安西 勝(1898-1965)
明治31年3月9日ー昭和40年8月24日 66歳 (法勝院乗願冬衛居士)
和歌山県伊都郡高野町・高野山大霊園

 木の椅子に膝を組んで銃口を鼻にする。蒼い脳髄で嗅ぐ硝煙の匂が、私を内部立体の世界へ導いた。
        
 私を乗せた俥は公園に沿うて坂を登っていった。曇天の下でメリイゴオランドが将に出発しようとして、馬は革製の耳を揃へてゐた。しかし私を乗せた俥は、 この時もう曇天を堕して坂を登り尽してゐた。

 私は遊離された進行に同意する。

 彼女は目を眠ってゐた。壁に垂れた地図に横顔をあてて。彼女の肩を辷つて青褪め韃靼海峡が肩掛のやうに流れてゐた。
 流れる彼女の眸子はいつも榲つてゐる。
 併し私は気にしない。
 私は構はずレッスンをとる。
 レッスンをとるために歩きまはる。
 歩きまはるために、私はたちどまる。さういふ私を彼女は始めて笑ふのだ。
 微笑がいきなり弾道を誘致した。弾道が彼女を海峡に縫ひつけた。
 次の瞬間、彼女の組織が解体するだらう。穿たれたホールから海峡が落下奔騰するだらう。その氾濫の中で如何にして自分は、自分自身を収容すべきであらうか。
 私は決意した。
 銃の安全装置を解す音は田舎駅の改札に似てゐる。
 銃を擬して、私はピッタリと彼女をマークした。

 すると一匹の蝶がきて静に銃口を覆うた。
(韃靼海峡と蝶)   

 昭和40年8月24日の夕刻が迫りはじめたころ、腎臓、心臓に加え尿毒症を併発して大阪・高槻市の大阪医大付属病院の病床にある安西冬衛の脳裏には、幻想の淵に沈むかのような薄ぼんやりとした死が訪れようとしていた。――てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った。――、「春」と題するこの一行詩は驚嘆すべき運命的なイメージを伴って詩人の名を喚起するが、晩年にいたって「強引に言葉と言葉を膠着させる。いわば梯子を取り外してあるのだ。しかし透明で一見ないようだが、ちゃんとぼくの梯子はかけてある。それが洞察できぬ人には、ぼくの詩は縁がないことになる」と断じた安西冬衛の感覚的な詩を理解することは、果てしもない暮色の道を歩んでいるような不安に駆られてくる。

 真言宗の聖地高野山、奥の院につづく参道の両脇には大木と歴史に名を馳せた武将の巨大な墓石がこれでもかというほどに並び連なっている。ようやくに抜けでた広がりは入道雲と青い空、蝉時雨、風はないのだが気は乾いて爽やかにさえ感じていた。夏に死んだ詩人の鎮まる「安西家之墓」、参道に居並んだ巨石群に比してなんと慎ましやかな碑であることか。霊園中央の供養塔は幾重にも天にのび、遮るものもない中空の美しい太陽に向かって、たった一つの意思を伝えるかのように封印を解き放とうとしている。