阿部知二(1903-1973)
明治36年6月26日ー昭和48年4月23日 69歳 
神奈川・春秋苑墓地


 汽車が昼過ぎに東京駅を出て、横浜をすぎ、相模の方までくると、私の眼にぱっと映ったものは春の季節の色だった。この薄曇りさえ、春のやわらかさであった。野には麦が青々と萌え、松の樹々もまだ芽吹かぬまでも、どことなく明るい緑の色調を持って若やいでいた。竹藪にはこまかな光がうるんでいたし、その傍には、白や淡紅色の梅の花が咲き盛ってかがやいていた。曇った空は底の方から、たまらなくやわらかな徴光を発してうるんでいた。光が、空にも、地上にも、しずがに流れながら次第に溢れてこようとしていた。「なあんだ。」と、窓に顔を寄せていた私は呟いた。昨日まで、いや、今が今まで、厳しい、冷たい蒼白な冬の真ん中にちぢこまって生きていたと思ったのに、もう外の世界は暖かな光であふれていたのだ。冷酷な冬は、あの一軒の家にばかり、爪を立てたように居残っていたばかりなのだ。そこから解き放たれたことは事実だ。----それからしばらくして、「おや、不思議だ。」とひりひりするこめかみのみみず脹れを撫でながらつぶやいた。
(冬の宿)

 三木清を題材にした「捕囚」は未完にになってしまった。昭和46年11月築地癌センターに入院。食道癌に侵されていた。翌年4月に退院するが、5月から「捕囚」は口述筆記になった。48年4月12日再入院、この日その口は閉ざされた。

 学生同人誌「朱門」の同志であった舟橋聖一は「阿部君は終始一貫、人気をひけらかすような作家ではなかった。」と記している。漆黒に磨かれた「阿部家」墓碑は、写真で見る作家の上品で柔和な眼差しと微笑みをたたえた口元に比して、碑面に写り込む風景を透かし返し厳粛に座していたが、白御影の延べ壇に、つい先ほど植え込みから切り落とされたばかりの枯れ枝が散乱し、あわただしい夕景が横切っていこうとしていた。