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寝坊しました。陽があがる0400頃には出発しようと思っていたのですが、起きたのは5時。やはり疲れていたようです。
2002.05.29 な〜んとなく南さん
甲府市から韮崎市、清里高原と抜けて南牧村市の市庁前です。ゲーム「こみっくパーティー」の登場人物、牧村南さんの名前、ここから由来しているってことはないよなぁ?
2002.05.29 小諸城天守跡
0930。現在は懐古園と呼ばれている小諸城址にやってまいりました。この小諸城は、城下町よりも低い位置に立地しているという非常に珍しいお城です。
とりあえず天守跡に登ってみました。もともと天守閣が作られなかったお城ですが、それに該当する櫓があったようです。写真ではわかりづらいかもしれませんがサアラさんのすぐ後ろは10mくらいの断崖になっております。まぁ、天守の土台なわけですから当然ではありますが。ただ、この5m四方程度の天守跡には柵などは設けられておりません。やー。落ちたら死ねますよ? 東京付近では見られない大雑把な観光地でした。
2002.05.29 布引観音・観音様お堂を写す
1030頃。懐古園から車で10分。懐古園と並んで小諸市の数少ない観光名所のひとつ、布引観音です。「牛に引かれて善光寺参り」という言葉の由来となった観音様と布が祀ってあります。
ここは全国的に知られる諺の発祥地であるにもかかわらず、観光地としての体裁が整えられておりません。駐車場らしきものがほとんどないのです。無理矢理止めても10台くらいでしょうか。そして。その駐車場から石段で出来ている参道が延々と続くのです。ご存知の方もいらっしゃるかとは思いますが、私は現在、脚間接を病んでおります。リウマチ性のヤツですな。が、ここ数日は幾分か調子が良かったため、なんとなくこの神社の参拝に挑戦しました。そも、そんなに大変なモノだとは思っておりませんでしたので。でも。途中で無茶苦茶後悔しました。50mなのか100mくらいなのかよくわからなかったけど、足も止めずに30分近く登り続けました。かな〜りキビシかったです。幾度、途中で諦めて降りてしまおうと思ったことか。
息を乱し、間接をガクガク言わせながらついに参道を登りきります。ここが布引観音の神社前であります。この写真だけでも罰当たりですな。サアラさんと楓ちゃんの後方に見える赤い社の中に、御神体があります。岩壁伝いの道を使って行ってみました。
2002.05.29 布引観音・怪しげな記念碑?
この神社を造営した方々や団体の記念碑です。古いものは鎌倉期のものらしいのですが、私はこのような怪しげな形の碑は見たことがありません。私の見聞が狭いだけなのでしょうが、非常に珍しい。厳粛な空間でした。
写真ではわかりづらいのですが各記念碑は非常に大きい。地面から1m50cmくらいありますでしょうか。ほんに不思議な感じ。
さて。このあとに六地蔵とか閻魔様、閻魔様と同列にある恐い顔の爺様(すみません。きっと偉い人なのでしょう)の像とかの前を通り過ぎ、件の赤い社にはいる。牛に引かれて善光寺参りをし、観音様になったと言われるお婆様のご神体とご対面だ。そこでもサアラさんと楓ちゃんに一緒に写ってもらったのだが。
下のリンクの先にあるのが、その、非っ常に撥当たりな写真です。
いや、ここ数日の体調不全を考えるに、撥は既に当たっているのかもしれません。いや、むしろ憑かれてしまったか。
この写真はあまりご覧になるのをお薦めできません。
冗談抜きで失礼な写真なので、覚悟がある人だけ見てください。
万が一、ご覧になった方に撥が当たっても私は関知いたしません。
ご自分の責任で持って、写真をご覧ください。
本当に本当に冗談抜きで罰当たりなンだからね。
布引観音御神体の写真
御神体に参詣したあと、奥にあるという「石になった布」を見ようとするが真っ暗な岩室の中なので見えやしない。これは諦める。また、この岩室の先にも通路があり、この山の上に登れるということなのだが、岩壁伝いの通路は幅が1m程しかなく、当然のように柵などない。やー。今度も完璧に死ねますよ? それもガクガクしている自分の足が滑れば一発で。今日は良い陽気だから大丈夫だけど、風に煽られてもダイブできるね。大体、昔っからず〜っとこの観音様はあるのだ。絶対、何人か落ちてますよ? 死ンでるね。確信しているですよ。
ある程度まではこの危険な道を進んでみたのだが、途中、階段ではなくロッククライミングばりの岩梯子に行き当たり、登るのを諦める。登るだけならどうにかなりそうだが、降りてくる自身がない。この梯子を踏み外したら、勢い余って通路の外に飛び出しかねない。
そして。登ってきた参道を間接をギシギシいわせながら汗だくで降りた。下に降りきった時、その疲労に残りの旅程はどうでもよくなった。
ブタ缶の缶コーラを久々にイッキ飲みし、温泉ガイドマップを見る。おお。近くに布引温泉というのがあるらしい。それだ。汗だらけのお洋服を着替えよう。
2002.05.29 国民年金健康保養センターころも
布引温泉である。脱衣場からちょこっと写す。
この辺の露天風呂ってどこもこんなに見晴らしがいいのん? だって健康保養センターだよ? 利用料400円だから銭湯より安い。露天風呂につかって正面には浅間山。これまた最高でっす!!
もーね。布引観音登頂の疲労も手伝ってこの露天でまったり。もう動きたくない気分。
一時間以上いたンじゃないかなぁ? いいお湯でした!!
2002.05.29 手打ち蕎麦
1400頃。旅行開始以来2度目の食事。なんだろーね。腹、減らないンだろうか。どうやら疲れると食べなくても生きていけるらしい。暫く旅していれば脂肪、少しは減るかな?
2002.05.29 ドライブ風景を写す
ご覧のとおりの状態でのドライブでした。かなり、キてます。(笑
直射日光はなるべく当てないようにしていたンですけどね。角度とかによっちゃあ結構、熱かったかも。
小諸市は布引観音から上田市へ。池波正太郎真田太平記館は休館日だった。次いで十倍の兵力の徳川勢を2度にわたって押し返したと言われる、戦国時代最高の謀将、真田昌幸の上田城に寄った。が。現存する城跡は徳川政権時代に仙石秀久が作り直したモノなのだな。真田石と呼ばれる巨石は残っていたものの、これではなんかイメージが違う。一気に撮影意欲を削がれた私は最終目的地、松代の川中島古戦場へ向かったのでした。
2002.05.29 なんにもねぇ。
1630。川中島古戦場。川中島合戦記念館。ここいら一帯、全部が川中島なのでどうにもまとまりがない。この公園が一応の目安らしいが、社と記念碑と後ろにある「謙信・信玄一騎打ちの図」くらいしかない。一通りカメラに収めていく。他には大きな第四次川中島合戦の説明図があったので、ルビのふり方にオタクらしく独り言で文句をつけてマニアな心を満足させた。
一応、ここが今回の旅の最遠到達点。走行距離550km。
2002.05.29 真田本城
川中島古戦場から東京方面に30km。真田村へ。道に迷いながらも、真田本城跡に辿り着く。真田さんはこの一帯のヒーローで、川中島まわりからこのあたりまで、真田氏に関する史跡・博物館の類はものすごく多い。なんにでも冠頭詞の如く「真田」がついてるし。真田クリニック、真田ベーカリー、真田運輸。にもかかわらず、この真田本城跡の扱いの悪さったら。
無茶苦茶辺鄙な所だし開発のしようがなかったのだろうが、全く問題にされていない。車一台通るのがやっとの坂道を延々と登り、私道のような田舎道を抜け、車5台止められるかどうかの未舗装スペースに車を置いて城跡へ。ご覧のとおり物凄い。
2002.05.29 山城
これが山城なんだねぇ。本当に山の尾根にできている。これまた右も左も前も絶壁。登ってきた南斜面方向だけが立って歩ける程度だ。当たり前なンだけどね。お城だったンだから。しかし。ここならまたまたいつでも死ねますよ? 凄い。
こりゃあ確かに難攻不落だわ。下から攻めることなんて恐ろしくて考えられない。でもこんなお山の天辺に陣地を構えてナニをするンだろう? とか思っちゃう。いや、わかってはいるのだが、あまりに不便な気がするので。
この近隣には有名な砥石城を初めとする城砦跡が散在し、ここからでも見渡せるのだが、これと同規模の城を落とし続けた真田幸隆って武将は本当にスゴイと思うですよ。武田信玄は自分で落とせなかったからこそ、幸隆を重用したわけですが、現代の眼でみてもその物凄さが実感できます。
2002.05.29 真田館跡
真田本城から数分。真田館跡。これまた随分、保存状態っつーか公開状態が悪い。真田町のヒーローに対して、尊敬の念とかが足りないように見受けられる。まぁ、地元の人の思惑など、わかるわけもないのだが。
上にあるのは館跡地にあった看板。
2002.05.29 真田館跡そのに
ゴルフ練習禁止とかいう看板があるかと思えば、上の写真のように敷地内にゴルフのホールがあったりする。これ、カップも完全に埋め込んであるし、随分しっかりと設置してありますよ? 林の中からはクラブでゴルフボールを打つ乾いた音が響いてるし。もうちょっとなんとかなりませんか。あんまりですよ。
1830。このあと、千葉への家路につく。碓氷峠での運転は奈落に落ちていくような気分でした。自分のヘッドライトと前を走る車のテールランプだけの世界。クネクネと曲がりながら降ること数分間。催眠暗示でもかけられている気分。途中で寝るわけにもいかず拷問を受けている気分でした。
R18からR17に乗り換え、途中2時間の休憩を挟んで千葉に帰宅。作戦終了時刻0330。丁度丸二日、48時間の作戦でした。
総走行距離870km。
最遠距離、松代からは320km。仙台までが400kmだったことを考えると随分と近いですな。
そして、またまた、二日間眠り続ける私がいたのでした。
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