中行説

    

 冒頓単于の跡を襲った老上単于から文帝に寄せられた公式書簡に、漢朝の官僚たちは狼狽した。新単于の老上は、劉邦が手を焼いた冒頓以上に兇暴な人物だ、という噂が漢に伝わっていた。送られてきた書簡に、一尺二寸の板が使われていたことは、その噂を裏付ける格好になった。
 漢は、単于に書簡を送るにさいして、一尺一寸の板を使い、文面は「皇帝謹みて匈奴の大単于にご挨拶する。恙なきや。……」と書くのを常としていた。朝貢関係にある場合、朝貢国からの書簡には、一尺の板が使われるのがふつうである。この時期、漢と匈奴の関係は、互いに朝貢関係にない。対等の関係にあることから、匈奴王は、それまで漢王と同じ一尺一寸の板を使った書簡を送ってきていた。
 それが、今回寄せられた書状には、一寸大きな板が使われていたのである。大きかったのは板だけではなかった。印章や封泥も、すべて漢が使うものより一回り大きいものが使われていた。文面も従来のものと違って、「天と地より生まれ、日と月によって定められた匈奴の大単于はご挨拶する。恙なきや。……」という書き出しで始まる尊大な書き方がされていた。わずか一寸の違いとはいえ、中華を自認する漢帝国にとって、それは許すべからざる屈辱を意味していた。議論は沸騰した。
「かような屈辱に甘んじる所以はない」「断じて膺懲すべし」とする主戦論をかまびすしく唱えたのが文官であることが、いつもと違っていた。実績のある軍人たちで、強硬意見を述べるものがほとんどいない中で、もっとも強硬に主戦論を主張したのは、ふだんは戦闘とはおよそ無縁なところにいる博士たちだった。かれらは遠く夏段の時代に遡り、滔々と中華の意義を説き、「匈奴を膺懲すべし」と主張した。博士たちの故事来歴を披歴しての応援演説に力をえて、文官たちは競って匈奴膺懲を主張した。軍人の中でこれに呼応したのは、血気にはやる若手軍人の一人ふたりだけだった。その一人ふたりも、大将軍たちにひと睨みされると、おしなべて口を閉ざしてしまい、二度と口を開くことはなかった。

 公式の場で正規の議題になることはなかったが、非公式の場では、もっぱら誰が単于にこのような知恵を付けたのかが問題にされた。犯人探しがそこここで行われ、心当たりがあるものは寡黙になり、犯人と無縁なものは雄弁になった。

    

 長安宮全体を巻き込む大騒動のなかで、張沢は自分はその圏外にいると信じて疑っていなかった。かれの関心は、ここ十数年にわたって維持してきた宦者令の位置を、どこまで守り切れるかの一点だけにあった。
 宦官の大半は自宮者が占めていた。
 宦官になるには二つの経路があり、宦官には二種類の人間がいた。
 捕虜となり、あるいは罪を着て本来なら死刑になるところを、為政者がその才能を生かしたいと考える場合、罪を一等減じることと引き換えに宮刑に処することがある。自裁する道を選ばず、屈服の途を選んだという意味からいえば、かれらはすでに人ではない。人ではなくなった人間は害をもたらさないという発想から、為政者はかれらを側近として重用した。
 飢餓と背中合わせの日常にあって、生きることがすでに人として生きる限界を超えていると判断した人物が、どうせ人として生きられないなら、せめて衣食住だけでも人並み以上の暮らしを、と考えた挙げ句、自らの意志で宦官の道を選ぶことがある。自分の意志で宮を選ぶゆえに、これは自宮と呼ばれた。
 もともと、人並みに生きたいということから絶望の果てに選んだ自宮者の中には、まれにではあるが野心家が存在した。同じ宦官の身であるにしても、なれるものなら宦官全体を束ねる宦者令になりたい、と考える野心家同士の陰湿な暗闘の中で、張沢はこの十年以上にわたる日々を宦者令としての位置を維持してきたのである。
 この男なら自分の足を引っぱるまいと見て引き立てた宦官に、少しでも野心があると見たら、容赦なく切って捨てることを張沢は厭わなかった。ほんの少し気を緩めただけで足を掬われかけ、片足立ちでかろうじて巻返したこともしばしばだった。讒言と讒間には、それを遥かに上回る誹誘と中傷で切り返してきたし、讒陥には讒陥をもって対抗し、かれは相手を蹴落としてきたのである。

    

 単于に知恵を授けた犯人の見当が付かないままに、その年は暮れた。
 犯人の名は、意外なところから浮かび上がってきた。
 翌年になって、単于への答礼に発った使者の帰朝報告から、犯人と思われる人物の名が初めて明かされたのである。

 単于の書簡の様子から、今回の使者はあらかじめ困難が予測されていた。案の定、代郡から長城を越えて単于の王庭に入った使者は、訪問の冒頭から難題を突き付けられることになった。
 王庭には宮殿はなく、単于は穹廬と呼ぶ天幕に居を構えており、外国の使者は正規の使者であることを示す証拠を提示すると共に、顔に入れ墨をしないかぎり天幕の中に入ることは許されないのが慣習だった。漢の使者だけは、漢が強国であるために、その例外の扱いを受けていた。
 しかし、穹廬を前にした漢の使者を待っていたのは「今後はいっさいの例外を許さない。それが嫌で拒否するのは勝手だが、その場合には単于との謁見も許さない」という威丈高な命令だった。
 双方の面子を賭けた押し問答が繰り返され、解決の糸口が付かないままに事態が膠着しかかったときに、頃合いを見計ったように登場した人物がいた。その男は胡服こそ着ているものの、靴りのない漢語を使って使者に話しかけてきた。
 歯切れのいい漢語を聞いて、この男ならいくらか話が通じるはず、と安心した使者団に、男は頭から冷水を浴びせるような恫喝を加えた。
「面子を守ろうとするのは使者として殊勝な心掛けだが、現在の匈奴と漢の力関係を少しでも考えたなら、ここは譲る以外にないことがわかってよいはずだ。それがわからない使者は、使者として失格である」
 同族と見て安心した使者団の心の間隙を突いた男の恫喝は、見事に使者団を震え上がらせた。使者たちは反論することすら忘れ、鶴鵡返しに匈奴の言い分を飲まされてしまった。

 事が決着したあと、われに返った使節団は、気を取り直し、せめても失点を取り戻そうと男の素性を探った。答えはすぐに得られた。
 男の性は中行、名は説、先に内親王が単于に降嫁したさいに、守役として随行した宦官であることがわかった。

    

 ほかならぬ大漢帝国を愚弄し、嘲笑しまくった影の黒幕が、漢の元宦官だとは誰もが想像しなかったことだった。議論は必然的にこの責任の所在を問う形になり、張沢はいっきに政争の渦の中に叩き込まれた。

 晋の六卿の一つに中行氏がある。春秋時代の末には盛況を誇った名家だが、戦国時代に入る前に、同じ六卿の一つ范氏と共に滅びてしまった家である。中行説は、その中行氏の末裔であるという触れ込みで張沢の前に現れた。
 自宮の宦官は地縁と血縁を頼りに師弟の緑を結ぶ。中行説の場合、同じ燕の出身ということで張沢を頼って弟子入りを希望してきた。
 中行氏の末裔であるという説の主張についていえば、すでに三百年以上前に滅びてしまった家である。証拠を出せといわれても、誰もそれを示すことはできない。本人の言を信じる以外に根拠はないのである。
 中行説の言を丸ごと信じたわけではない。が、張沢はかれの弟子入りを認めることにした。同じ宦官でも、氏素性が卑しいものに比べれば、本人の言以外に信じるものがないにしても、貴族の末裔であることはそうでないものに比べて、はるかに有利であることはいうまでもなかった。それ以上に、宦官として出世するためには、知識と教養が必要だった。貴族の末裔であると主張するということは、知識と教養を兼備していると主張することでもあった。そういう宦官を弟子に持つことは、師の権威を飾ることになる。優秀なそして従順な弟子をどれほど多く抱えているかが、宦官として出世できるかどうかを計る秤でもあったし、弟子の数はそのまま師の収入につながってもいた。

    

 中行説は張沢にとって、もっとも優秀な弟子だった。師をのり越えて蹴落とそうなどという素ぶりは、微塵も見せなかった。張沢が見るかぎりの中行説は、満点を与えて余りある弟子だった。張沢は、中行説を自分にとって得難い人物として信頼し、引き立てもした。中行説が張沢の側近筆頭になるのに、そう多くの時間は要らなかった。

 高祖・劉邦の死後、呂后は政治の実権を握った。実権を握った呂后は、次々と劉氏を権力の場から追放し、呂氏一族で政権を固め、後宮にありながら事実上の皇帝として君臨した。張沢は、この呂后に擦り寄ることによって宦者令の位置を確保し、宦官の頂点に立ち、その地位を維持してきた。
 その呂后が死んだ。
 張沢の地位との関係でいえば、そのまま呂氏一族が権力を維持し続けるならば安泰である。しかし、もしかれらが呂后の死を契機に失脚するならば、かれらと運命を共にしなければならない。そういう微妙なところで、張沢の立場は揺れていた。
 劉氏の一族は中央の権力から遠避けられているとはいえ、地方に健在だった。うわべこそ呂氏に忠誠を誓っているものの、本心は計り知れない創朝時の功臣も、権力の一端を担っていた。当面は呂氏に忠誠を誓うにせよ、それまでのように深入りすることは避けなければならない情勢にあった。
 そういう情勢であることを十分承知のうえで、宦官という立場上、張沢には洞が峠を決め込むことができなかった。ほんの少し忠誠を疑われただけで首が飛ぶ。これが宦官が置かれている位置である。心底から擦り寄っていても、それだけで十分という保証がないのが宦官の宮仕えの特徴だった。表面で忠誠を誓いながら、その実、裏側で異心を抱くなどという器用なことができるほど甘くはないことを、張沢は経験を通して熟知していた。
 張沢の生き延びる道は、それまで以上に呂氏一族に忠誠を誓うこと以外になかったのである。呂氏一族と運命を共にする気概で肩入れした結果、張沢は自分が情勢を的確に読み通す力を失っていることに気づかずにいた。それを土壇場で救ってくれたのが、中行説だった。
 陳平を初めとする反呂氏のクーデターが、なかば勝利の兆しを見せていたにもかかわらず、張沢は旗幟を鮮明にすることができなかった。情勢を読めないという以上に、張沢にとって第二の天性になってしまった臆病なまでの慎重さが、かれの決断を縛っていた。
 躊躇する張沢に最後の決断を迫ったのは中行説だった。説の強力な助言があって、やっとのことで張沢は反呂氏に踏み切ることができたのである。それは遅きに過ぎた決断だったが、かろうじて呂氏と命運を共にすることだけは免れることができた。張沢にとって、宦者令の地位を維持できたことは、最大の恩賞だった。
 中行説は、張沢にとって右腕として頼む下僚になった。

    

 頼むに足る部下として重用すればするほど、張沢にとって中行説は目障りな存在になるのが時間の問題だった。ここに不幸の源があった。事態がこのまま推移するかぎり、自分の足元を掬われかねない――そういう危機感に張沢は駆られた。かれは機会を待った。
 その機会は、思ったより早くきた。
 老上単于の即位にあって内親王の降嫁が決まった。有能な宦官が守役として随行するのが慣例である。張沢は迷わず中行説を守役に推輓した。よほどのことがないかぎり、宦者令の推輓はそのまま皇帝の命令になる。この場合も、そうなった。
 いちど発令された人事が覆されることはなかった。まして一介の宦官の人事である。反抗したところで、どうなるものでもなかった。そのことを知らない中行説でもなかった。しかし、その中行説が、公然とこの人事に反抗したことは張沢にとって意外だった。
 中行説の抵抗は激越だった。かれは匈奴行を拒否した。そして、それが入れられないとなると張沢に向かって嘯いた。
「あくまでもわたしを行かせるというなら、行きましょう。しかしそれは、漢にとってもあなたにとっても、災厄になることを覚悟しなさい」
 人事に不満は付きものである。とはいえ、これほど激しい反抗は、気質において荒いといわれる軍人でも、滅多やたらに見られるものではなかった。思ってもみなかった中行説の反抗に、張沢は困惑した。困惑し、たじろぎながら、張沢は自分の判断が正鵠を射ていたことに自信をもった。その自信が、かれの弱気を支え、中行説の恫喝を無視した。
 中行説がいなくなって、張沢は自分が久しぶりにゆったりした気分を味わっていることに気づいた。そして、どれほど中行説が重荷になっていたかを、改めて知らされた。

    

 中行説が漢にとって災厄である以上に、張沢にとって厄病神であることを知らされたのは、中一年置いて次の使節団が帰ってからのことだった。

 使節団は選りすぐりの雄弁家を揃えて匈奴の地に赴いた。かれらの目的は外交上の目的以上に、中行説を懲らしめることに置かれていた。
 勢い込んで単于の王庭に乗り込んだ使節団を、中行説はたった一人で迎え受けた。
 両者の論戦は、どう控えめに採点しても、漢の使節団に分がなかった。中行説は、終始論戦の主導権を握り、議論を押しまくった。

 口火を切ったのは漢の使者だった。
「先祖を敬い、長上を尊ぶのは子孫の務めである。聞くところによると、匈奴では壮者のみが美食をもっぱらにし、老人を粗末に扱うというが、これは先祖を賎やしめ、ないがしろにすることに他ならないと思うがどう思われるか」
「お説はもっともである。しからばお聞きするが、貴国では国境守備隊員として出征する兵士に対して、年老いた親が自らの冬着やとって置きの食料を持たせないとでもいうのだろうか」
「いやさようなことはない」
「匈奴では戦闘をもって国の根幹にしていることは、あなたがたもご存じのはずだ。漢とは違ってこの国では、すべての国民がそのことを自覚している。老人や病弱者は戦闘ができない。だから、かれらは壮健な若者に自らの衣食をすすんで譲るのである。そうすることによって、かれらは自らも国を守る行為に積極的に参加しているのであり、その結果、父子孫孫、いずれも身を永らえることができているのだ。どうして匈奴が老人を粗末にしているなどといえよう」
 先陣を切った漢の使者の気負い込んだ追及を、中行説は軽くかわした。中行説に軽くかわされた漢の使者は、攻撃の的を人倫の一点に絞って次の攻撃を仕掛けた。
「匈奴では、父と子が同じ天幕で起居を共にする。父が死ぬと継母を妻とし、兄弟が死ぬとその妻を自分の妻にする。衣冠束帯の礼装はなく、朝廷における礼式もない。総じて、上下老幼の人倫がどこにあるというのか」
「匈奴の習俗では、人は家畜の肉を食い、その乳汁を飲み、その皮を着る。このように匈奴の生活と家畜とは一身同体の関係にあり、家畜は草を食み水を飲むから、季節に応じて移動しながら生活し城を構えない。戦時には騎射をもっぱらとし、平時に無事を楽しむ。かような習俗にあるために、その法制は簡略であり実行しやすくできている。君臣関係も形式にとらわれないから、一国の政治も一身を修めるに等しい。父や兄弟が死ぬと、その妻をめとって自分の妻にするのは、家系が途絶えるのを恐れるからであってけっして人倫を外しているわけではない。だから匈奴は多少の混乱はあっても、かならず同宗同種のものを王として立てることができるのだ」
「わが国の先哲である孔子は、礼楽こそ人倫の極みであると述べておられる。衣冠束帯の礼装なしでなんで臣下老幼の礼が守られるというのか。また、父兄の妻をめとることがなんで人倫に叶うといえるのか」
「異なことをいわれる。貴国ではうわべこそ父兄の妻をめとることをしていないが、そのことによって親族の間がますます疎遠になり、ひいてはたがいに殺し合い、異姓に鞍変えすることもしばしばではないか。礼楽を勉強する結果、臣下の関係は硬直し、上と下は互いに怨み合って憚らない。競って住む家を豪奢に飾り合い、果ては生活の糧を損じても止めない。農耕や養蚕に努めて衣食を手に入れるのはいいが、そのために人民は戦闘に習熟しておらず、平時には疲れ切っている。ひらひらした冠や衣服で飾ることが、いざというときに何の役に立つというのだ。それにあなたがたはもっとも肝心なことをお忘れのようだ。ここはあなた方の国なではなく、匈奴の支配下にある。孔子というお方がどれほど偉い方か知らぬが、それは貴国でのこと。わが国にいかなる関係があるというのか」
 議論はこれで終わりである。それでもなお食い下がろうとする漢の使者の発言を無視して、覆いかぶせるように中行説はいった。
「偉そうに礼楽などとのたまったところで、しよせんその程度のもの。他国に来てまで威張れることではあるまい。漢に習俗があるのと同様に、匈奴には匈奴の習俗があるのだ。だいたいが土の家に住む人間は口数が多すぎる。他国のことに嘴を挟む暇があるくらいなら、自分の頭の上の蝿を追い払いなさい」

    

 最初の危機を、関係各方面に大量の賄賂を送ることによってかわした張沢は、二度目の危機にさいしても、同じことをしなければならなかった。いまの地位さえ維持できれば後はなんとでもなる、と考えたうえでの決断だった。
 贈賄が贈賄として奏功する条件は、唯一つ、贈られた側の琴線にいささかでも触れることにある。が、賄賂が日常になっている宮廷にあっては、生半可な金品では人の心を動かせない。一度目よりも二度目、二度目よりも三度目と、回を重ねるごとに質量を増してこそ贈賄は功を奏するのであって、その逆はけっしてあり得ないことを、張沢は誰よりも良く知っていた。
 張沢は、ためらうことなく全財産を投げ出した。かれはそういう自分のしたたかさを、中行説が目の前にいたなら、自慢してやりたいと思った。しかし、張沢がいささかでも溜飲を下げることができた時間は少なかった。
 財産としての子どもをもてない宦官にとって、蓄財だけが唯一の生きがいであり、また、老後の保証でもあった。それをすべて失ったいま、職にしがみつく以外に張沢が生きていく術はなかった。しかし、使節団が匈奴に行き、そこに中行説がいるかぎり、張沢の災厄は続くことが予測された。
 次の年の使節団も、中行説に論戦を挑んだ。かれらは前にも増して完全に打ちのめされて帰ってきた。二度にわたる散財で、張沢の蓄えは尽きていた。三度目をやりおおせる自信は、なかった。

    

 文帝の後三年、老上単于が死に、子の軍臣が単于の位に就いた。新しい単于も、前王を引き継ぐ形で中行説を登用した。新王を祝う内輪の祝宴が開かれた。

 祝宴に連なりながら、中行説の心の中は複雑に絡み合っていた。
 宦官として生きる決断を下したときから、中行説は立身を考え、そのために必要と思われるあらゆる手を尽くしたつもりだった。張沢を甘く見たわけではなかったが、かれを自己の籠中に収め得たという自信は、あった。いまにして思うに、それが落とし穴だった。人の顔色を伺うことをもっぱらとして生きてきた張沢に、猜疑心を抱かせずに済ますことなど、初手から不可能なことだったのかもしれない。
 いずれにせよ、そういうことは、もうどうでもいいことだった。かれの関心は、とうの昔に、そういうところにはなかった。

 祝宴は続いていた。
 漢の貢物攻勢は凄まじかった。これでもか、これでもかと、大量の絹や宝石、山海の珍味珍品を贈られてきた。その量は驚くほどで、昨今は貴族はむろんのこと、配下の一兵卒までが絹のスカーフを首に巻くありさまだった。その結果、漢様の華美を慎み、胡風を維持してきた匈奴の伝統が、少しづつではあるが剥ぎ取られつつあった。
 人一倍計算高いことで知られる漢族が、得ることが少ない取り引きをするはずがなかった。
 漢の狙いは、大量の貢物攻勢によって匈奴の警戒心を解き、あわせて日常生活の中に漢風を持ち込み、かれらの荒々しさを削ぐことにあるのは、明らかだった。新単于を初めとして、居並ぶ貴族たちが身に付けあるいは手にしている飾りものや食器、果ては酒肴にいたるすべてが、漢様に侵されていた。軍事上の劣勢をこういう形で解決しようとするのは漢族がもっとも得意とするところであり、それ自身が千年を超える歴史をもっていた。説にはそれがわかるだけに、焦立ちが募った。
 中行説は、匈奴の地に落ち着くと、単于に進言してかれの側近を集めさせ、文字を教え、記録することの必要性を説き、計算して課税することを覚えさせた。漢の官僚組織では自明のこれらの知識が、ここではすべて新しい知識だった。弟子たちは競って説の知識を吸収しようと務め、かれもまた教えることに無上の喜びを覚えた。自分を捨てた漢に対する復讐が動機で始めた行為が、当初の目的を外れ、かれ自身の生きがいになるのに多くの時間は必要なかった。説は、復讐の目的を遂げるためにも、匈奴と最後まで付き合う決意を固めた。
 匈奴の中には、中行説のほかにも帰化した人物が数多くいた。
 かれらは、戦闘で捕われ、あるいは、戦局を不利に導いたために罪に問われることを恐れて投降した軍人が多く、説のように漢から捨てられた者は少なかった。程度の差はあれ、かれらは漢に対して少なからぬ負い目を感じており、そのことがかれらの行動を規制していた。かれらは、おしなべて「技術や知識は売るが魂は売らない」という姿勢を保とうとしていた。
 そこには、捨てた者と捨てられた者の違いが、厳然としてあった。その埋めようのない隔たりが、説に帰化人の間での孤立を強い、より深く匈奴の側に踏み込ませる結果につながっていた。それは、説が単于に重く用いられる原因につながってもいた。

 肩入れを始めてみると、それまではまったく異質な、およそ文化と呼べるものなどありえないと思っていた匈奴の日常の中にも、かれらなりの文化が、しっかりと根づいていることに、中行説は気がついた。それは粗剛であり、原始的であり、つねに獣の臭いが付きまとっていた。しかし、なによりも簡便であった。
 着替えずに眠れ、起きたそのままの服で単于に謁見し、狩りの伴をするうちに、説は獣の臭いが気にならなくなった。それだけでなく、獣特有の生ぐさい臭いが、風に晒されあるいは発酵する過程で、得もいわれぬ芳香を放つことを知った。
 このような発見は、説に旧来の価値観の転換を強要した。
 思い切って価値観を転換してみると、いままでは見えなかったものが、面白いように透けて見えるようになった。匈奴が精強である源泉は、漢風の堕弱を頑なに拒否してきたことにあり、いったんそれを受け入れるや否や、たちまちのうちに枯れてしまうだろうことも、見えた。
 匈奴の世界に身を置いたからには、その危機を警鐘し続けることがかれの責務である、と説は考えた。
 ときには、漢から贈られた絹服を身に付け、説は自ら馬を駆って草原を疾駆した。華麗な絹の服は、大草原に群生する喬木の茨に刺され、露と砂挨にまみれ、たちまちのうちに襤褸と化した。そのぼろぼろになった絹服を掲げて、かれは単于に胡服の優位性を説き、華美に流れる風潮を諌めた。
 はじめのうちこそ効果があったこの実物教育も、ここ数年は効き目が薄れ、うわべはかれの説にうなづきながら、そのじつ、無視されることが続いていた。
 この祝宴は、その典型だった。

    10

 新単于の即位が公表されると、匈奴の群れは、新単于誕生の祝宴に参加するために、単于の王庭を目指して移動を開始した。各地に散らばる群れは、一族を糾合し、それぞれの家畜を引き連れ、あるいは東は海に迫る領域から、そして西は中央アジアの奥地から、王庭に集まってきた。一望、見渡すかぎり人っこ一人見当たらない大草原の、どこにこれだけの人がいたのかと思わせる光景だった。
「湧く」という表現以外に、ことばでは表しようがない、と中行説は思った。
 満月の夜を期して開始された祝宴は、延々と次の満月の日まで続けられる予定だった。
 祝宴が開始された後になっても、人と馬と羊の群れは、絶えることなく続いていた。
 昼は、遮るもののない陽光を受けて、競馬や騎射、相撲の小さな手合わせが行われ、ダンスの輪が広がり、市場が開かれた。流入する群れの数が増えるのに応じて、小さな手合わせの数は減り、反比例する形で、試合の規模は徐々に大きさを増した。
 夜は、月の光を受けて、連夜にわたって祝宴が続けられた。
 王庭の大草原は、祝宴の終幕を飾る決勝戦に向けて、盛り上がりを見せていた。

 長安に劣らない規模の市場が、忽然と大草原のただ中に開けていた。匈奴の女や老人が口数少なく物物交換の品物を広げている間に混じって、一見してわかる漢の商人が、大声を上げて客を呼び寄せ、商いをしていた。
 その雑踏の中を縫って歩きながら、中行説は思った。
 ――匈奴がこのまま漢に対抗しうる力を保持し続けるには、かれらが勃興してきた根幹を失わずに保持し続ける必要がある。しかし、それが少しづつ侵され始めているいま、精強を誇った匈奴が漢に併呑される日はさほど遠いことではないかもしれない。そうだとすれば、この間の俺の努力は果たしてなんだったのか。
 そう考えるかたわら、中行説の思いは別のところにあった。
 ――けっして悪い人生ではなかった。宦官の道を選ばずに、あのまま地辺を這うようにして生きたとして、それはそれだけの話で、何も生まなかったに違いない。それに比べれば、思うように生き、やりたいこともできた人生だった。
 目の前で漢の商人が客寄せに干した魚を配っていた。説はそれを一つ貰い、口に放り込んだ。噛むにしたがって口の中に旨みが広がった。それは間違いなく、故郷の味を伝えていた。

 『新日本文学』No.484 1988年夏号