過ぎないではないか。私達は人間である。人間は必ずいつか死ぬ。何時か肉體が亡びてしまふ。それを避けることはどうしても出来ない。然し難者が、私が愛した故に死なねばならぬ場合、私の個性の生長と自由とが失はれてゐると考へるのは間違ってゐる。それは個性の亡失ではない。肉體の破滅を伴ふまで生長し、自由になった個性の擴充を指してゐるのだ。愛なきが故に、個性の充實を得切らずに定命なるものを繋いで死なねばならぬ人がある。愛あるが故に、個性の充實を完ふして時ならざるに死ぬ人がある。然しながら所謂定命の死、不時の死とは誰が完全に決めることが出来るのだ。愛が完ふせられた時に死ぬ。即ち個性がその擴充性をなし遂げてなほ餘りある時に肉體を破るそれを定命の死といはないで何處に正しい定命の死があらう。愛したものゝ死ほど心安い潔い死はない。その他の死は凡て苦痛だ。それは他の為に自滅するのではない。自滅するものゝ個性は死の瞬間に最上の生長に達してゐるのだ。即ち人間として奪ひ得る凡てのものを奪ひ取ってゐるのだ。個性が充實して他に何の望むものなき境地を人は假りに沒我といふに過ぎぬ。
(措しみなく愛は奪ふ) 

 「計画され愛が飽満された時に死ぬ境地を、死を享楽するといふ境地を。‥‥僕ら二人は今次第に、この心境に進みつつあるのだ。」雑誌記者波多野秋子の夫から不義を責められていた武郎は、友人足助素一にこう語った翌ゝ日、大正12年6月9日早暁、軽井沢浄月庵にて秋子とともに情死と言う形で46年の生涯を終える。

 入口に背を向けて建てられた石碑には、武郎と妻安子のブロンズ浮彫胸像がはめ込まれていた。しかし、武郎の眼は逆光の陰りのなかで、遠くを想いやっているように見えた。
「目路のかなた屈辱の凡てをかいやる死を、我れの外なる凡ての人にはたゞ愚かな死を、その黒い焔のなかに親も子をも焼きつくす死を。‥‥おゝ生を容赦なくふみにじるその不可思議な生命を。」