「私の師」

横浜にある老人ホームに行って、わたしの易のお師匠さんと会ってきた。

私の先生はいつも冷静な感情的にならない人なのに、今回はまるでちいさな子供のように、私が帰るのを何度も拒絶して嫌がられた。
『この人には、このまま夜までいてもらいますから!夕飯も出してあげてください!』と、老人ホームのスタッフに話す先生の態度は今までの私に対する話し方と全く違って、子供のようだった。
スタッフの人に私は気遣って夕飯なんてとんでもないです、と言おうと思ったが、私が気遣う以前にスタッフは先生をまともに相手にしなかった。
『夕飯を一食出すのはいいけれど、お金をいっぱい払ってもらいます!』
「いいですよ」
『金額は、僕が決めた金額を貰いますから、凄いたくさん貰いますよ!』
「いいですよ」
『僕が欲しい金額って、すごいいっぱいだから払えないですよ!』
「・・・・・・」
こんなかんじである。

先生の気持ちは嬉しかったが、先生のこんな会話が一生私の心に残りそうでせつなかった。
老人ホームの御老人は自力で立つ事も出来ない人ばかりで、車椅子に乗ったまま、頭を下にしたまま眠っているのかと思っていると、御老人達の車椅子が20分で10メートル進んで私が居る傍に近づいてくる。
毛虫の歩き方よりもゆっくりと車椅子が動いている。
御老人にとって、する事もないから時間が惜しいという事もないのだろう、近づいてきた御老人の手を見ると車椅子のタイヤを実にゆっくりと指で触っていた。
彼らの願い事の短冊を読むと、『年を取りませんように』「お願いだから会いに来て」『家に帰りたい』などというのばかりだ。
私の先生の短冊は無かった。

食事は全てみじん切りになっていて、ウドンまでもみじん切りだ。
先生は「うどんをみじんにしなければ喉にかかって死んでしまうならば、それはもう寿命がきたってことなのだから長いままのうどんを食べさせた方がいいのに、うどんは長いまま食べるのが常識です」とおっしゃっる。

スタッフ達は皆元気で若く、さすがにこういうところで働く人は心がけも
暖かい性格の人がほとんどのように見える。宗教ぽさがあるような、どこかの宗教団体の雰囲気もする。でも老人の話を心を向けて聞くスタッフは一人も居ない。老人の話はたわごとにしか思ってくれない。

私の先生は魅力的な話題をいっぱい持っているのに、誰も気付いてくれない。スタッフの人に先生の易について私が話した事があったが、相手にされなかった。もし私がスタッフとしてそこで働いていたら、どれほどの力があるのかキット占なわせてみせるのに。
先生の易の力は凄いのに、その凄さが眠らされている。
実力があっても目立たないままで人生が終わってしまう人も居る。

最近の私は老人ホームの御老人を知って、ぼける事や老化する事にとても恐怖を感ずるようになった。今歩いている自分、小走りに急げる自分を有難い事だと思う。
自力で生きる事が出来なくなる前に、わたしはさっさと死んでしまいたい。
でも、もし何も出来ないまま長生きしてしまって、みじんのうどんを食べさせられたり、誰にも必要とされない迷惑な老人となり、孤独のまま、なにもせずに死を待つ事になる人生を最後に経験しないといけないと思うと、今から惨めな気持ちになる。

私の先生は、この易を広める事に対して最近は賛成をなさらない。
このまま本筮ができる人がいないまま本筮が廃れてしまっても良いとおっしゃる。
広まれば、かならず亜流(ありゅう)が増えてしまう事を危惧されるからだ。
「一人だけしっかりと出来る人が育てば上出来ですよ、あなたのようにしつこく易に向かうようなお弟子さんはめったに出ないとおもいますよ。大概の人達は簡単じゃないとついて来ませんから。あなたぐらいに食らいついてくる人じゃないとこの易はできないでしょう。どうですか?あなたに教えて欲しいと頼みに来る人は居ますか?」
「ええ、います。でもわたしは25年もこの易をやっているのに遠近両用眼鏡を使う事が私にとって巽為風だという意味を、実際に眼鏡をかけて体験するまで、完全な理解を得る事が出来なかったとHPに書いたら、習いたいと希望するメールがそれまでは沢山来ていたのに、そんなに長くかかるなんてダメだって思ったというメールを貰ったりして、習いたがるメールもその以降ぴたりと止みました」
と答えると、先生は嬉しそうにクスクスと笑って、こくりと頷かれた。
『習っている人は一人も居ないのですか?』
『ほんの少し居ます』
「そう・・・・続かないと思っていたほうがいいですよ」

過去の先生の生徒さん達は、易を少し聞いただけで出来ると思い込んで、すぐに辞めて行ったそうだ。
頭が良いと思っている人ほど、要領だけ聞いて後は自力で出来ると思ってしまうらしい。「自分に自信がある人が易を極める所まで行くのは難しいです、自信は邪心につながりますから」これは先生の口癖である。

つまり自信がある人は、易の卦を自分の勝手な思い込みを信じて、そこから無理やり答えをひねり出して、こじつけて判断してしまう、之が一番いけない。自分の思いが易を読むのではなく、答えは自分から出すものではなく向こうから届くものである。
自分に自信があれば自分の思いにとらわれ、それが無心になれない原因となり、天からの答えが心に素直に入ってこない、これは先生の言葉であり、過去の先輩達の言葉でもあったそうだ。
私が易を続ける事が出来た理由は、私は自分の頭脳に自信を持てなかったからだと思える、そう先生に言うと、『それがいいことなのですよ』とおっしゃられた。
今度生まれ変わったら、賢い頭脳とこの何も考えられない社会性のない頭脳とどちらよいかと選択できたら、迷わず社会性のある賢い頭脳を選びたい。

だけど、来世の賢い私が、愚かな脳みその単純な人から易でアドバイスされたりするのはおもしろくないだろうな・・・。