有馬頼義(1918-1980)
大正7年2月14日ー昭和55年4月15日 61歳 (大有院殿謙山道泰大居士) 
東京都渋谷区・祥雲寺

 死んだような、底知れない静寂が、その辺りにはあった。木はあるが、蝉も鳴いていない。その静寂は、厚い層持っていて、地表をかたくおおっているようであった。何かが、その辺で動いていても、それは、そのゼラチンのような静寂を破ることは出来なかった。痩せた犬が一匹、尾をたれて、寺の本堂の前を、墓地の方へ歩いて行ったが、昔の映画のように、音を立てなかった。太陽だけが、人気のない、夏草のしげった上にふりそそぎ、はねかえり、あたりに充ちた。廃墟の街の中で、そこだけ焼けのこった古寺の名前は、祥雲寺と言った。江戸時代から、名刹と言われ、九州の大名の菩提寺であった。徳川三百年、十五代の将軍につかえたこの大名の、ほぼ徳川家と同じ位の代をかえた当主の、大部分が、その墓地に眠った。見上げるような、りっばな墓石が、およそ千坪の広さにちらばり、その横に、奥方や、夭折した子供たちの、少し小さい墓石があり、それをとりまいて、殉死した家臣たちの小さな墓石もあった。一族の墓は、百基あまり、墓地全体の三分の一を占めている。なぜ、その大名が、江戸の菩提寺に、この寺をえらんだのかということは、もはや明らかではない。大名は、寺の檀家のようでもあり、寺が、大名の一部分のようでもあった。しかし、そのことと、寺が、空襲でやけ残ったことは関係がない。そしていま、その寺のある場所の地表に、厚いゼラチンの静寂の層があることも、たぶん大名どもの墓とは関係がないのだ。五百キロ爆弾や、束になった焼夷弾を持って来なければ、この静寂は、破れないかのようであった。
(遺書配達人)

 旧久留米藩主父頼寧は戦後公職追放により全財産を差し押さえられ、言い知れぬ苦汁をなめたとはいえ、有馬家は有馬家である。16代当主有馬頼義の生涯はおおよそ華やかであった。と、映っていた。しかし生活のためカストリ雑誌に書きまくり、昭和29年には「終身未決囚」により直木賞を受賞したのだが、47年、川端康成の死に衝撃を受けたのであろうか、ガス自殺未遂を引き起こしたりもした。死地に足を踏み入れた精神の回復は難しく以後の8年は家族からもペンからも遠ざかり、昭和55年4月のこの日未明、脳溢血のため自邸で倒れているのを発見され、午後9時15分帰らぬ人となった。

 
閑静な住宅地を下って辿り着いた門前は雨の中にあった。濡れそぼった石畳の先、ゆったりと流れる大屋根の本堂は喧噪を寄せ付けないほど緊張感のある冷気が取り巻いていた。詩人北園克衛が眠るこの寺の小丘に筑後久留米藩主有馬家の墓はある。中央にある巨大な五輪塔は有馬家初代から16代までの合祀墓、黒田長政ほか十数家の大名墓群のあるこの墓地でも一際目を引いている。手前の墓碑銘に「大有院殿謙山道泰大居士」とあるのが有馬頼義その人の戒名である。波瀾万丈、許されぬ結婚をした千代子夫人も平成12年ここに眠る。