青山二郎(1901-1979)
明治34年6月1日ー昭和54年3月27日 77歳 (春光院釋陶經) 
東京・谷中・玉林寺


 例へば私を一度でも知ってゐる、總ての人の見た私が私だとしたら。それが正真正銘の私だと観念したら、私の人生の意義と言へるものは、人から何を求められてゐるか、どうみられてゐるかそれを如何に私が踊ったかに懸かってゐます。ひょっとこの踊りでも致し方がない、人の見た私が私の總てです。人の眼に隠れた何かの精神が、私の何処かに納ってある譯のものでも無ければ、人の知らない何かの内容を私が密かに温めてゐる筈もありません。そんな積もりで自惚れれてゐる姿は、たゞキザに見えるとはキザに見えると謂ふ言葉が見てゐる頭の働き方に過ぎないから、眼玉は本來そんな事柄を見てゐる筈がありません。
 積りとか、自惚れとか、思惑とかいふものは妄想に過ぎないから、勿論私でさえありません。萬人の眼玉が見たものはは眼玉で見たものです、それから來るいきさつはいきさつです。自家の犬は私の顔を見て、私の魂まで見抜きます。私の不貞の妻が私を誤解したでせうか。人に見られただけが私の總てだとすれば、人に買はれただけが私に出來る生活内容の總てです。
(眼の引っ越し)

 ジイちゃんこと青山二郎は昭和54年3月27日に死んだ。青山の名があるところ、必然のように「高級な友情」に繋がった小林秀雄、師弟として繋がった白洲正子の名があった。小林は言う、「僕たちは秀才だが、あいつだけは天才だ」と。「人が覗たれば蛙に化れ」という青山の言葉、俺だけがこの器の良さをわかる。人は蛙と見てくれればいい。外観に惑わされず、本物の中の本物を発掘するのが青山二郎の志したことと、青山の至福を白洲正子は観じる。死んだ人間の知ったことではなかろうが、「何もしなかった天才」の死こそ、「残念これに過ぎたるものはない。」

 小林秀雄がようやく世にでたころ、中原中也、河上徹太郎、大岡昇平、永井龍男などはまだ無名、のち「青山学院」と称すようになる希有な才能のサロンの中心に青山二郎はいた。人物評に長けた河上が記した「色白の、愛嬌のある顔をそのまま端正に磨きあげて、眼の光だけは鋭く、純真率直故に、人の嘘や気取りは誤りなく見抜く、といった風、およそ粋だとか通だとかいったこととは反対の傍若無人の天才」の眠るところ、谷中玉林寺墓地。陶工加藤唐九郎作になる古瀬戸風の骨壺に収まって、戒名と没年月日、俗名、享年が添えられた「青山家之墓」、陽が傾きかけた初夏の奥津城の中で、やがては緑蔭の懐に寂寒としてある風景のひとつとなった。