饗庭与三郎(1855-1922)
安政2年8月15日ー大正11年6月20日 66歳 (勧文院篁村清節居士) 
巣鴨・染井霊園


  朝には紅顔に誇れども夕には白骨となつて消えぬと伏鉦たゝいてチンと澄した和尚も腹が痛むとて俄かに買ひ藥を煎じさせ地震がすれば世直し萬歳楽それでも揺りが止まねバ跣足で庭へ駈け出して潰されぬ用心極楽へ田地の買置して釈迦如來に請判頼んだやうな顔つきでさへ斯くの如くに命は惜しきにまして況んや平生二一天作に屈托して其心構へなきもの卒去らばの際となれば狼狽周章牛分は己が氣で死を早やめるものぞかし光陰は走る箭の如くまた流るゝ水に似たり。

 この年の6月20日午後2時10分、「大阪朝日新聞」のために「近松門左衛門の事」執筆中、東大久保の自宅で死去した篁村は、別号を竹の屋主人、龍泉居士、太阿居士、南傳二などと使い分けた。彼の和漢の学識を、春の屋主人坪内逍遥は三馬、京山、京傳、馬琴ら以上であったと記している。

 
幸田露伴が坪内逍遥とともに「明治二十年前後の二文星」と呼んだ「饗庭篁村」の名を知る人はほとんどいないと思われるが、時代においては屈指の名家であった。屈曲した石塊に彫られたその筆に、頑強な魂を見る。 酒と珍書には目がなかったという篁村も、訪れる者とてない薄ら寒い墓地の片隅では、珍書を相手に酒を楽しむのも飽きたことだろう。