芥川龍之介(1892-1927)
明治25年3月1日ー昭和2年7月24日 35歳 (懿文院龍介日崇居士)
東京・巣鴨・慈眼寺

 彼は雨に濡れたまま、アスファルトの上を踏んで行った。雨はかなり烈しかった。彼は水沫の満ちた中にゴム引の外套の匂を感じた。すると目の前の架空線が一本、紫いろの火花を発していた。彼は妙に感動した。彼の上着のポケットは彼らの同人雑誌へ発表する彼の原稿を隠していた。彼は雨の中を歩きながら、もう一度後ろの架空線を見上げた。架空線は相変らず鋭い火花を放っていた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかった。が、この紫色の火花だけは、----凄まじい空中の火花だけは命と取り換えてもつかまえたかった。
(或阿呆の一生)

 辿れば芥川の死は予定されていたようであった。生後7カ月で母フクが発狂、生涯の苦悩の芽がはじまった。伯父芥川道章にひきとられ母の姉フキの手で育てられるが、「僕はどう云ふ良心も、----芸術的良心さへ持ってゐない。が、神経は持ち合わせてゐる。」という神経と、病弱な身体と、入りくんだ複雑な人間関係を持って生きてきた龍之介、「将来に対する、唯ぼんやりした不安」をもって昭和2年7月23日未明ヴェルナールを飲み、雨音を聞きながら「旧新約聖書」を枕頭に開き、眠りについた。神経の作家龍之介は、わずか十年に過ぎない文学的生涯を「自殺」という星の下に送り、送られて逝った。

 染井霊園の緩やかな短い坂道を下っていくと慈眼寺はある。司馬江漢や小林平八郎の墓のあるその墓地には、一時期論争相手であった谷崎潤一郎の分骨が納められた谷崎家の墓域もあった。墓々の露地を左に突き当たると、左手に芥川家之墓に並んで龍之介の名前を浮き彫りにされ、深い陰りを持った墓があった。上部がわずかな丸みを帯びた正方体の石碑の前に紅白の細身の花がすっきりと立ち、台石には線香のかわりに供えられた2、3本の煙草が燃え尽きていた。

 「人生は一行のボォドレエルにも若かない」