安倍能成(1883-1966)
明治16年12月23日ー昭和41年6月7日 82歳 (慈仙院学堂能成居士)
北鎌倉・東慶寺

かかる自己を以て人生に臨み、現実に接する。果してどれだけ人生に触れ得るであらうか。多くの外的経験を重ねることが、人生に触れることならば、詐欺師や泥棒は最も多く人生に触れて居なければならぬ。我等がしみじみと深く人生に触れると感ずることが出来るのは、我等が清新な心待を以て人生に臨む時ではないか。ただ現実に触れるといふことは、決して人生に触れ人生を深く経験する所以ではない。我等が人生に触れたいといふのは、むしろ人生に触れざることを示して居るのではないか。徹底せよといふのはむしろ徹底せざるを証するものではないか。充実したいといふのは、決して充実して居ることと同じではない。真面目になりたいといふのは、又真面目になることの難きをあらはして居るのではないか。我等は人生に触れない、せめて触れたいと思ふ意識でもつて、人生との触接を続けようとする。我等は充実して居ない、せめて充実したいと思ふ心で以て、充実したいとする。真面目でない、せめて自己の不真面目の苦き意識にも真面目を保ちたい。若々しき新なる心を失わんとする、之を痛ましく思ふ悲愁の心にも、せめて老人にない若さを託せんとする。しかもこれだけの充実、これだけの真面目も動もすれば保ち難いのではないか。
(自己の問題として見たる自然主義的思想)
一高の友人、『万有の真相は唯一言にして悉す、曰く「不可解」』の「巖頭之感」を遺して日光華厳の滝に沈んだ哲学青年藤村操。その妹、恭子と結婚した安倍能成は昭和41年6月7日、お茶の水・順天堂病院で亡くなった。堂々たる体躯から、歯に衣を着せない批評を放つことを信条としていたが、批判された側からはその人徳からか彼を疎んずる人は少なかったという。
安倍能成の墓は、読売文学賞を受賞した「岩波茂雄伝」の主である岩波茂雄の墓と、同じ漱石門下の野上豊一郎・弥生子夫妻の墓の間にある。岩波文庫の礎たちが眠る岩波横丁とよばれているこの筋の、霜土を踏み入った先に、寒椿の紅い花影が、斜光線となって、その五輪の塔の上部に映っていた。
