会津八一(1881-1956)
明治14年8月1日ー昭和31年11月21日 75歳 (渾斎秋艸道人) 
新潟市・瑞光寺


おほてらのまろきはしらのつきかげをつちにふみつつものをこそおもへ
あめつちにわれひとりゐてたつごときこのさびしさをきみはほほゑむ
あらしふくふるきみやこのなかぞらのいりひのくもにもゆるたふかな
やまばとのとよもすやどのしづもりになれはもゆくかねむるごくと
                                (南京新唱)
ひとのよにひとなきごとくたかぶれるまづしきわれをまもりこしかも
                                (山鳩)
わたつみのそこゆくうをのひれにさへひびけこのかねのりのみために 
                                (生涯最後の歌)

 
45歳で死んだ若山牧水でさえ八千以上の歌をのこしているのに、75歳まで長生きした八一がわずか千三十六首の歌しかのこしていない。近代歌人の中では寡作の歌人であったが、これは「自分の気分が索める調子」を実現するための作歌観からであったのだろう。その年の夏になってからは、体の不調を語り、鬱々とした日々が続くようになった。11月16日胃潰瘍で吐血、新潟医大病院に入院、悪化を辿り21日午後9時48分息をひきとった。翌朝、南浜に帰った遺体には自ら用意していた「南無阿弥陀仏」の袈裟がかけられた。一周忌に瑞光寺に建てられた墓に納骨されたが、東京・練馬の法融寺にも分骨された。

 冬の虹を見た。日本海の落ち込んだ雲の合間に幻のような光彩を滲ませていた。市内繁華街の三越から2、3筋離れた一角にあるこの寺の本堂右前に秋艸道人の墓はあった。一般墓地は参道左手にあるのだが、八一の墓のみが一基、特別扱いされていた。自分の墓、歌碑については明確な意志表示をしていたというが、清新な庭風にしつらえた塋域は満足いく仕上がりになったのだろうか。墓に背を向けた時、虹は消えた。