青野季吉(1890-1961)
明治23年2月14日ー昭和36年6月22日 71歳 

小平霊園



 しかして作家が自己を探求し、自己を批判するといふことは、云ふまでもなく彼の生活を土臺にして行はれるのである。その生活に立って彼は自己を觀、人生を觀、且つ人間を創造するのである。一人の作家の全的な理解のために、彼の生活の知解が重要視されるのはそのためである。しかし作家の生活と云ふ場合には、彼の限られた現實生活ばかりでなしに、無限のひろがりをもつ可能的生活もふくまれることを忘れてはならない。人間はじっさいに只一つの現實生活しか營むことの出来ないやうに運命づけられてゐるが、可能的にはいくつもの生活を生きることが、出来るやうに造られてゐる。
 特に優れた作家の場合においてさうである。
(散文精神の問題)

「わたくしは、作家や詩人になる野心も、まして批評家になる野心など、内にひそめてゐたわけではない。むしろさういふ存在として早くから自己を限定することを拒みつづけてゐた。そのまへに、先づ『人間になること』といふ觀念に支配されてゐたのだ。」という彼の青年期への感慨は、社会主義者として、文芸批評家としての存在を通しても、晩年においても、そのスタンスは純粋に変わることがなかったが、昭和36年6月22日、東京信濃町慶応病院で胃癌により没した。

 細い道すじの先、松の大木を巻きながら焚き火の煙がたなびいている塋域には、何か、明日香の巨石を思わせるような粗々とした石塊が待ちかまえていた。自署を刻したプレートが埋め込まれ、中央の円型の窪みはそのまま背後に飛び出していた。その塊の前には香立てのために小石が5、6個転がっていた。
「おのれを空しくせよ これおのれを失ふには非らず 全うする道なり」