
日本・社会と現代史
| ★★★★〜★は私の「満足度」です。 |
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| 日本・社会と現代史 現在64冊 | |
| 書名 | 著作者 |
| ニッポンの岐路 裁判員制度 | 伊東乾 |
| メディアは知識人をどう使ったか | 大井浩一 |
| 日本人へ リーダー篇 | 塩野七海 |
| 日本辺境論 | 内田樹 |
| お役所バッシングはやめられない | 山本直治 |
| 黒い牛乳 | 中洞正 |
| 戦下のレシピ | 斎藤美奈子 |
| それは患者の責任です | 田上幹樹 |
| 海ゴミ | 小島あずさ・眞淳平 |
| 「月給百円」サラリーマン | 岩瀬彰 |
| 輿論と世論 | 佐藤卓己 |
| リサイクル幻想 | 武田邦彦 |
| ザ・ジャパニーズ | エドウィン・ライシャワー |
| ホワイトカラーは給料ドロボーか? | 門倉貴史 |
| 1万円の世界地図 | 佐藤拓 |
| ミグ25事件の真相 | 大小田八尋 |
| 東京の島 | 斎藤潤 |
| 仕事が人をつくる | 小関智弘 |
| とてつもない日本 | 麻生太郎 |
| 情と理 後藤田正晴回顧録 | 後藤田正晴 |
| 裏日本 | 古厩忠夫 |
| ああダンプ街道 | 佐久間充 |
| 判断力 | 奥村宏 |
| 参謀本部と陸軍大学校 | 黒野耐 |
| 天皇家の財布 | 森暢平 |
| 極光のかげに | 高杉一郎 |
| 教養主義の没落 | 竹内洋 |
| 教育を経済学で考える | 小塩隆士 |
| 技術官僚 | 新藤宗幸 |
| 歌声喫茶「灯」の青春 | 丸山明日果 |
| 黒枠広告物語 | 舟越健之輔 |
| 日本の盛衰 | 堺屋太一 |
| 南極越冬記 | 西堀栄三郎 |
| パラサイト・シングルの時代 | 山田昌弘 |
| 地の底の笑い話 | 上野英信 |
| ものいわぬ農民 | 大牟羅良 |
| 悪問だらけの大学入試 | 丹羽健夫 |
| 教育改革の幻想 | 苅谷剛彦 |
| 追われゆく坑夫たち | 上野英信 |
| ドナービジネス | 一橋文哉 |
| 怪文書 | 六角弘 |
| 続・日本軍の小失敗の研究 | 三野正洋 |
| 誤報−新聞報道の死角− | 後藤文康 |
| 文書鑑定人 事件ファイル | 吉田公一 |
| 近代日本の他者像と自画像 | 篠原徹 |
| 新聞があぶない | 本郷美則 |
| 飢饉 -飢えと食の日本史 | 菊地勇夫 |
| マンションは大丈夫か | 小菊豊久 |
| 不平等社会日本 | 佐藤俊樹 |
| 宿命 | 高沢皓司 |
| 極秘捜査 | 麻生幾 |
| 戦後史のなかの日本社会党 | 原彬久 |
|
谷岡一郎 |
|
| 怒れ!日本の中流階級 | カレル・ヴァン・ウォルフレン |
| 日本の司法文化 | 佐々木知子 |
| 日本の公安警察 | 青木理 |
| 日本海海戦の真実 | 野村實 |
| 現代たばこ戦争 | 伊佐山芳郎 |
| 東京国税局査察部 | 立石勝規 |
| 連合赤軍「あさま山荘」事件 | 佐々淳行 |
| ドキュメント 屠場 | 鎌田慧 |
| 敗戦の逆説 | 進藤榮一 |
| 兵士に聞け | 杉山隆男 |
| 巣鴨プリズン | 小林弘忠 |
「ニッポンの岐路 裁判員制度」 伊東乾・著 洋泉社y新書 ★★★
いつの間にやら始まった裁判員制度であるが、最近では日常の話題にすら上らなくなってしまった。導入される前は、自分が裁判員なんかに選ばれたらどうしようなどと、多くの人が不安に感じたものだが、いざ始まってみると自分の身には何ら不都合が降りかかってこない事が分かり、関心が急に薄れたといったところであろう。「司法に市民感覚を」などといった導入時のスローガンはこうして役割を終え、司法制度は再び人々の関心外へと帰っていくのである。
ポストモダンの日本社会において、国家による司法権行使がその正統性を維持出来なくなってきている状況を打破すべく、司法権行使の正統性を「国民参加」という形で再構築しようとする試みが日本の裁判員制度だ、という論考もみられ、私もそれを支持するのだが、そもそも「国民参加」という認識の構築に失敗したといっていい状況なのだから、正統性回復も何もあったものではない。司法制度全般に対する信頼感がここ数年で改善したとはとても思えないし、むしろ、「借金整理」を謳って競うように電車内に掲示される弁護士事務所の広告や、タレントを起用して制作された大手法律事務所のテレビCMに触れた日本人は、刑事・民事を一括りにした司法制度全体に親しみどころか警戒感を抱くのではないだろうか。司法制度は社会の仕組みを強制力を以て支える重要なものだが、社会の表舞台にしゃしゃり出るものではないと、一応法律を専門に学んだ私は常々考えている。「製薬会社から賠償金がもらえますよ!」と、薬害訴訟への参加を弁護士がテレビCMで広告するアメリカみたいな社会になってはならない。
裁判員制度については賛否双方の立場から多くの書物が出ているが、2009年に発行された本書は少々趣を異にし、裁判員裁判の過程で多く用いられる証拠提示手法がオーディオ・ビジュアル面で演出過剰である事を切り口に、感情に支配される裁判員裁判の危険性を論じている。著者の伊東氏は音楽家であり、観客の感情に如何に訴えるかを生業としている。そういう「プロ」の視線で裁判員制度を検証すると、「わかりやすい裁判」のために検察官が裁判員向けに用意するカラフルなスライドは、理性より感情に訴えるものであり、法廷で用いられるマイクは話者の主張を補強する(低く自信のない声も強く大きく聞こえる)ものと映る。また同時に導入された被害者参加制度は、被害者の悲痛な叫びが裁判員だけでなく職業裁判官の感情を揺さぶり、理性的な判断に影響を与えると指摘する。
日本における人権侵害状況に対する、過度にネガティブと思える現状認識や、国連を国家(少なくとも日本国)のあたかも上位審級と位置づける著者のスタンスには違和感を覚える。しかしそれらを除外しても、本書の指摘する問題点は的を射ており、司法制度に関する新たな問題意識を得ることが出来た。著者が提言する、証拠提示の方法などを定めた「証拠法」の制定には賛成である。堅い内容だが筆致は読みやすく、イラストのセンスも良いので、なかなか面白く読める一冊である。▲2010.9.15
「メディアは知識人をどう使ったか」 大井浩一・著 頸草書房 ★★★★
谷岡一郎『社会調査のウソ』(文春新書)により「メディア・リテラシー」という概念が脚光を浴びて早十年近く経つが、メディアを絶対視せず、常に疑う目を持って接する人は残念ながら一向に増えていない様に思える。「メディア・リテラシー」とはつまりメディアを疑って掛かれという考えなのだから、当のメディアがそんな「危険思想」を広く宣伝するとも思えず、また昨今の読書人口から考えても、この手の硬派教養新書の主張が世の中の多数を占める非読書層に広がりを見せるとも思えない。貴重な概念が多勢に無勢で人口に膾炙しないのは非常に残念であり、せめて私は地味な伝道師となるべく「メディア・リテラシー」を周囲に広めようとしている。(アンケートや社会調査に潜む罠の例などは、意外と面白い話のネタになるものだ)
今回読んだ『メディアは知識人をどう使ったか』も、優れたメディア論である。メディアと知識人(有識者・文化人とも)の関係についての論考はよく目にするが、本書が提起する『メディアが知識人を「使う」』という概念は斬新であり、毎日新聞社に所属して日々知識人を「使う」立場にあった著者・大井氏ならではの着想である。
第二次大戦終結からたった数ヶ月のうちに、有力紙の論調は「軍国主義」から「民主主義」に転換し、更には「左傾化」すら呈する様になる。その激変ぶりを正当化するため、あるいは「かつてない価値観の変転がもたらした混乱の中で(略)必死に紙面の自律−とりわけ論調の面での−を図ろうと」(124ページ)した当時のメディアは、世間に広く知られ一定の支持を得ている知識人を動員し、その発言を通じて輿論の誘導を図った。その事実を本書は当時の記録から克明に明らかにする。軍国主義からの離脱に際しては賀川豊彦や林語堂が登場し、天皇制や民主化への移行に際しては、戦前言論弾圧の象徴であった美濃部達吉や大内兵衛が取り上げられ、彼らの発言やそれを受けた読者投稿欄への投書掲載を通じた輿論形成と論調転換の正当化が図られる。ただその課程においては、過度の左傾化を支持しない国民世論の流れを汲み取り、徳田球一らが主張する共産主義化には一線を画すなど、世論の反映という機能も発揮してみせた。メディアには「世論の形成者と反映者という矛盾した機能」(186ページ)があり、知識人を「使う」事はそれを機能させるための一装置であるという趣旨の一連の論考は興味深い。
地味な専門書であり、一般に広く読まれている本ではないと思うが、メディア論に少しでも関心がある向きには大変面白いであろう。豊富な参考文献から関連書への興味も広がる。「なぜこの知識人が今この新聞に登場するのか?」という新たなメディア・リテラシーを獲得できる得難い一冊である。▲2010.8.31
「日本人へ リーダー篇」
塩野七海・著 文春新書 ★★★★
定期購読している「文藝春秋」で毎月最も楽しみにしている連載の一つが、塩野七海さんの「日本人へ」である。ローマに長年在住し、全15巻にのぼる「ローマ人の物語」を完結させた作家・塩野氏が、日本の政治・経済や行政(特に外務省)、マスコミなどの現状を、ローマ社会とのわかりやすい比較も交えて評し、あるべき姿を提言する連載であるが、その視点には海外在住者が日本に対して抱く「もどかしさ」と「愛おしさ」が入り交じった感情が色濃く感じられ、ヨーロッパに何年も滞在した経験がある私には非常に共感出来る内容が多い。巷間に溢れる「これだから日本はダメだ」という言説の多くは単なる「欧米かぶれ」(かつては共産主義への憧憬もみられたが)であり、広い共感を得られずに終わってしまう。塩野氏がこれだけ多くの支持を集めているのには、根底に流れる祖国愛が読者を惹き付けているのは間違いないだろう。
この名物連載の中から「リーダー論」に属する内容を収録したのが本書である。その多くでは、国や組織を率いるリーダーが持つべき覚悟を、国際社会や日本国内での様々な出来事と、古代ローマ帝国に栄枯盛衰をもたらした男達の生き方を両軸に据えて論じている。歴史のフィルターを超えて現代に伝わるローマ帝国の逞しい男達と比べられる現代のリーダーも、それはそれでなかなか大変であろうが、国や組織を率いていくリーダーとして求められる覚悟は時を超えて変わらない。「常に勝ち続ける秘訣とは、中ぐらいの勝者でいつづけることにある」「武器をもたない予言者は、いかに正しいことを言おうが聴き入れてもらえないのが宿命だ」といったマキャベリの名言も引用されており、リーダーの職責にある人には必読の一冊である。
リーダー論とは必ずしも直結しないのだが、日本社会の微温湯加減を鋭く指摘する『「戦死者」と「犠牲者」』が特に印象に残った。イラクでの自爆テロで死亡したイタリア軍兵士を、イタリアのマスコミはみな「戦死者」と呼んでいたのに、日本の主要紙は何故か揃って「犠牲者」と呼んでいたという事実に塩野氏は、日本人が戦争というものに対して抱く甘ったれた感情を鋭く見抜いた。『危険を知らずに行った地で巻き添えを喰った「犠牲者」』と『危険も覚悟のうえでの職務遂行中に倒れた「戦死者」』には峻厳たる違いがあるのに、日本では何故か「犠牲者」と称されてしまう。何気ない呼称の違いだといってしまえばそれまでであるが、国のために殉じるという観念が失われた日本の姿を象徴的に現しており憂鬱になってしまった。もし日本が戦争に突入したとして、国を守って命を落とした自衛隊員に国民は最大の敬意を払えるのであろうか。「好戦的な政府与党の犠牲になった可哀想な犠牲者たち」なんて話になったら、兵士達は浮かばれない。国家と政府に対する自分の立ち位置を国民それぞれがどう設定するのか? ポストモダンの日本社会における喫緊の課題である。▲2010.7.24
「日本辺境論」 内田樹・著 新潮新書 ★★★★
G8サミットが開催されると、日本のマスコミは決まって記念撮影時の首相の立ち位置について報じる。真ん中に入れなかったとか、談笑に加われなかったとか。そんなに拘るのなら「英語を話せて社交的な人を総理にすべし」とか「総理は駅前留学せよ」とでも社説やニュース番組で主張すればいい。国際政治は「お見合いパーティー」じゃなく、国家の生存と反映を掛けた真剣勝負の場なのだから、もっと伝えるべき事はあるはずだ。「マスコミは国民のレベルを超えられない」というので期待しても仕方ないのだろうが、日本の政治家のレベルを落としている責任の多くはマスコミにある。経験も少なく能力も未知数ではあるが、少なくとも選挙の洗礼を通過して議員になった新人女性議員を小沢「ガールズ」と呼んで卑下したり(成人なのだからレディーでしょう普通)、話題性のあるタレント議員を争って取り上げて高得票に導いたりと、目を覆わんばかりの惨状である。こういう状況を「政治のワイドショー化」と表する場合が多いが、ワイドショー化が許されているのは、国家の存亡と自らの生活に対して国民が結局は不安を感じていないからであろう。
どうしてこんなに国民は日本に安心できるのか。混沌とする国際社会と前代未聞の高齢化社会を自ら切り開いていく覚悟があれば、とても安心出来ないはずだ。やはり日本人の潜在意識には「きっと誰かが助けてくれる」という甘えがあるのではないだろうか?と思いあぐねていた時に本書に出会った。「日本辺境論」というタイトルが示す通り、日本人の深層心理には払拭しがたい「辺境人」としての生き方が組み込まれているのだ。
古くから中華文明の辺境に位置して来た日本であるが、その微妙な物理的距離により、中華文明そのものには組み込まれなかったという。政府組織から苗字に至るまで中華文明の影響を強く受けた朝鮮と異なり、海を隔てた日本では中華文明の取捨選択が可能となり、仮名文字や政治制度など独自文化が発達した。律令制度は導入したが科挙と宦官制度は導入しなかったのだが、その採用可否は『なんとなく「当家の家風」に合わない気がしたので、そんな制度があることを知らないふりをした』という。それ以降、明治維新や戦後の高度成長期に至るまで、日本人は海外の文物を取捨選択して採用してきたが、その課程で「どこかに答えはあるはず」というDNAが我々日本人に組み込まれたのだ。その帰結が、「世界標準に準拠してふるまうことはできるが、世界標準を新たに設定することはできない」(97ページ)、『「そんなことを言う人は今のところ私の他に誰もいないけれど、私はそうおもう」という態度』が取れない(98ページ)という現代日本の姿である。
「ゲームはもう始まっていて、私たちはそこに後からむりやり参加させられた。そのルールは私たちが制定したものではない。でも、それを学ぶしかない」(125ページ)という状況は残念ながらこれからも変わりそうにないが、著者も日本人のメンタリティーを無理に変えることには懐疑的である。世界の中心にいないことを悔いても仕方がないのだから、「ローカル」な立場として世界の中でどう生きていくかについて論考が繰り広げられている。私はまさにその事をずっと悔いて来たのであるが、本書に目を覚まされた。「いかなる民族も自らの資質に合わないことを無理してやって成功できた例がない」(塩野七海「日本人へ リーダー篇」)とも言うし、辺境人として海外の成功・失敗事例を過去現代に拘らずどんどん学び、将来を切り開く糧にしていくしかない。何故か元気が出る一冊であった。▲2010.7.24
「お役所バッシングはやめられない」 山本直治・著 PHP新書 ★★
先日、霞ヶ関官庁街のど真ん中にある某書店に立ち寄った際、新書コーナーに平積みされていたのでつい買ってしまった。「公務員だけが悪いのか?行き過ぎた批判がこの国をダメにする」という帯惹句が示す通り、元・文部官僚である著者が世に蔓延する公務員バッシングに警鐘を鳴らす本なので、きっと多くの公務員に読まれていることだろう。
著者の山本氏は文部官僚を辞めた後、公務員の転職支援を精力的に行っており、官庁・民間双方の実態に通じているとされている。氏の主張を整理すると、「お役所バッシング」が行き過ぎると、(1)役所はミスを恐れる余り前例踏襲主義に凝り固まる、(2)拙速な政策転換を強いられて別の問題を引き起こす(例:耐震偽装問題による建築基準法改正)、(3)バッシングに従って政策転換する振りをしつつ、細部でそっと骨抜きをする様になる。それら弊害を防ぐためには、市民の側にもバッシング・リテラシーに基づく「建設的なお役所バッシング」が必要というのが山本氏の主張であり、私も概ね賛成できる。ただ、「民間だってこんなに悪い」という考えが本書の通奏低音となっており、それに関連して紹介されるエピソードは旧聞に属する話が多く、斬新性に欠けるため、全体として「公務員側の言い訳」という趣に陥っているのは残念だ。
民間企業に勤める私の考えを少し述べさせて頂きたい。官庁や公務員の仕事ぶりに対する監視と批判は非常に重要であるが、やはり批判する側も責任ある言動を心掛けるべきだと思う。役所側も、低レベルの一部週刊誌や夕刊紙、ワイドショーの「言いっぱなし」批判など無視すればいい。近年過度な「お役所バッシング」がマスコミで繰り広げられている原因はただ1つ、役所は叩きやすいからである。民間企業で不祥事が発生した場合、広告出稿など多くのしがらみもあり、マスコミによる批判のトーンが鈍る場合も多い。特に同業者であるマスコミや、広告代理店・芸能・音楽業界への批判は概して抑制的である。そういう配慮が一切不要である「お役所」であれば思いっきり叩けるし、読者や視聴者からの苦情も少ない。ライター冥利に尽きるというものだろう。
これからの官庁は、そういうレベルで展開される「バッシング」に惑わされるのではなく、役所の仕事ぶりに真剣に憂いを抱き、改善へ向けた提言を実名で責任を持って発言できる市民の声を可能な限り拾い上げて欲しいと思う。各官庁に権威ある受付窓口を作り、単なるクレーマーやバッシング投書は「正々堂々と」篩い落とした上で、優れた改善策を示した人は審議会の委員に招くなど、真剣に検討するのだ。衆愚化が進む日本社会においては、雑音(バッシング)の中から意義ある提言を聞き分ける「S/N比向上」が何よりも重要である。▲2009.12.28
「黒い牛乳」 中洞正・著 幻冬舎経営者新書 ★★★★
かなり以前の記憶だが、牛乳の生産調整に関するテレビニュースの中で、せっかく搾乳してタンクに入れられた牛乳に農協関係者が赤い食紅を入れ、出荷できなくするシーンが紹介されていた。白い牛乳が赤く染まっていく様子はとても不気味で、自然の恵みを無駄にする理不尽もあって強い憤りを感じたのを鮮明に覚えている。今でも、スーパーで牛乳があまりにも安く売られているとこのシーンを思い出し、牛乳を他の工業製品と同様に扱う事に違和感を覚えるのだが、以前試しに買ってみた某社の「激安」牛乳は、なんだか水っぽくて正直飲める代物ではなかった。何かが間違っている。
そんな問題意識に応えてくれたのが本書である。岩手の地で若くして酪農を志した著者・中洞氏は、牛舎に押し込めて穀物ベースの飼料を与え、日々搾乳を繰り返す現代の酪農スタイルに違和感を抱き、自然の野山に牛を昼夜放牧して草を食ませる「山地酪農」を始める。本書では、酪農の理想形を追い求めるその過程を紹介しながら、現代の酪農が抱える数多くの問題点を指摘し、解決策を提示している。取りあげる分野は、飼育の技術論に始まり、与えるべき飼料や牛乳としての衛生基準、更には農協の役割や国の農林業政策と、非常に広範にわたっており、酪農業界の課題を概観できる様になっている。
「誰が『濃い牛乳はおいしい』と言ったのか」「なぜ、日本では一番まずい牛乳が主流なのか?」など、膝を打つ話が豊富に詰まっており、特に牛乳好きな人におすすめ。近年あらゆる業界で価格破壊が進んでいるが、モノにそれ相応の対価を支払わない社会はやがて必ず破綻する。牛乳も同じであり、酪農家の努力による商品差別化を許す法規制体系に国が舵を切る事で、いい牛乳にはちゃんとしたカネを払うという文化を創らなければならない。
本書は、当初専門書として出版が検討されていたらしいが、新書として広く人口に膾炙する機会を持てた事は幸いだった。本書の提言は多くのメディアで取り上げて欲しいものだ。▲2009.10.29
「戦下のレシピ」 斎藤美奈子・著 岩波アクティブ新書 ★★★★
戦時下や終戦後の食糧・衛生事情を調べる際に有用なサイトで、私もよく訪れているのが「栄養と料理 デジタルアーカイブス」である。「栄養と料理」という、その名の通り料理と栄養にこだわった硬派な婦人向け月刊誌のバックナンバーを、昭和10年の創刊号以降デジタルイメージで全部無料で参照出来るというのだから、これは破格のサービスである。配給制度を批判する論文があったり、当時流行した腸チフスや赤痢患者向けの病人食が紹介されたりと、硬い内容も多いが、普通にレシピを紹介するページも多く収録されている。物不足という時代背景を反映して、魚肉でカレーを作ったり、戦後新たに日本に紹介された食材を積極的に使ったりと、毎号を眺めているだけで当時の世相を追体験する事が出来る。文芸評論家の斎藤美奈子氏が『誤読日記』の中で、古い婦人雑誌を調べていて戦時中の「代用食」に興味を抱いたと記しているのを見つけ、私は「おー、同じだ!」と感じたのであるが、斎藤氏はその好奇心に応える本をちゃんと出してくれた。
「戦下のレシピ」と題した本書は、「主婦の友」や「婦人の友」など婦人雑誌に掲載された記事をベースに、食糧事情が徐々に悪化する中で生み出された数多くの「代用食」を詳しく紹介している。卯の花(おから)や馬鈴薯、押し麦など「増量材」を混ぜることで米の使用量を削減した「節米料理」や、入手困難になった新鮮な野菜や肉の代用品として用いられた野草や鮫・貝類など、飢えから家族を救おうという様々なアイデアが紹介されている。魚粉や生の野草など、いま考えると信じられない様な代用食も多く、驚きと好奇心の連続でどんどん読み進められた。
戦況の悪化とともに、記事で紹介される代用食がどんどん貧しくなっていく様も手に取るように分かり、家事を担った主婦の苦労を偲ばずにはいられない。「戦争になれば必ずまた同じ事が起きる。戦争の影響で食糧がなくなるのではない。食糧がなくなることが戦争なのだ」という筆者の一言が印象に残っている。現代人のサバイバル能力はどう考えても当時より劣っている。そんな状態で戦争をしたら更に悲惨な事になるだろう。こんな代用食を強いられたくなければ戦争を始めてはならない、というのは現代の若者にも訴求する立派な「平和教育」だと思うのだが。▲2009.10.18
「それは患者の責任です」 田上幹樹・著 NHK生活人新書 ★★
医師と患者との関係は、いま明らかに変化の過渡期にある。かつては「お医者様」と崇められ、医療行為の全てに白紙委任を受けていた医師も、インフォームドコンセントやEBMの普及や、相次ぐ医事訴訟や警察による刑事立件を受け、患者側に情報を開示した上で承諾を得て医療行為に着手するスタイルに変わってきた。患者に対する接し方も変わり、近年では「患者様」という珍妙な呼称まで生まれる始末である。日本語としてこなれていないこの呼称は最近下火になってきた様だが、医療従事者側が患者との「間合い」の取り方に苦心している事を示す良い一例であり、同様の試行錯誤は今後も続くだろう。マスコミや司法当局が医師の責任を過度に追及する昨今、ともすれば医師は萎縮してしまいがちだが、本書は「患者の責任」を題材に取り上げる。
糖尿病や高血圧といった生活習慣病を長年診てきた著者は、この種の疾患には患者の生活パターンが大きく関わっている事を知悉している。なのに多くの患者は自らの生活パターンを改善できず、様々な理由を付けて、高カロリー食や飲酒・喫煙など享楽的な生活を送る。インスリン自己注射が必要になるまで糖尿病が悪化すると患者は急に反省するが、時既に遅し。QOLは明らかに低下する。
著者が診察室で接した多くの患者や同僚の医療従事者に「患者の責任」について問い掛けると、各々の立場に即した多様な意見が寄せられる。「患者に責任を問うのは酷」「患者の病気を治すのが医者の務め」といった責任否認派も、患者の自己責任を厳しく指摘する責任肯定派も、患者・医療従事者双方に多くみられる。それでは医師の責任は何なのか?著者は、いかにして患者の隠れた自己管理能力を引き出すかに自らの「責任」を見出し、その実践に取りかかる。
医師は十分や情報を患者に与えるべきではあるが、患者を決して甘やかすべきでないと私は常々考えているので、著者の考えには同意できる部分が多く、全体的には面白く読めた。ただ、患者のエピソードを紹介した部分の記述が少々間延び気味なのは残念。その辺を引き締めればもっと内容を濃くできたのではないか。▲2009.9.6
「海ゴミ」 小島あずさ・眞淳平 著 中公新書 ★★★
島崎藤村の手による詩歌「椰子の実」といえば、海岸に漂着したヤシの実に見知れぬ遠い南国を想う歌である。テレビやインターネット、飛行機によって世界がぐっと狭くなった今日でも多くの人に歌い継がれており、私たちをとてもロマンティックな気持ちにさせてくれる。国土を海に囲まれた日本にとって海は「文明の玄関口」であり、歴史上そこから多くの文物がもたらされてきたが、近年問題になっているのは漂着ゴミである。漂着量が少なく、有害物が含まれていなければ、「椰子の実」のように異国を感じさせたりする事も出来ようが、そんな悠長な事を言っている場合ではないらしい。
本書は漂着ゴミを題材に選び、その「源流地」や種類、自然に与える影響を様々な事例を用いて説明している。宣伝用100円ライターやゴルフボールであれば、通常そこに印刷されている店舗やゴルフ場の所在地から源流地を割り出せるし、近年特に漂着量が増えているレジンペレットは工業地帯からの流出が多いと推測される。これら漂着物は野生動物に大きな悪影響を与えており、身体に絡まることで多くの動物たちの生命を奪っている。そこで沿岸住民がボランティアで収集活動に繰り出し、多大な海岸ゴミを回収したりする訳だが、現行法制下ではなんとその処理費用はゴミを処分場に持ち込んだ人、つまり収集活動をしたボランティアに請求される恐れがあるとのこと。予め自治体と話を付けておけば何とか回避も可能とのことだが、何とも杓子定規な「お役所仕事」であり、情けなくて溜息が出て来てしまう。また最近では、大量の使用済注射器や未使用薬剤が漂着する事も散見される様だが、その背後にはどう考えても犯罪の臭いがする。これらが海岸で人体と接触する事により、感染事故や接触皮膚炎が起きる可能性も高く、海岸で漂着物を拾う際には手袋など保護具を用いる慎重さが求められる時代になってしまった。
事態の解決には、生分解プラスティックの幅広い分野での導入がひとつのキーとなろうが、強度上・価格上の問題をまだクリアできておらず「道半ば」の印象だ。ボランティアによる回収作業で発生したゴミを自治体が常に無償処理したり、漂着物対策の担当役所を一元化するなど、他にもやるべき課題は多くある。かつて「文明の玄関口」だった日本の海岸が「ゴミ箱が置かれた裏口」にならない様にしたいものだ。豊富な資料と絵、写真を駆使しており読みやすく、悲惨な実態をなんとか社会に訴えよういう使命感がひしひしと伝わってくる力作。▲2009.8.22
『「月給百円」サラリーマン』 岩瀬彰・著 講談社現代新書 ★★★
古い小説の中で出てくる金額は、貨幣価値が現在と大きく異なることから、そのまま読んでも感覚がつかみにくい。盛りそばを10銭で食べた後、市電に7銭払って銀座へ行き、帝劇で1円の映画を見たと言われても、それぞれが高いのか安いのか全く分からない。戦前の政治や軍部の動きについては書物も多く、研究も進んでいるので多くの事が広く知られているが、不思議なことに私たちは「昭和初期に月給100円のサラリーマンがどういう生活をしていたのか」という、なんとも興味惹かれる話を知らないものだ。
「昭和ヒトケタ世界のガイドブック」と位置づけられた本書は、徹底的な文献調査に基づき、昭和初期の生活実態をミクロレベルで詳細に収集・紹介している。貨幣価値の違いだけにフォーカスするのではなく、市井の人々の衣食住や学生生活、就職、そして会社・官庁での昇進・昇給の様子、更には軍人や女性の生活ぶりまで網羅する。積み上がったこれらミクロ情報を見渡すと、当時の生活ぶりと人々の感覚には現代と通底する部分もかなり多く、歴史の連続性を実感させてくれる。第二次大戦前後に歴史上の深い不連続線を描く歴史家は多いが、それが正しくない認識である事は本書を読んでも実感できる。山本夏彦の『戦前社会が「ただまっ暗だったというのは間違いでなければうそである』という一文は本書にも引用されているが、蓋し名言である。
ただし、本書の巻末にある次の指摘は重い。『満州事変以降、生活の苦しいブルーカラーや就職に苦しむ学生は、「大陸雄飛」や「満州国」に突破口を見つけたような気分になり、軍部のやり放題も国家主義も積極的に受け入れていった。しかし、すでに会社に入っていた「恵まれた」ホワイトカラーはますますおとなしくなっていたように見える。彼らは最後まで何も言わず、戦争に暗黙の支持を与えたのだ。彼らもやがて召集され、シベリアやフィリピンの山中で「こんなはずじゃなかった」と思っただろう。(中略)三越でネクタイを選んでいた頃に心底戻りたかっただろう。でも、気がついたときはもう遅かったのだ』(258ページ)。エドウィン・ライシャワー氏も著書「ザ・ジャパニーズ」で、平和だった戦前社会が軍国主義に舵を切った背景を似たような観点で指摘していたので、これは間違いないのだろう。現代社会と戦前期の相違点を殊更に強調する事で、「また軍靴の音が近づいている」などと吹聴する勢力に私は与しないが、過去私たちがどうやって道を誤ったかは知っておいたほうが良い。日本人のDNAは簡単には変わらないのだから。▲2009.2.14
「輿論と世論」 佐藤卓己・著 新潮選書 ★★★★
民主主義社会において「国民の声」を政治や社会に反映させる事が重要なのは、小学生でも分かることである。現代社会においてマスコミが「第四の権力」と呼ばれているのも、その「国民の声」を拾い上げて世に問う役割を果たしているからに他ならないが、最近私はこの辺りで強い違和感を感じて立ち止まってしまう。「国民の声」というのは一体何なのか? 渋谷の女子高生100人や新橋のサラリーマン50人にアンケートし、その結果を基に「コメンテーター」なる人物がしたり顔で「世論」を分析したり、内閣の政策に対する支持・不支持を電話アンケートで聴取する事で、対象者にじっくり考える時間を与えず、その時の気分で回答する様に仕向けたりする事が、本当に「国民の声」なのか。そういう不満に応える素晴らしい本が世に出た。
本書のタイトルにもなっている「輿論(よろん)」という単語は、戦後当用漢字から外れたため、現在では「世論」と表記されているが、元来この2つの語は異なる意味を持っていたらしい。「輿論」はデジタルな多数意見であり、理性的討論によって形成される公的な意見であるのに対し、「世論(せろん)」はアナログ的な全体の気分で、情緒的な私的心情とされている。真偽をめぐる公的関心が輿論の判断基準であるのに対し、世論のそれは美醜をめぐる私的感情に基づいている。現在マスコミを賑わしている「世論調査」の多くは間違いなく「せろん調査」であり「輿論調査」ではない。「輿論」は国民一人一人がじっくり考えて答えを出すべきものであり、突然電話を掛けて行ったり、ましては街頭カメラの前でフリップに「賛成」「反対」のシールを貼り付ける様なものではないだろう。輿論調査に反射神経で答えさせてはならない。
本書は戦後社会における輿論と世論の動きを、全共闘運動や東京オリンピックなど多くのトピックを題材に深く分析しており、非常に面白く読めた。最終章は「空気の読み書き能力」と銘打ち、現代マスコミによる「世論調査」の危うさを指摘しているが、メディアリテラシーを高める意味でも多くの人に読んでもらいたい内容だ。
「『輿論』とは政治的正当性の根拠であって、したがって政治を規定すべきものであるが、『世論』はそれ自体が無軌道で、政治を『破壊』しうる可能性のあるもの」(28ページ)、「納得と輿論によつて世論を動かす民主主義の原則」(35ページ)というフレーズが特に印象に残った。「世間の雰囲気(世論)に流されず公的な意見(輿論)を自ら担う主体の自覚が、民主主義に不可欠だと考える」(本書39ページ)という著者の問題意識には強い共感を覚える。まずは輿論という漢字をみんなで正しく使う所から始めよう。▲2009.1.1
「リサイクル幻想」 武田邦彦・著 文春新書 ★★★★
今の世の中でこういう事を書くと人格を疑われてしまいそうだが、最近「環境保護」だの「地球温暖化」だの、ちょっと騒ぎすぎではないかと感じている。テレビでも新聞でも「わたしにもできること」として、空調の温度設定を緩めたりする事を提唱しているが、そんなミクロな努力が世界規模の需給バランスに影響を与えるとは到底思えない。私たちにとって、そんな事より重要な懸案はいくらでもある。例えば途上国における大気・水質汚染問題や、化石燃料の代替となるエネルギーの開発などが挙げられよう。これらは環境問題にも関連しているが、環境保護を「目的」とするものではない。それらの目的はあくまでも「越境公害の防止」「脱・化石燃料による資源保有国の政治的影響力排除」という、自国の国益を見据えたものであるべきである。日本において「環境保護」という単語は「国益」概念との親和性に乏しく、その先には「世界市民」的なイデオロギーがそこはかとなく顔を覗かせているが、それには個人的に違和感を覚えている。政府や環境省には、環境問題における国益概念を明確に打ち出してもらいたいものだ。
そんななか、文藝春秋2008年3月号に「日本よ、『教徒議定書』を脱退せよ」という論考が掲載されていた。「環境問題はメルヘンではない。熾烈な国際ゲームなのだ」という氏の主張は非常に示唆に富むものだったが、その著者・武田邦彦氏が2000年に上梓したのが本書である。
ペットボトルを製造するのに必要な石油消費量が約40グラムなのに対し、それをリサイクルする際には約150グラム消費するとのこと。回収したボトルをトラックで運び、選別・ラベル剥離・洗浄した上で加熱・溶かして再成形するのだから、考えてみれば納得出来る話である。また紙は「再び植えれば再生可能」である木材から作られるが、その再生プロセスにおいては「再生不可能な化石資源」である石油を消費する。これが非常に大きな矛盾である事は子供でも分かるだろう。本書はそういったリサイクルにおける様々な矛盾点を、豊富な実例を用いて平易に説明した上で、現在行われている各種リサイクルを材料工学などの科学知識を駆使して次々と検証していく。
世間に流布する「リサイクル幻想」を文字通り打破する好著。非常に興味深く読めた。こういう内容は学校でもしっかり教えるべきだ。社会が早く冷静さを取り戻し、「環境問題はメルヘンではない」事が常識になって欲しいものだとつくづく思う。▲2008.3.25
「ザ・ジャパニーズ」
エドウィン・ライシャワー著 文藝春秋 ★★★★
多くの日本人は、日本という国がどこか特殊で、外国人には到底理解し得ない国と考えている。多少なりとも日本語を話す外国人がいると「すごいですね」と驚き、一昔前であれば箸を上手に使いこなしただけでも好奇の視線が注がれたものだ。日本の古典文学を研究している外国人などいようものなら、異星人でも見るような反応を見せる。戦時中の植民地に対する強制的な政策を除けば、有史以来、多文化交流イコール「こちらから異文化に出会いに行く」ものであった日本人にとって、「向こう側」の人が日本語や日本文化を学んでくるというのは想定外であり、そういう状況下で示すべき「望ましい反応」は日本人のDNAにはまだ刻み込まれていないのだろう。このマインドの背景には、漢字やひらがな、各種敬語表現といった複雑な言語体系を有する日本語に対する自負と、その複雑さ故の習得障壁を後ろめたく思う気持ちも入り交じっていると考える。最近持て囃されているマンガ文化の海外発信も、日本語という縛りから自由である事が背景にあるに違いない。
そんな日本を徹底的に研究した学者の一人が、1961年から66年まで駐日アメリカ大使も歴任したエドウィン・ライシャワーである。本書は彼が1977年に出版した、日本という国と日本人に関する研究書。日本の歴史や風土、文化、政治体制についての幅広い理解を基に、日本人の特質について深い分析を記した本書は、米国において大ベストセラーとなった。
30年前の本であるが、現在の日本社会にも十分通用する鋭い分析が多く存在する。例えば、戦前の民主主義が戦争へ舵を切った背景を「国民のムードがなんとはなしに変わり、エリート集団間の力のバランスに変化が生じた結果、国策が大幅に移動したにすぎなかった。それも1889年に制定された立憲精度のわくぐみを越えはしなかったのである」(104ページ下段)と指摘しているが、これは現代の私たちにとって銘記されるべき重要な分析である。「抽象的な原則よりは、具体的個別的な関係を大事にすることから、日本の倫理体系は、未踏未経験の状況下においては、明確な指示を与えにくい。未知のものに直面した際の日本人は、自分自身の原則の普遍的な妥協性をやみくもに信じている人間よりも、自信を持ちにくい」(148ページ下段)という分析も、行き詰まる昨今の日本社会を自信を持ってブレークスルー出来ない私たちを見透かしているかの様である。
「将来への展望は、過去を正しく理解しているかどうかによって決まるのが常である。過去の流れが正しく捕捉されてさえいれば、これが将来もひきつづき継続するであろう、と予測してもそうあやまることはない。むろん、いままでの流れの直線的延長ではない。いくつかの流れが互いに矛盾することもあれば、状況に応じて上昇カーブもしくは下降カーブのいずれかを描くこともあろう」(424ページ上段)と、ライシャワーは「日本の未来」という名の終章で記している。日本が歩んできた発展の道程と躓きを、近現代史に限定しない長い歴史の流れとして理解し、分析した本書は、現代においてもその価値を決して減じていない。なのに本書は既に絶版で、新品としては入手出来ない。もったいない、何とか復刊出来ないものか。古本でも十分入手する価値がある一冊。今ではネットでも古本を手軽に買えるので是非検索して欲しい。▲2008.3.17
「ホワイトカラーは給料ドロボーか?」 門倉貴史・著 光文社新書 ★★★★
2007年にマスコミを賑わせた単語の一つに「ホワイトカラー・エグゼンプション」というのがあった。一定収入以上のホワイトカラー労働者に対する法律上の労働時間制限を撤廃した上で、仕事の成果によって給料を支払うというものである。その結果として、時間外手当、いわゆる残業代は出なくなってしまう。多くの企業では現在でも課長以上の管理職は時間外手当の対象外になっているが、実質上その対象クラスを引き下げるというものである。仕事の実績がきちんと評価され、公正な人事考課が担保されているのであれば導入も良いのではないかと個人的には思うのであるが、そんな会社が世の中にどれくらいあるのか?と想いを巡らせると、「まだ無理かな」という気分になってしまう。恐らく多くの人がそう感じたのであろう、「ホワイトカラー・エグゼンプション」の導入は見送られ、最近では話題に上る事もほとんど無くなってしまった。「ホワイトカラー・エグゼンプション」導入論議の前提は「ホワイトカラーの生産性を向上する」事であったが、果たしてホワイトカラーの生産性は低いのか?という命題を検証したのが本書である。
まず冒頭で「ホワイトカラー・エグゼンプション」の実態と問題点を解説した後、本当に日本の生産性は低いのか?と論点に切り込む。著者の見解は、ホワイトカラー層の生産性は決して低くないが、一部の優秀なホワイトカラー労働者が猛烈に働く事で、やる気に欠け生産性も低い層のホワイトカラーをカバーしているという「格差問題」の存在に行き着く。こういう層を筆者は「社内ニート」と名付け、彼らの生産性を如何に底上げするかが重要であると指摘する。私の会社においても、業務が集中する一部の社員は連日連夜の残業をこなす反面、ある割合の社員は仕事への取り組みも消極的で、定時で必ず帰宅するという実態が頻繁に見られるので、著者の問題意識には同意できる。この問題を解決せずに「ホワイトカラー・エグゼンプション」を導入すれば、優秀な社員は更に忙しくなり、そうでない社員は会社から放逐されてしまう。それは双方にとって不幸な話である。それに備えるために労働市場の流動性を高め、「エンプロイアビリティ」と呼ばれる就業能力を高める仕組みを予め作るべきというのも妥当な考え方だと思う。(ただ、この「エンプロイアビリティ」を高める具体的方策についてそれほど深く論が展開されていないのは、心残りである)
私自身、残業や出張が多く、勤務先の中でも多忙な階層に属している。通勤電車での読書や感想文執筆(携帯端末で書くことが多い)も、趣味とは言いながらストレス解消的な意味合いが強い。「ホワイトカラーは給料ドロボーか?」という題名に当初は「ふざけるな!」と思ったのだが、実際には、頑張るホワイトカラーを応援している内容で、個人的にも大変好感が持てた。現代の会社組織の問題点と課題を良く理解した一冊である。▲2008.1.15
「1万円の世界地図」 佐藤拓・著 祥伝社新書 ★
世の中に流布されている「統計」がいかに恣意的で、世論をミスリードするものであるかは、これまでに紹介した『「社会調査」のウソ』(谷岡一郎著)や『統計でウソをつく法』(ダレス・ハフ 著)といった名著が明らかにした通りである。仮に真っ当な統計データであったとしても、複数の統計を組み合わせて展開する事で、因果関係の逆転や合成の誤謬を引き起こし、ひいては統計作成者の意図しない結論を導き出すことが可能である。インターネットの普及により、私たちは非常に多くの統計データに接することが出来るが、統計データを調べるのは多くの場合「これはどういう統計結果が出ているのか?」という動機からではなく、「自分の伝えたいストーリーを補強してくれる好都合な統計はないか?」という恣意的な意図で検索するものだ。その際、不都合な統計が排除されがちなのは言うまでもない。統計を引いた文献や記事を目にする際には、そういう作り手側の作為を大前提にする気構えが不可欠であり、学校教育の場でもしっかり教えるべき「社会のルール」だと考える。
本書は、数多くの統計データを活用する事で、日本社会の様々な側面を相対化しようと試みている。国際比較では、有名な「ビックマック購買力平価」を初めとし、生活費や給与所得、可処分所得、バス運転手の年収、電気料金などが取り上げられ、国内比較では、貯蓄率やパソコン普及度、病院施設数に就学補助の受給割合といった各種「都道府県ランキング」などが登場する。言うまでもなく、統計データにはそれぞれ前提条件があり、調査対象となる要素の選択によって結果はいくらでも異なる。ここに列記した統計データにしても、現象の一断面を切り取ったに過ぎないのは言うまでもない。そこまで理解して本書を読めば、それはそれで話のネタになって楽しいのだろうが、限られた紙幅に多くの統計を盛り込むという企画の限界からか、内容が総じて薄い。南日本に位置する県の世帯貯蓄率が低いというだけで「南国の人は貯金に興味がないのかも」と見出しを付けるのはいかがなものか。もっとも、著者は本文中ではそれぞれの統計に関する限界も記しているので、問題意識はちゃんと抱いている様だ。そう考えると余計に罪深い様に思えるのだが、まあ、そこまで考えずに軽く読むのが本書の設計値なのか。▲2008.1.15
「ミグ25事件の真相」 大小田八尋・著 ★★★
昭和51年の秋、亡命を希望するソ連軍ミグ25パイロットが日本の防空網を破って函館空港に強行着陸した。その後、ソ連軍ゲリラが機体を奪還に来るという機密情報が流れ、自衛隊は極度の緊張下に置かれるが、そんな中、3機の識別不能機が日本海方面から函館に接近する。三木総理大臣から防衛出動命令が下りない中、現場の部隊は完全なる実戦として出撃し、それら「識別不能機」はまさに撃墜寸前の状態であった。現行憲法下で初めて「事実上の防衛出動」が行われたのである。
「ミグ25事件」として知られるこの一連の事件は、日本政府の危機管理能力の欠如と、政治家の防衛意識の低さが、現場自衛官の高い危機意識との間で著しい心理的ギャップを生み、独断専行という極めて危険な軍事運用を容認する雰囲気を醸成した。まさに「シビリアン・コントロールの危機」と言える状況であったが、自衛隊サイドだけを全面的に責めるのは適切でなく、彼らの研ぎ澄まされた国防意識と即応力を受け止め、適宜迅速に管理・運営する能力が、防衛庁長官(現在の防衛大臣)と、自衛隊最高指揮官である総理大臣に欠けていたとも理解すべきであろう。
法律上非常に疑義が多い「事実上の防衛出動」は、自衛隊の記録から抹消され、今では無かったことになっているらしいが、寧ろ本事件は「危機管理の事例」として政府・自衛隊双方で広く語り継ぎ、シビリアン・コントロールの意味をあらゆる方面から考える材料にして欲しいと思う。シビリアン・コントロールは軍事組織に対する足枷であると同時に、それを適切に運用しなければ国が滅びるという意味で、シビリアン(政治家)側にも極めて重い責任を課しているのだから。機密情報の漏洩や事務次官の汚職など、防衛省の不祥事が続く中で気になって再読してみたが、さらに暗い気持ちになってしまった。▲2007.12.17
「東京の島」 斎藤潤・著 光文社新書 ★★★
日本にある南の海のリゾートはどこか?と聞かれると、日本人のほぼ全員が「沖縄」と答えるだろう。戦後観光開発が進み、本土からの航空便も頻繁に運航されているだけあり、沖縄の南国リゾートとしての地位は揺るぎないものになっているが、同じ南の島々なのに「伊豆諸島」や「小笠原諸島」の陰は薄いと言わざるを得ない。私はこどもの頃からこの事が不思議で仕方なかったのだが、これら「東京の島」を実際に訪れ、その魅力と課題を取り上げた本書を読んで、その謎が解けたような気がしている。
北は伊豆諸島から南は沖ノ鳥島まで、東京の島々は南北方向に非常に長い。沖ノ鳥島に至っては戦後の日本で唯一の熱帯圏領土である。当然ながら気候も温暖で、自然も豊富に残されており、沖縄と同様にマリンスポーツやホエールウォッチングなど多様なレジャーが楽しめる地域である。また小笠原諸島は、かつて捕鯨船寄港地として諸外国との接触があり、戦前には熱帯農業の定着を試みる政府によりゴムやコーヒー、ヤムイモなど多くの熱帯植物が栽培され、現在でも野生化したコーヒーが残っているらしい。本土とは異なる近代史の観点からも大変興味をそそられ、次の休みにでも家族で遊びに行きたくなってしまう。
しかし、実際に行くとなると沖縄ほど気軽な旅とは言えない。本土から小型機が就航している伊豆諸島ならともなく、小笠原に至っては未だに空港が無く、片道25時間フェリーに揺られなければ辿り着かない。飛行機なら南米まで行ける時間であり、サラリーマンが休みを工面してちょっと出かけるという訳には行かない。それに海が荒れれば何日も本土に帰って来られないのである。また、いわゆるリゾート施設が完備されているとは言えず、島によっては屋外でのキャンプすら都条例で禁止されているらしい。東京の島々が沖縄の様にメジャーな観光地にならなかった直接的原因は、間違いなくこの辺りにあると思われるが、何故そういう方針を島々が採っているのか?という根本原因が気になる。本書が示すその答えは、これら島々が「東京都」に属する事である。東京都であること故の財政的豊かさが、敢えて観光客を呼ばなくても生活して行けるというメンタリティーに繋がったのではないかというのだ。観光客誘致に懸命な地元関係者は同意できない考えだと思うが、本土に住む私からは何となく合点が行く話である。
東京の島々に対する愛情に満ちた一冊。内容も読みやすく親しみが持てた。前述の通り、私は小笠原の近代史と豊かな自然に強く惹かれており、いつか是非訪れてみたいと思っている。守ってきた貴重な自然を開発の名の下に破壊するのは反対であるが、せめて本土の人が気軽に訪れられる程度のインフラは作って欲しいものだ。東京の島々は東京都のものではなく、日本国民の財産なのだから。▲2007.11.7
「仕事が人をつくる」 小関智弘・著 岩波新書 ★★★
仕事柄、海外の技術者と話をする機会が多いのだが、技術者の考え方ほど国柄を反映するものはないのではないかと感じている。私の経験で言えば、こちらの技術的説明に対して自らが納得行くまでしつこい程に質疑を繰り返し、良いものを創り上げることに最大の価値を見出すのがドイツ人やスイス人であり、技術の原理原則に拘るよりも、それを活用した製品を経済的・迅速に作って顧客の満足を得る事に価値を見出す傾向が高いのが韓国人や中国人である。スピード勝負の現代において、どちらが良いという事は軽々に判断できないのだが、これら諸国が得意としている工業製品を頭に浮かべると、技術者の基本姿勢と通底するものがある様に感じてしまう。
日本の経済発展のは中小企業と言われているが、まさにその通りだと感じている。大手メーカーのハイテク製品を支えているのは、腕の確かな外注先から供給される様々な精密部品であり、これらの多くは老練な技術者によって品質が確保されている。大手メーカーではオートメーション化が進み、放っておいても良いものが生産される様なイメージを一般に持たれがちだが、実際の現場は想像するよりも遙かに「人」に支えられているのである。
本書では、研磨や成型、木工といった工業技術を初めとし、義歯や染色、蒲団造りなどに取り組む10人の技術者を紹介し、日本を支える技術力の底の深さを紹介している。同じ趣旨の番組にNHKの「プロジェクトX」というのがあったが、そこにあった華々しいドラマはなく、巧みの世界の実態と課題を実直に取材・紹介しているのが良い。21世紀に日本が先進工業国として発展を続けていくには、他国に真似の出来ない匠の技を決して途切れさせない事が緊要なのだが、本書のような話が学校教育でも取り上げられれば、日本の技術力を支えているのがケータイやゲーム産業では決してない事を子供達も理解できる様になると思う。▲2007.10.22
「とてつもない日本」 麻生太郎・著 新潮新書 ★★★
文藝春秋2007年9月号で、作家の塩野七生氏は、政治とは「感性に訴えて獲得した票数、つまり権力を、理性に基づいて行使していくもの」であり、また「民主主義政体下の有権者とは、『何をやったか』で支持するのではなく、『何かをやってくれそう』という想いで支持を寄せる」と記している。現職の安倍首相にその配慮が足りないという文脈に続くのだが、本執筆段階でポスト安倍の一番手として目されている麻生太郎氏は、テレビや街頭演説で積極的かつ具体的な発言を繰り返すことで、少なくとも「何かやってくれそう」という雰囲気を醸成する事には成功している。目標を失った日本人に新たな道を示してくれるのではないか、と思わせる明るさとカリスマ性を感じさせるという意味では、やはり希有な政治家だと思う。
そういう麻生氏が記した「一般大衆向け施政方針演説」の書である。位置づけとしては安倍首相の手による「美しい国日本」に近い。外交政策では、ODAや技術協力を通じて世界から評価を受けている日本人の誇るべき価値観を基調とした上で、「自由と繁栄の弧」という外交戦略を通じて、これからの日本が世界の中でどう生きて行くのかを分かりやすく示しており、また国内で広がる「格差問題」や「高齢化社会問題」については、過去の政策への糾弾から脱し得ないイデオロギー的批判や、現在の価値観に固執して右往左往する在野の議論とは一線を画し、別の切り口から解決策を探っている。
あくまで導入編の新書であり、深い政策論には踏み込まない。ここから先は麻生氏の政治手腕と政策提案力の見せ所であるが、その副読本として本書は印象に残るだろう。
福岡県人、特に筑豊の人たちにとって麻生氏には、今でも「麻生セメントの社長」というイメージが付きまとう。飯塚の細い車道に面する彼の実家が、私の脳裏にも常に浮かぶのだが、総理SPに警護された彼がその門をくぐる日は意外と早く来るのかも知れない。▲2007.9.11
「情と理 後藤田正晴回顧録」(上・下巻) 後藤田正晴・著 講談社 ★★★★
後藤田正晴といえば、内務省出身の警察官僚で、60歳を過ぎてから政界へ転身し、官房長官や自治大臣・法務大臣など枢要な地位を務めた大物政治家である。彼の名を知らない人はある年代以上では恐らくいないであろう。本書は、彼が95年から2年余りを費やして語った自伝である。
警察官僚時には左翼運動と対峙し、激しい攻防の末結果的には封じ込みに成功するが、その当時を「いつ革命が起きても不思議ではなかった」と述懐する。強権的に事を進めていたのではないかという印象を持っていたが、内務省の実情を内部から見てきた経験からか、警察の暴走には殊のほか気を払い、「後手で先を取れ、そのために必要なのは情報である」とか「警察は我慢である」という指示を周囲に下していた。その姿勢は政権のご意見番と言われた晩年になっても変わることがなく、自衛隊のイラク派遣に反対の姿勢を見せていた事も記憶に新しい。
政治家に転身した後は、多くの政権を長年に渡って内側から支え、多くの派閥争いや汚職事件、閣僚人事を巡る内紛の収束に深く関与した。様々な重要政策の決定や政変、さらにはリクルート事件の様に政界を揺るがす汚職事件の背後で、如何なる人物がどの様な動きをし、それがどうやってに政権・与党内に広がっていくかを具体的に述懐している。当然ある程度のブレーキが効いた証言ではあろうが、利権や出世欲に縁遠く、理性的な判断を生涯にわたって下し続けてきた彼であるので、語らぬ内容はあっても、虚偽の内容を後世に残すことは無いと信じる。
「理」の官僚から「情」の政治家に「自己革新」したという後藤田氏は、九十年代後半の政局の不安定を「政局の収斂作用の中の過渡期的な位置」と位置づけ、現状をネガティブに評価すべきでないと語った。戦後史に一貫して参与し、左右両方向に大きく揺れ動いてきた国民と政治家を見続けてきた後藤田氏ならではの所感であろう。後藤田氏は2005年に91歳で鬼籍に入られたが、近年の小泉・安倍体制に対しては右に振れ過ぎと批判していたと聞く。政治も歴史も過去からの連続なのだから、革命でも起きない限り、過去と完全に断絶する事は出来ない。与野党を問わず、最近の若手政治家には安定感が欠けている様に感じるのは、過去の体制を「ぶっ壊した」後に、それを名実ともに上回る新体制を如何に作るのか明確に打ち出せない事が原因ではないかと思う。二大政党制は新体制を作る一つの有力な手段ではあるが、決して目的ではない。「政界のご意見番」であった後藤田氏に是非ご意見を伺ってみたいものである。
オーラルヒストリー形式で綴られているため、聞き手から投げ掛けられる質問に答えて氏が答え、話題を膨らませていく。ライブ感があって大変読みやすい。昭和政治史を学ぶ上でも貴重な一冊である。▲2007.9.10
「裏日本」 古厩忠夫・著 岩波新書 ★★★
私の手元にある「共同通信・記者ハンドブック」によると、「裏日本」という単語は「日本海側」への言い換えが求められており、「差別語、不快語など避けたい語例」と位置づけられている。放送でも全く耳にしないのはこのためであるが、本書によると元来この単語にネガティブな意味合いは見られなかったとのこと。
江戸期から明治維新期まで、日本の物流は海運が多くのシェアを握っており、日本海沿岸を多くの北前船が航行していた。海運を生業にしていた多くの人々は豊かな生活をし、その活躍の範囲も樺太・北海道から大阪までと広範囲に渡っていたという。日本海側の都市も豊かで、特に金沢は「百万石」の財力と抜きん出た文化水準で全国有数の大都市であった。しかしその後物流の要が鉄道に移ると、政府は太平洋側の主要都市に優先して鉄道を敷設し、日本海側は徐々に発展から取り残される様になっていった。そんな中でも各都市は、日本海側という地の利を活かし、満州や朝鮮、シベリアへ足がかりを広げようとするなど努力を続けるのだが、次第に「裏日本」は、発展を続ける「表日本」に労働力と資源(水や電力)を供給する立場に置かれる様になってしまった。現在に生きる我々からはその「結果」しか見えないのだが、本書を読むと、日本海側の各都市がただ座して「表日本」の発展を眺めていた訳では決してない事が良く理解出来る。
表があるから裏がある、という主張は時として、「裏」に生きる人々の現実を顧みない傲慢な姿勢に通ずる。つまり太平洋側の主要都市との経済格差を埋める努力は国として継続しなければならない。しかし、この議論を『表日本』と『裏日本』の二項対立にしてしまっては進歩がないし、ゼロサムゲームになりかねない。単に「表」を目指すのではなく、日本海側という地の利を活かす方策を見いだし、それを実現するためのカネとモノの拠出を国に求めるという視点が大事なのだろう。もちろん、今の環日本海地域を見ていると、そんなに簡単な話ではないと思うが・・・。格差問題がクローズアップされている今、考えさせられる本である。図表やデータも多く理解しやすい。▲2007.8.23
「ああダンプ街道」
佐久間充・著 岩波新書 ★★★
高層ビルや複合商業施設など、都市には巨大な建築物が次々と現れている。華やかなそれら施設に多くの人々が集まり、様々な楽しみに興じているが、この建築物を造るに際してどれだけの量の資源、中でもセメントの材料となる土砂が使われたかに思いを巡らせている人は少ないだろう。質量保存の法則に従い、これら建造物もどこからか運ばれた物質によって成り立っているのである。
首都圏の場合、その土砂の多くは千葉県房総半島から膨大な台数のダンプカーによって運び出されている。本書によると、建設ブームに沸いていた昭和48年に千葉県君津地域から搬出された土砂の量は、一辺(たて・横・高さ)100メートルの立方体に換算して37個だったという。そんな中、ダンプカーが通る道に面して生活している住民達は、昼夜を通じて襲いかかる振動や膨大な量の粉塵、そして交通事故の危険に晒され生存権を侵害されている。本書は、この問題に体当たりで取り組んだ東大の保健社会学者が、緻密な調査によって健康被害をあぶり出し、それを基に行政と共に対策に奔走する姿を記したドキュメンタリーである。
この種の「公害告発モノ」は多く出版されたが、本書を読んで好意を持てたのは、ダンプカー運転手を一方的な加害者に留めず、その過酷な労働条件を如何に改善し、その結果として沿線住民の健康被害を軽減していこうという著者の保健社会学者としての見解と、社会の経済成長に土砂は不可欠であるというフェアな視点である。公害問題には様々な利害が交錯し、筆者も時に脅迫を受けたりもする事もあった様だが、徐々に沿線住民・ドライバー双方から受け入れてもらえたのは、筆者のバランスの取れた真摯な対応によるものが大きいと考える。また、この種の本にありがちな「一番悪いのはドライバーを搾取して暴利を得ている経営者であり、いまこそ労働者の権利を・・・」といった左掛かった主張に浸食されていないのも好感が持てた。
1984年に初版が出て以来、版を重ねている岩波新書の黄版。日本は高度成長期の公害問題を克服したと言われているが、21世紀の今でも産業廃棄物の不法投棄など、まだまだ問題は残存しており、本書もまだ「同時代の書」として読むことが出来る。利害が入り組む公害問題へ大学研究者がアプローチする際の参考にもなるだろう。▲2007.8.20
「判断力」 奥村宏・著 岩波新書 ★★
現代は「自己責任」の世の中と言われる。誤った判断に起因する結果は政府や他人に転嫁せず「自ら」が引き受けるべきという考え方であり、金融自由化や「ペイオフ解禁」がその代表的な例として挙げられるであろう。しかし現段階では、銀行倒産に伴う預金消滅などにより市民が「自己責任」を厳しく問われた事例は無く、仮に市民が金銭面で被害を被ったケースがあっても、和牛商法や商品先物の破綻など、平均的な市民が取るであろうリスクを逸脱したケースでの被害であるため、自己責任の重さを世間一般に喚起するほどのインパクトを持って受け取られてはいないのが実情である。それどころか、「自己責任」という言葉は「自由化に伴う選択肢の拡大」というポジティブファクターとリンクして受け取られてさえおり、現段階での「自己責任」に対する社会的認識は、自由化に重きを置いたいわば『いいとこ取り』であるかの如き印象を受けてしまう。(なお、先日のイラク人質事件の3名も、もし彼らの行為が「平均的な市民が取るであろうリスク」の範囲内であるとの社会的合意が形成されていれば、あれほどのバッシングを受ける事もなく、皆が「自己責任」というものの重みを噛みしめる良い契機になったであろう。この事件で提起された『自己責任論』の基調には、引き受けたリスクの重さが「社会的閾値」を超えるかどうかという重要な前提条件が隠されており、今回は超えてしまったので「無謀な人間は勝手に責任を取れ」となったが、もし超えなければ「社会的なセイフティーネットを構築しよう」という話にさえなったと考える。結局のところ『明日は我が身』と考えられるかどうかがその後の論調を決める鍵なのである)
そんな現代社会において必要なのが「判断する事」であるが、「自己責任」とリンクされた判断ほど難しい事もないだろう。預け先によっては自分の預金が無くなるかも知れないと思えば、その選択も慎重になるはずだ。しかし本書によれば、政府や会社に当然いる筈の「判断のプロ」は、自分の判断に対して責任を取っておらず、また時として「判断」すらしていないというのだ。
第一章「なぜ判断を誤るのか」では、政治家や学者、企業経営者、新聞記者の職にある人々がそのプロとしての判断を如何にして誤るかについて論述している。時の権力に迎合しようとする権力志向や、政府による情報操作を見抜く力の欠如、また酷い場合にはアメリカやユダヤによる陰謀説を受け入れてしまったりと、様々な要素によって彼らは判断を誤るとされるが、特に印象深かったのが、経済学者と政府の関係である。経済学者は時の権力に阿って現状追認を繰り返すばかりであり、政府の側も、そういう学者を御用学者として取り込んだりする。ひどい場合では、政府の立場に批判的な学者を審議会などに招いておいて、彼の学説を徹底的に反証した上で、政府の主張の正当性をこの学者の転向ぶりから世間に喧伝するという。転向しようが自説をコロコロ変えようが、彼らは自分の判断に責任を取る習慣がないので、その後も平然と学者活動を続ける。そんな人物が下す「判断」には重みも何もあったものではない。
「判断力のない人」と題された次章では、日本企業の組織形態や、巨大組織化した大手マスコミの実態、海外学説の輸入に明け暮れる経済学者の姿などを通して、そこに生きる人々になぜ判断力が付かないのかを論じ、また最終章である「判断力をつけるために」では、現実を知り、歴史を学び、その上で論争をする事で判断力を付けようと提起している。結局のところ「経験の積み重ねのなかから判断力は養われていく」(本文より)というのが筆者の主張の要諦であると思われるが、そこに至るプロセスとして挙げられているのが「新聞のスクラップ」や「歴史を学ぶ」という習慣である。直前まで新聞記事のレベル低下を嘆いておいて何を今さら、という気もするが、多くの記事に触れる事で真実を抉り出すべきだというのが筆者の真意であろう。確かに、実社会に接点を持たない学生には有効な訓練であり、特に、社会経験も無いのに「社会」と真正面から向き合う事になる法曹を目指す学生には必須であろう。
判断力が落ち、その責任すら取らない日本の現状を憂う一冊である。現状を打破する「解」については論がそれほど深まっていないが、政治・経済・企業・マスコミの実態を良くトレースしており、その「解」を考えるきっかけを読者に与えている。新書版の役割としては十分だろう。▲2004.7.25/RT
「参謀本部と陸軍大学校」
黒野耐・著 講談社現代新書 ★★★
明治期に産声を上げてから昭和20年に解体の時を迎えるまで、旧日本軍の歴史はすなわち陸軍と海軍の主導権争いの歴史と言っても過言ではないだろう。この不毛な権力争いについてはこれまで実に多くの書物が取り上げており、日本を破滅へ追いやった高級将校・官僚たちの行動は今なお多くの批判に晒されている。本書も陸・海軍間の軋轢に対する考察を基調としているが、その切り口として「参謀本部」と「陸軍大学校」を選択している。
戦時には陸・海軍の総力を結集して敵と対峙する必要がある事は、いわば子供でも分かる事である。それを実現するためには、両軍の指揮権を統括する「統合参謀本部」が必要になるが、両軍それぞれの主導権争いに端を発する政争の結果、旧日本軍ではついに実現出来なかった。また、軍の戦略を考案・決定すべき人材を育成する場として「陸軍大学校(陸大)」が設けられたが、本書によると、その教育内容は緒戦の勝利に重点を置いた「戦術教育」に過ぎず、広く国際情勢を見渡し、軍事・外交・政治を融合させて戦略を策定するようなレベルには達する事が出来なかったという。また戦火の拡大により、学生・教官共に次々と戦地へ赴くこととなり、空洞化が更に加速する中で参謀教育の場としての陸大はその役割を果たせなくなっていった。
組織優先、近視眼、そして自己保身。戦場で勇敢に戦う兵士達を尻目に、高級将校たちはこれら官僚的挙動に明け暮れ、結果として、国の進む道を誤らせた。本書を読んでいると、何とも言いようのない既視感を時折覚えるのだが、それは当時の官僚の挙動が、現代の役人のそれに通底してするのが原因なのだろう。分かりやすく面白い一冊だった。▲2004.6.5/RT
「天皇家の財布」 森暢平・著 新潮新書 ★★★
現行憲法下で天皇は国民統合の象徴とされ、皇室の維持に必要な諸費用は全て国費で賄われている。そこまでは多くの人に知られているが、皇室の維持に伴ってどのような費用が発生し、それが誰に支払われているかはあまり知られていない。元毎日新聞の記者が、「情報公開法」を駆使して入手した宮内庁の内部文書を基に、年間273億円にも上る皇室経済の実態を明らかにした一冊である。
皇居の電気代はおよそ月800万円、ガス代は340万円、そして水道代は900万円。国賓を招いて開催される宮中晩餐会で使用する牛スネ肉は120キロで2万1600円(つまり「グラム18円」)で、デザートのケーキは一個180円。こうやって具体的な数字を羅列すると下世話な印象を受けるが、本書はこれらのデータを基調として、皇室経済の仕組みや歴史、問題点を更に詳しく説明していく。
皇室経済の基本的な考え方に「宮廷費」と「内廷費」の区別というものがある。前者は「皇居や御用邸の維持管理費」や「宮中晩餐会の費用」など公的な支出を賄うための予算で、経理上も公金として取り扱われるのに対し、後者は「御手元金」とも呼ばれ、皇族の私的支出に用いられる渡し切り資金である。天皇家の身の回りの世話を行う使用人や、憲法上公務員としては雇えない神官は、天皇家が独自に雇っており、彼らの給料もこの内廷費から支出されているという。
戦前の皇室は林業や競走馬の飼育など多くの事業を自ら経営し、また鉄道や銀行など様々な産業に投資することで、巨額の収入を得ていたが、戦後GHQによってこれら資金は国庫に移され、また皇室の私有財産が憲法によって禁じられたため、現在では皇室が事業経営に乗り出すことは不可能となった。従って今日では彼らの収入は全て「内廷費」として国庫から支出されている。しかし現在でも、年間3億円を上回る内廷費は皇室サイドにかなりの貯蓄を生み出しており、銀行預金からの利子や株式運用により、ある程度の独自収入は得られているとの事である。豊かな日本の象徴であり君主でもある天皇には、自ら処分を決する事が出来る財産を十分に持っていてもらいたいものだ。国の財政状況は厳しいが、今後とも十分な額の内廷費予算をキープすべきだと思う。(反面、宮廷費は行政の無駄を省く事で削減可能だろう)
宮内庁病院にどこまで高価な機器を備えるべきか、使用頻度の低い御用邸を今後どうするのか、という今日的な議論も含め、皇室経済に関する様々な論点を紹介している。この手の本にありがちな左掛かった思想も見られず、終始興味深く読める一冊である。▲2004.3.7/RT
「極光のかげに」 高杉一郎・作 岩波文庫 ★★★
私は1980年代に中・高等教育を受けた世代だが、第二次大戦後のシベリア抑留に関し、歴史の授業で学んだ記憶が全然ない。約60万人の日本人が5年から10年にわたって抑留され、鉄道建設などの強制労働などによって多くの犠牲者も出したと言われるのに、学校では殆ど何も教わらなかった。別に私は特定の政治思想を奉じている訳ではないが、当時教わった事と言えば、戦時中に日本軍が行った行為や、戦後のソ連・中国に存在した「コルホーズ」や「人民公社」についての詳細な内容などが多く、今考えるとかなりバランスを失した授業内容だったような気がする。だからといって授業内容を「右」に振って済む話では決して無いが、日本人が直接関わるこれだけの事件を淡白に取り扱うのは、やはり公平に欠くと考えられる。戦後処理の困難さを記す事も立派な「平和教育」なのだから、シベリア抑留の話も公平な視点から授業にしっかりと盛り込まれるべきだと思う。
戦後多く出版されたシベリア抑留の体験記の中で、本書は代表的な作品として位置付けられている。主人公は、満州・ハルビンで終戦を迎えた一兵士である作者、高杉氏。シベリアの収容所に抑留された後、彼は以前から身に付けていたロシア語力を評価され、収容所職員と共に事務方として管理的職務に従事する。そこでは俘虜と職員の関係を超えた親しい関係が築かれ、社会主義体制下に生きるソビエト市民の暮らしと考え方が彼なりの筆致で記されている。だがその後「日本人俘虜による密告」によって彼は政治的な窮地に立たされ、タイガの奥地に配置された懲罰大隊と呼ばれる施設に送られる事となる。そこでは厳寒のもと慣れない肉体労働も課せられ、職員による陰湿な仕打ちにも遭遇するが、ロシア語力の成せる技か、最後にはその職員の内心に理解を示した上で『「ソヴィエト的人間」と言われるもの、コムニストのなかでもとくに光栄をもって「ボリシェヴィク」といわれるもののタイプが、はじめて私にも理解できたように思えた』と述懐する。
本書をシベリア抑留に関する「代表的な作品」と紹介したが、代表的というのは「平均的な抑留経験に基づく作品」という意味では決してない。彼はあらゆる点で俘虜として例外的な経験を重ねていると考えられ、そのため、ソビエト側に対する視線も一般的俘虜のそれとは決定的に違うだろう。かといって彼がソビエト側一辺倒かと言えばそうでもなく、例えば収容所内で組織される「民主運動」という名の共産主義運動に対しては、批判的かつ冷やかな視線を保ち続ける。そういう性質の作品であるので、高杉氏は出版直後から左右両陣営による厳しい批判を受けたらしい。
戦後日本の左右対立という激浪に揉まれ、安保論争や学生運動の世の中を生き抜いてきたこの作品は、発表から半世紀の時を経た97年、岩波文庫として絶版となった。シベリア抑留は21世紀にも語り継いでいくべき歴史上の事実であるが、この作品は21世紀を目前に一般の書店から姿を消してしまったのだ。シベリア抑留自体を純粋に記録する作品として本書を捉えると、確かに政治的バイアスが強く、冷戦終結後の現代に生きる人々に対してその使命を果たし続ける事は出来ないかもしれない。ただ高杉氏は、終戦直後に見られた世界的東西対立の先鋭化および共産主義勢力の拡大モーメンタムの高さを、シベリア抑留という経験を通して書き記したとも言え、その意味では現代史の記録として本書の果たせる役割は終わっていない。戦後史に興味のある人には興味深い一冊だと思うので、是非読んで欲しい。▲2003.10.1/RT
「教養主義の没落」 竹内洋・著 中公新書 ★★★★
日本人の活字離れが問題視されるようになって久しい日々が流れた。特に学生の本離れは著しく、大学生の読書量は以前と比べて大幅に減っていると言われている。私が学生だった1990年台前半、学内メディアに「法学部生なら読んでおくべき本」といった特集が登場することがたまにあったが、そこでは殆どの学生には見向きもされない大著が紹介され、実際にそれら本が日頃の話題に登る事は絶えて無かった。私自身そこで紹介されていた典型的大著には全く興味が沸かず、結局手に取ることも無かったのだが、もし周囲の友人がそれら大著を読み、日頃の会話に話題として登っていたならば、恐らく私も読んでいただろう。自らの浅学菲才の責めを周囲に帰すつもりは毛頭ないが、所詮学生は「若者」である。周りの環境に敏感に反応し、順応していく。ニワトリと卵の話みたいになるが、みんな徐々に本を読まなくなった結果として「本を読まない環境」が出現し、その環境に学生が順応していく事で、さらに本が読まれなくなるのである。非読書階層の再生産、とでも名付けられようか。
本書によると、「教養主義」とは大量の読書を通じて人格形成や社会改造を目指す考え方であり、60年代までの大学では普通に見られたという。学生は内外の大著や「世界」や「中央公論」などの総合雑誌を多読し、またその多くがマルクス主義に染まり、人生や社会についての議論を友人たちと交し合った。彼らの多くは地方出身で、故郷の実家は多くの場合豊かとは言えず、立身出世を目指して都会の大学に入学し、教養主義に徹したのである。そこには「立身出世」の手段として教養主義に傾倒していく姿があり、都会の上流階級に伍していくための武器を身に付けようという強い意思を感じる事が出来る。『近代日本の知識人文化である教養主義は「どろ臭い」「生まれ故郷」や「しんき臭い父母や縁者」を後背地とし、そこからの距離によって芳香を放った』(本書より)という指摘は地方出身者にとって少なからず実感をもって受け入れられるだろう。
そんな教養主義にも終焉の時が訪れる。70年代になると大学進学率も高くなり、大学生の市場価値も急低下した。企業が大学生に求める要素も「教養知」から「技術知」「専門知」といった具体的なものに代わり、「教養知」を身に付けた学生たちが行き場を失ってしまう。同じ頃ピークを迎えた大学紛争では彼らが主役を演じ、教養(象徴的には大学教員)が社会に対して果たすべき責任を暴力的に問い続けた。まさに『全共闘運動は、教養主義(中略)への愛憎並存からくる一種絶望的な求愛運動だった』(本書より)のだ。
教養主義の勃興から没落までを、社会階層や出版事情、そして教養主義の「最大顧客」であった大学生の生活様式を通じて、幅広い視点から詳述した一冊である。教養主義の終焉を学生運動の勃興とリンクさせた論考は特に印象深く、当時の学生が何故ああいう極端な行動に走ったのかという長年の疑問に対し、また一歩理解を深める事が出来た気がする。
教養書を読むことに何らかの強迫観念を抱く人は、今日でも少なくないだろう。30年以上前に終焉を迎えたとされる教養主義の残滓は今でも確実に生き続けており、「技術知」や「専門知」万能の現代社会に、総合的な知力である「教養知」の重要性を静かに伝道している。社会を支配するではなく、大学生協や書店の片隅にある岩波文庫コーナーで静かに伝道を続ける現代の教養主義が、私は好きである。▲2003.9.29/RT
「教育を経済学で考える」 小塩隆士・著 日本評論社 ★★★★
日本は言わずと知れた資本主義社会である。しかし私には、学校教育の場が未だに「資本主義」や「競争社会」に抵抗感を抱いているように見えて仕方が無い。ゴール直前で子供たちに手を繋がせる事で順位を付ける事を避ける「かけっこ」や、特定の主役を設けない学芸会の劇などといった話を聞くと、社会主義の実現に挫折した一部の大人達が教育現場で力ない抵抗を続けているようにしか見えない。子供たちに教えるべきことは「競争に敗れた人を労わり、弱い立場の人を差別しない」心であって、「競争は悪い事だからダメ」という事では決してないはずである。競争心は人間が生まれながらに持つ闘争心の現れであり、下手に抑圧すると別のもっと歪んだ形(いじめや各種差別)で出現すると私は思うのだが、そういう考え方はきっと教育現場では受け入れられないだろう。全ての子供が何らかの分野で「一等賞(あるいは上位の地位)」を取れるような「競争の多様性」を教育現場が用意する事で、何かしらの成功体験(勝利体験)を皆に獲得させれば、子供たちの競争心を上手く解き放つ事が出来、ひいては差別の解消や社会の多様化に資すると思うのだが、一部の教員が勤務評定という名の競争に反対しているような現状では、競争の存在を前提としたそのような教育方針が日の目を見る事は無いだろう。
そんな教育界において、教育を経済学で考えるという本書のタイトルは刺激的であろう。神聖な教育の場に経済学なんかを・・・などという反応も予想されるが、教育が神聖かどうかの議論はさておいて、本書は学校教育の特質と今日的な問題点をかなり明確に指摘している。
教育問題に対する経済学からのアプローチとして主流なのは「人的資本論」である。人は自らに対して教育という投資を行ない、その収益として収入増などを期待するというのがその考え方であるが、筆者は教育が有する消費という側面にも注目し、人的資本論に代表される市場メカニズムの教育への全面的な適用には反対している。現在の日本では教育費用の多くは親によって負担されているが、殆どの親は子供からの経済的援助(教育と言う投資に対する収益)を期待しておらず、むしろ子供が良い大学を出て社会的地位を高める事自体を楽しみと考えている。その場合の教育費支出は投資というよりは自らの楽しみのための消費と考えられる、というのが根拠であるが、これはかなり実態に即した分析といえよう。また、教育というものは個人の能力差を明らかにしていく機能を有しているため、教育を受ければ受けるほど「自分が優秀であるのかどうか」が如実に分かってくる。そうすると、自分が優秀でないと分かった時点でそれ以上の教育を諦める人も出現するため、教育を受ける人の数が徐々に少なくなっていくという現象が発生する。特に私立学校や受験産業にとって死活問題とも言えるこの現象の解決策として、子供の能力や成果に関する不確実性を出来るだけ長く維持するという行動が経済学的に導かれ、実際の社会でも観察されているという。その他にも、教育が有する「社会的地位の固定化機能」や「所得格差の拡大機能」などが取り上げられ、税金で運営される公教育のあるべき姿を提示している。
経済学を切り口に教育問題を論じた一冊であるが、公務員試験レベルの経済学の知識があれば本文中の数式なども十分理解出来ると思う(数式を飛ばしても文意は十分に理解できるが)。経済学者が教育を論ずると、市場メカニズムを金科玉条にし、教育界に携わる人間を「甘い」と言わんばかりに攻撃するパターンに陥りがちだが、市場メカニズムで論じきれない教育の特質を十分に踏まえて書かれた本書にはたいへん好感が持てる。気負わない筆致も良い。イデオロギーやロマンチシズムから脱却したこういう冷静な議論こそ、いまの日本教育界には必要だと思う。▲2003.8.29/RT
「技術官僚」 新藤宗幸・著 岩波新書 ★★★★
一般に「官僚」といえば、法学部などの文系学部を卒業した学生が国家T種試験に合格してなるもの、というイメージが強い。東大法学部の卒業生が「官僚」の大多数を占めている、と思っている国民も多いだろうが、実際には理系学部を卒業した「技術官僚」の方が文系卒の「事務官僚」よりも多いのだ。本書によると、2000年度に国家T種試験に合格して採用された官僚は、事務系(事務官)が169人に対し、技術系(技官)が417人と、技官が採用人数で倍以上となっている。これら多くの技官達は、配属された各省庁においてそれぞれの専門分野に関する企画立案・指揮監督を行なう幹部職として活躍しているのである。一般にはあまり知られていない彼ら「技官=技術官僚」の実態とその問題点を本書は深く掘り下げている。
官僚は入省時点で幹部職への登用が約束されている。若いうちから地方の出先機関の長などを歴任し、責任ある地位を次々と渡り歩きながら出世の階段を昇っていく。問題を起こさない限りコースを外れることがない「減点主義」の下、彼らは前例を無難に踏襲しながらそれぞれの地位をこなして行くのである。ただこの「コース」に事務官と技官の違いがあると本書は指摘する。様々な部門を渡り歩いてゼネラリストを目指す事務官に対し、技官は基本的に同じ部門に留まってその道のスペシャリストを目指すというのだ。その過程では、他部門から異動して来た事務系の官僚が、その部門でスペシャリストとして出世してきた技官と共に事業に取り組む事もあるが、その際、他部門から来た事務官はその部門のスペシャリストである技官の主張に従わざるを得ないケースが多いという。その道のスペシャリストとして見識に富む(と思われる)技官の主張を、必ずしもその分野に通じているとは言えない事務官が反駁して退ける事は難しいのがその理由である。同じ官僚である事務官と技官との間にある一種の「棲み分け」と言えそうだが、このこそが、無駄な公共事業や薬害エイズ事件など、官僚制度に絡む諸問題の根源であると本書は指摘する。
薬害エイズ事件や無駄な公共事業に関与した事務官たちは、技官たちを「止められなかった」事をその証言の中で告白している。内心「おかしい」と思っていても、彼ら専門家の意見を跳ね返す事ができなかったのだ。だからといって彼ら事務官が責任を免れる事はあり得ないが、同じ官僚としての「棲み分け」が、専門分野で突っ走る技官たちを誰も止められない構造を作ってしまった事は問題である。諫早湾干拓事業など、どう見ても必要性を失った公共事業が強行される裏には、彼ら技官と、彼らを止められない事務官、そしてそこに介在する政治家との微妙な力関係が働いているような気がしてならない。官僚組織の問題点を「技官」という切り口から指摘した、大変興味深い一冊である。▲2003.4.21/RT
「歌声喫茶「灯」の青春」 丸山明日果・著 集英社新書 ★★
昭和48年生まれの私にとって、歌声喫茶に対するイメージはかなり限られている。新しい日本の姿を手探りで求めながら、戦後の復興に向けて日々懸命に働いていた人々が、同時代を生きる「戦友」として共に集い、歌を楽しんだ都会のオアシス。歌声喫茶の同時体験が私にあるはずもなく、テレビや書籍のみを通じて獲得したそのイメージは、我ながら恐しい程ありふれた浅薄なものである。
新宿の「灯(ともしび)」は歌声喫茶の代表格として有名である。昭和31年、大勢の客とウェートレスが共に歌を歌うという新たな業態で誕生した「灯」で、看板娘的な人気を博していたのが丸山里矢と呼ばれる女性である。美しい容姿と健康的な歌声で、彼女は多くの客を惹きつけ、当時マスコミでも広く取り上げられた。本書はそんな里矢の実娘である著者が、「母親」の青春時代を探し求めるという趣旨の作品である。「灯」が設立される経緯から、次第に客を集めて成長していく様子などを、母親の証言と当時の関係者への取材を通して書き記している。関係者が増えるに従って起きるイザコザや、「左」掛かった歌への風当たりなど、紆余曲折を経ながらも「灯」はその火を灯し続けたようだ。
「灯」を、その象徴であった丸山里矢を題材に描くという企画は良いと思うが、著者のエッセイ風な筆致が全体の雰囲気とかなりミスマッチを起こしており、鼻につく部分さえあった。若い著者の持ち味を生かそうというのが編集者の方針だったのだろうが、本書の読者ニーズには残念ながら応えていないと思う。歌声喫茶の雰囲気を伝える部分は良く書けているだけに、かなり惜しい気がする。
昭和40年近くになると、趣味の多様化によって歌声喫茶はその勢いを失っていったという。東京オリンピックの成功などにより人々の心に精神的な余裕が出来、社会が成熟して来た事も要因の一つであろう。ロシア民謡や労働歌など、ちょっと「左」掛かったイメージの付きまとう歌声喫茶は、駅の改札に響き渡っていたキップ切り鋏の軽やかな音と共に、昭和の原風景として人々の記憶の奥に生き続ける事だろう。▲2002.1.12/RT
「黒枠広告物語」 舟越健之輔・著 文春新書 ★★★
新聞の社会面下段には、黒い枠で囲まれた死亡広告が毎日のように掲載される。全国紙に掲載した場合170万円程度の費用がかかるため、死亡広告は企業の重役や大学教授、文化人などといった著名人が他界した時に掲載される事が多く、そのためこの欄に対する読者の注目度も意外と高いらしい。新聞を開くとまずこの欄に目が行く人もいるだろう。
そんな死亡広告もあくまで「広告」の一種であり、新聞社にとっては貴重な収益源の一つとなっている。本書によると、新聞社や代理店の営業担当者は、著名人の訃報に接するとその関係者に死亡広告掲載を持ちかけ、営業活動を行なうという。遺族から反発を受けながらも、通夜の場に出向いて「営業」を行なうことすらあるというのだからすごい。
死亡広告というものに詳しくなれる一冊。著名人の死去から死亡広告掲載までの流れを、実際の例を用いて分かりやすく紹介している。また後半では、明治期から今日に至るまでに掲載された様々な著名人の死亡広告を再掲しており、彼らの死が、その時代にどういう雰囲気で受け入れられたのかを感じることが出来る。福沢諭吉や夏目漱石といった作家、足尾銅山の田中正造や明治天皇に殉死した乃木希典、時代が下って吉田茂や三島由紀夫、石原裕次郎など、数多くの死亡広告には、彼らの考え方や交友関係などが凝縮されており、大変興味深い。
墓は、死後に自らの存在を記録に残すためにあると言われるが、新聞社や図書館に永久保存される新聞に死亡広告を載せる事も同じかも知れない。全国津々浦々の図書館に自分の死亡広告が永く残ると考えれば、170万円という値段も決して高くはないような気がしてきた。▲2003.1.7/RT
「日本の盛衰」 堺屋太一・著 PHP新書 ★★
「人類史上最高の近代工業社会だった」と著者・堺屋氏が絶賛する1980年代末以降、日本の社会情勢は、経済や財政、治安など様々な側面で悪化の一途を辿っている。21世紀を迎えた今日、事態は好転どころか深刻の度を一層深めており、日経平均株価は9000円台を割り込み、失業率も上昇、日本の国際的注目度も低くなって来ているという。本書は、そのような状況下で経済情勢好転を使命として経済企画庁長官を務めた堺屋氏が、『近代百年から知価社会を展望』した上で、『知恵の価値を創り出す世の中への転換』を説くために記した『救国の書』である(二重括弧は版元の紹介文から引用)。
江戸時代から明治維新、第二次大戦敗戦、そして高度経済成長期を経て現在に至るまで、日本社会は「正義」と「文化」の変化を幾度も経験して来たという。安定と様式美を旨とする「武士の文化」だった江戸期、忠勇と勤勉を正義とし「軍人と官僚の文化」を作り上げた戦前期を経て、戦後期の日本は効率・安全・平等を正義とする「官僚と財界の文化」を作り上げ、奇跡的な高成長を遂げた。「効率」という正義の下で大量規格生産が推奨され、官僚と財界の密接な協力の下、それに見合った社会が築き上げられた。その考え方は教育面にもおよび、辛抱強く協調性に満ち、かつ独創性を持たない子ども達が次々と育て上げられ、社会へ生産の担い手として巣立っていった。
高度成長が終焉の時を迎え、低成長の90年代に入ると、社会の多様性が進んだ結果「効率」という正義は姿を消した。技術の進歩は同一品種大量生産のメリットを漸減させ、人々もまたそれぞれの個性を主張するようになった。にもかかわらず日本社会は以前の「官僚と財界の文化」を捨て去る事ができず、柔軟な社会運営が必要なこの時代を高度成長期の価値基準で乗り切ろうとしている。平成になって11人もの首相が登場し、それぞれが「改革」を旗印にしてきたにも関わらず未だに成し遂げられていないのは、価値基準そのものの変革が蔑ろにされているからであり、「武士の文化」を脱ぎ捨てた明治維新、「軍人と官僚の文化」を投げ捨てた第二次大戦の敗戦に続く「第三のパラダイム転換」が今こそ必要になっている。本書の主張は最終的にはこの一点にあり、その先にあるべき姿として堺屋氏は「知価社会」を提言している。
現代日本の問題点を頭の中で整理するにはちょうど良い内容であり、図表も適度に配置され読みやすく出来ている。だが全体として目新しい内容に欠け、読後の印象は薄いと言わざるを得ない。堺屋氏が説く「知価社会」の重要性はよく分かったが、経企庁長官在任中、そのために具体的にどういう施策を試み、なぜそれが上手く運ばなかったのかを説明して欲しかった。閣僚という立場を経験した以上、自説が受け入れられない事を嘆くだけでなく、在任中自分が何をやったのか、まずその説明責任を果たすべきである。それも果たさず辞任後に『救国の本』を出すのは余りにもご都合主義であり、本書に780円を払った読者として、いや、それ以上に税金を払っている納税者として、受け入れられる事は到底出来ない。▲2002.11.11/RT
「南極越冬記」 西堀栄三郎・著 岩波新書 ★★★
戦後12年が経過した昭和32年、日本人として初めての南極越冬隊が派遣された。政府と国民の期待を一身に受けた11人の精鋭たちは、何もかもが始めての未知なる世界で、それぞれの役割に応じた研究や観測をまさに手探りで行なった。本書は最年長の隊長・西堀氏の手記を基に、日本の極地観測史に残るこの1年間を詳しく記している。
吹き荒れるブリザード、姿を見せない太陽、そして厚い氷の隙間から覗く青黒い海水。生命の危険はそこかしこに存在する。日本から持参した観測機材や無線機なども次々と故障し、ついには基地内で火災まで発生する。次々と訪れる危機に11人は悪戦苦闘しながらも適切に対処し、なんとか観測を続ける事ができた。
猛烈な暴風と氷点下30度を下回る酷寒の中でも、日本有数の冬山登山家でもある隊員たちは、基地から外出して観測を続けた。そんな11人を支えたのは、国民の期待に応えようという大いなる使命感と、戦後復興が軌道に乗り始めた日本社会のエネルギーだったに違いない。そんな隊員たちの高い士気を情緒面で支えたのが、NHKの短波放送を通して届く家族の肉声であったのだろう。本書を読んでいると、雑音混じりの声に耳をそばだてる隊員たちの姿が目に浮かぶ。
貧しかった頃の日本が、これだけ大掛かりな事業に出資して科学の進歩に貢献しようとした事実に、改めて深い感銘を覚えた。未来への希望を見出したいという当時の人々の強い意志がそこにはある。様々な面で満たされてしまった今日の日本に生きる私にとっては、なんとも羨ましい限りだ。ITの発展も良いが、もっとみんながわくわくするような「夢」を何か見出したい。それが現代に生きる私たち大人の大事な使命であろう。▲2002.9.23/RT
「パラサイト・シングルの時代」
山田昌弘・著 ちくま新書 ★★★★
就職したにもかかわらず親と同居しつづける若者たちの姿を描いた、言わずと知れた有名な本である。が、パラサイトというネーミングに奇を衒ったような印象を受け、ある種の生理的嫌悪感すら伴ったため、これまで私は本書を遠ざけていた。今回ふとしたきっかけで本書を手にしたのだが、意外と読み応えのある本だった。
会社に勤め、自ら収入を得ているにも関わらず、親と同居して生活の基本部分を依存する独身の若い男女を著者はパラサイト・シングルと定義している。家賃や公共料金の支払から逃れられる彼らの可処分所得は高く、買い物にレジャーに多額の資金を投入しているという。また家事全般を母親に頼る事が出来るため、いわゆる可処分時間も一人暮らしの場合と比べてかなり多くなる。こういう夢のような生活に一旦慣れてしまうと、そこから出るのが困難なのは想像に難くない。現在の年功序列制のもとでは、若年男性の収入レベルは一般に低く抑えられており、たとえ結婚して家庭を築いたとしても「パラサイト時代」のレベルを維持する事は非常に困難となる。昨今問題となっている晩婚化や少子化はこの帰結であると本書は解説している。
なかなか面白い現状分析である。周囲を見渡しても該当する若者は見当たるだろう。無論望まずして親と同居している場合もあるので、全てのパラサイト・シングルを否定的に捉える事は出来ないが、理由なく「パラサイト」している若者を親から独立させることは、社会を活性化させる意味でも重要と考える。ただそのための具体的方策に関する本書の提言は、現状分析の部分と比べると残念ながら荒削りと言わざるを得ない。親同居税の導入など、着想は面白いが、望まずに「パラサイト」している人々をどう除去するかという問題などから実施は困難と思われる。
パラサイト・シングル問題の根源は「自分さえ楽しければいい」という若者の甘えであり、それを醸成したマスコミにも多大なる責任があると考える。「学校を出たら働くのが基本」という常識を今一度みんなで見つめなおした上で、「職探しは自分探し」等という若者に迎合した安易な報道を廃し、「フリーター」などに対するマスコミの好意的な論調を改めることでも、理由なきパラサイト・シングルの数は減らせると考える。またそうする事で、若者に広く流布する過度の「自己中心性」を矯正することもでき、近年の教育が置き去りにした「社会に対する責任感」を再び植え込むことも出来るだろう。とにかく、若者に迎合せず、パラサイトは「カッコ悪い」としっかり言えるマスコミであって欲しいと願わずにはいられない。▲2002.8.20/RT
「地の底の笑い話」 上野英信・著 岩波新書(青版)
★★★
福岡県筑豊地方を走るJR線が昨年電化された。福岡市のベッドタウン化が進むこの地域を、6両編成の通勤電車が毎朝颯爽と走り抜け、多くのサラリーマンを都会へ運んでいる。かつて石炭産業が活況を呈していた頃、この地域では旅客列車よりも石炭列車の方が優先され、多くの石炭列車が昼夜を問わず積出港へ向けて走り抜けていたのだから、まさに隔世の感がある。
当時の炭鉱労働の過酷さは、様々な書籍や映画で伝えられている通りである。本書の著者・上野英信氏も、以前このHPで紹介した「追われゆく坑夫たち」(岩波新書・1960年)で炭鉱労働者の置かれた苦境を鋭く告発し、当時各方面で話題となった。「追われゆく...」での上野氏は炭鉱労働の負の部分を直球ストレートで告発したが、本書では趣を異にし、厳しい炭鉱労働の合間に労働者が仲間うちで披露する笑い話を基調に話を展開している。
彼らの間で交わされる笑い話で断然多いのは、「ケツワリ」と呼ばれる炭鉱からの脱走にまつわる話や、勤労係など会社側の人間を題材にした話である。厳しい監視下で毎日休みなく労働を強いられ、もし脱走を図って失敗しようものなら死の制裁すら待ち受けている彼らにとって、「ケツワリ」に成功した人々の話や、会社関係者をからかう様な話はなんとも痛快だったであろう。社宅の床下に穴を掘り、そこから夜の帳にまぎれて家族総出で脱出する話や、「明日ケツワリするぞ!」と会社関係者に毎日のように言い続け、周囲に「気が触れた」と思わせておいてある日本当に姿を消す話など、笑い話には事欠かなかったようだ。
言うまでもないが、多くの「笑い話」を媒介にして炭鉱労働の厳しさを世に伝えるというのが本書の大きな柱である。「追われゆく...」が直球ストレートの告発であれば、本書はかなりの変化球である。ただ、上野氏の狙いはその一点だけではなく、炭鉱労働者の高齢化によって失われつつある「炭鉱文化」にもある様で、それらを何とか後世に残したいという思いが本書に強く表れている。かつて炭鉱労働の苛酷さを告発したジャーナリストは多くいたが、実際に筑豊で炭鉱労働者として働き、生涯を炭鉱労働者に捧げる事を決意した上野氏は異色の存在であり、そんな彼にとって炭鉱は単なる取材対象を超えた存在であった。彼の石炭産業に対する思いがよく表れた一冊である。
なお上野氏は昭和が終わりを告げる2年前、1987(昭和62)年に鬼籍に入った。▲2002.7.28/RT
「ものいわぬ農民」 大牟羅良・著 岩波新書(青版)
★★★
かつて「日本のチベット」という言葉があった。過疎が著しい岩手県山間部を指す言葉として用いられていたが、岩手県・チベット双方に対してあまりにも失礼な表現である事から、現在ではいわゆる「放送禁止用語」に指定され死後と化している。本書は、戦後まもない時期に、戦前の封建制が色濃く残る岩手県の山村地帯を行商として歩き回った著者が、実際に目にし、耳にした農民たちの暮らし振りやつぶやきを克明に記した書である。
狭い世界で寄り添うように生きている農民たちにとって、最大の関心事は「周囲の人々の目」であった。朝、近所より遅れる事なく雨戸を開け、炊煙を上げる。近所から「怠け者」と言われたくないがために新聞も読まず、また子供の進学も周囲の目を考慮して決める。行商である筆者が民家の囲炉裏端に古着を広げると、家族は次々に手にとって品定めをするが、最後は自分の好みよりも「他人からの見た目」を気にして物を選ぶ。当時の農村に広く見られた「暗さ」はこうやって生まれたのだ。
そんな狭い世界のなかで更に厳しい生活を送っていたのが、嫁に来た女性たちであった。彼女たちは多くの場合小遣い銭すら渡されず、また家人に対して自分の考えや意見を言う事も封じられて、日々寡黙に厳しい家事労働に耐えていた。終戦後「民主的な社会」が実現したとはいえ、その恩恵が彼女たちにまで到達するのは、まだまだ先の事であった。
初版は1958年。このたび29刷として復刊された。日本の農村が近代化する以前の貴重な記録が、こういう形で21世紀の日本に受け継げられる事は嬉しい。都市住民と農村住民との心の断絶など、本書で指摘されている問題点のいくつかは今でも解決されておらず、その意味では単なる「古典」とは扱えない一冊である。▲2002.7.21/RT
「悪問だらけの大学入試」
丹羽健夫・著 集英社新書 ★★★★
学習指導要綱から著しく外れたり、学問の傍流にある瑣末な知識を問うたり、あるいは複数の選択肢が正解とされうる「悪問」は、私が高校生だった15年前もしばしば遭遇した。当時それらは「悪問」ではなく「私立特有のユニークな出題傾向」として理解され、特に私立系を目指す学生は、類似問題の演習をこなしていた。しかし本書で紹介されている「悪問」の例を見ると、近年の「悪問」はその程度を更に深めているようだ。
第二次大戦中、日本本土への初空襲を指揮した米軍中佐の名前と爆撃機の機種名を問う「日本史」問題や、ニューヨークの空港名を5つの選択肢(ケネディ/オヘア/ダレス/ドゴール/ヒースロー)から選ばせる「地理」問題などが例として引用されているが、これらはどう考えても本来の学問的趣旨から逸脱しており、大学入試というより寧ろクイズ番組の問題である。
これらはいわば「論外」であるが、それより深刻なのは、あまりに専門的に過ぎる出題である。本書はその原因として、これまで入試問題の作成に携わってきた大学「教養部」が文部省方針により解体された事により、問題を作成する大学教員が「学部」から選ばれるようになったため、以前よりも専門色が強くなった事を指摘している。高校と大学専門教育との橋渡し的役割を果たしてた「教養部」の教員は、高校での教育内容や高校生の知識レベルに対する理解が学部教員よりも深いため、専門的に過ぎる出題は抑制されてきたというのだ。高校で深い教養を身に付ける事が困難であるなかで、大学の教養部を廃止することは「専門馬鹿」の産出につながると危惧するため、私は以前から教養部廃止に反対し、逆にその強化を主張してきた。教養部廃止により入試問題作成に困難が生じつつあるという本書の主張は、教養部が長年果たしてきたこの種の外から見えにくい役割が、その代替となる受け手の不在により放置され、その結果出現している歪を告発するものとして、看過すべきではない。
著者は解決策として、予備校による大学入試問題作成を提言している。実際、著者の母体である河合塾では数年前にこのサービスを開始しており、相当数の大学と契約を結んでいるという。確かにこれは一つの有効な解決策であるが、問題の根源は、教養部廃止によって深まった高校教育と大学との間の「断絶」である。その考察は本書の範疇ではないが、大学受験に現場で携わる予備校の立場から入試問題の問題点を取り上げ、更にこれまで教養部が果たしてきた「隠れた役割」を明らかにした本書の意義は大きい。▲2002.6.30/RT
「教育改革の幻想」 苅谷剛彦・著 ちくま新書
★★★
1997年、当時の橋本龍太郎内閣は消費税の2%アップを実施した。財政構造改革を旗印にしたこの国民負担増は、バブル後の長い不景気の影響下に依然あった日本経済の足腰を直撃し、景気は急激に悪化、大手金融機関の相次ぐ破綻などに象徴される未曾有の不景気を引き起こした。この大失政に関しては、後年橋本氏自身が自らの判断ミスを認めたのみならず、次に総理の座についた故・小渕恵三氏も、前任者・橋本氏の方針を180度転換する経済運営を行う事で間接的ではあるが非を認める形となった。そして2002年のいま、これに比肩する大きな失政が教育の世界で実行に移されようとしている。教育制度改革である。
子供たちに「ゆとり」を与え、自ら学ぶ姿勢を身に付けさせることで「生きる力」を育み、「子供中心の教育」を進める。そのために指導内容を大幅に削減し、週休2日制も導入し、教師が子供に知識を教え込む授業から、子供たちが自ら調べ・学ぶ授業に転換することが謳われている。ここにおいて教育の主人公は子供たちで、教師は子供たちへの「助言者」に徹するべきだとされている。
だが本書によると、子供たちが家庭で学習する時間は年々減少しており、その代わりテレビなどの娯楽に供する時間が増え続けている。「受験地獄」の象徴として捉えられていた学習塾も、子供たちがそれに割く時間は「家庭学習」と同等の一日平均40分で、子供たちから「ゆとり」を奪うほどのものではないだろう。子供たちの学習時間はどんどん減っており、学力低下も深刻な社会問題となっているなかで、彼らに「更に」ゆとりを与えるというのは一体どういう事なのか。本書は、大人たちが「受験地獄」のトラウマに囚われ続けている事に原因を求めている。少子化が進み、大学進学に際しての競争倍率もかなり低下しているなかで、一部の上位大学以外ではそれほど過酷な受験競争は行われなくなった。にも関わらず、大人たちは暗い過去をいまだに引き摺っているのだ。
本書も指摘している通り、そういう人々にとって、「ゆとり教育」や「子供中心の教育」などの言葉は美しく輝いて見えるだろう。子供たちの自主性や可能性を信じるというのも、耳に心地よく聞こえる。しかしそれらは大人の記憶にある教育の「暗い過去」に対する一種の大きな反動とも受け取れる。であればなおさら、今回の教育改革改革は危険を孕んでいるように思えてならない。与えられた「ゆとり」は子供たちによって浪費され、学習時間は更に減る。知識詰め込み型の教育が忌避される事と、学習内容削減の相乗効果により、既に低下傾向にある学力が更に低下する。長期的に考えると、これは国家にとっても由々しき問題に帰結するように思えてならない。今回の教育制度改革が、97年の「消費税引き上げ」が経済に与えたような大きな悪影響を日本の教育界に与える事を大いに危惧する。
「子供達は、ちょうど春先の芽生えのように、彼等の興味のおもむくままに、何でも吸収し、大人達が知らぬ間に知りたい事を次々と覚えていく。しかし大人達は、子供のことでは、やはり熟達した園芸家でなければならぬ。徒長くした枝はドンドン切り落とし、季節々々には肥料を与え、張らすべき根は十分張らせておかねばならぬ。野放しのままの子供達は、ちょうど、手入れの良くない果実のように貧弱な実りしかできないか、全く無収穫で終わってしまうものである。」(本文より引用)
教育改革の問題点を分かりやすく解説した本。古いデータを使っているケースが多いのが残念だが、それでも問題の所在を理解する上で大きな支障にはならない。▲2002.4.11/RT
「追われゆく坑夫たち」 上野英信・著
岩波新書(青版) ★★★★
日本の高度成長を支えた石炭。その最前線となったのが北海道や九州に広がる炭鉱であり、そのまた最前線が地面を深く掘り進める坑夫たちであった。過酷な労働条件と低賃金、そして数知れぬ労災事故。石炭から石油へと時代の趨勢が移りゆく中で、厳しい不景気が炭鉱地帯を襲い、坑夫たちは追い討ちをかけられるかのように貧困と絶望の淵に立たされていた。そんな時代の炭鉱地帯の姿を克明に記したルポルタージュ。1960年発刊。
ルポの舞台は福岡県の筑豊地方。戦後のエネルギー革命までの一世紀にわたり、日本の総産出量の約半分を産出していたこの地域には、三菱や三井が経営する大規模な炭鉱から、地元企業による小規模な租鉱権炭鉱まで、数多くの炭鉱が存在していた。厳しい労働環境という意味ではどこも同じであったが、場所によっては暴力団によって支配され、坑夫たちはまさに奴隷のような扱いを受けていたという。採炭量に厳しいノルマを課され、決められた量を掘り出さないと地上に戻る事を許されない。現場監督の指示に反すれば暴行を受け、場合によっては坑内事故に見せかけて殺される事もあったという。そんな厳しい労働環境にありながら、給与は遅配し、家族と共に飢餓状態に置かれ続ける。給与の現物支給として、会社が経営する売店で食糧を買える切符を渡されるが、受け取った途端に売店から商品が引き上げられる。そんな目を覆わんばかりの事例が数多く記されている。
衝撃的なルポルタージュ。華々しい経済発展を遂げた戦後日本の「陰の歴史」の記録として、残しておくべき一冊であろう。苦悩のどん底に喘ぐ坑夫たちが、当時勢いのあった共産党や労働組合に希望の光を見出している姿も、戦後史の一ページとして印象深い。1960年の作品であるため、鉱山保安監督署や石炭鉱業整備事業団、血液銀行など、現在ではほとんど耳にする事のない団体名が登場し、時代を感じさせる(ちなみに鉱山保安監督署は現存)。著者の「左」がかった筆致も、当時の世相を感じさせてくれる。入手は簡単ではないが、興味のある人には是非読んでいただきたい一冊。▲2002.3.23/RT
「ドナービジネス」 一橋文哉・著 新潮社
★★★★
臓器移植を取り巻く闇のビジネスに鋭く切り込むノンフィクション。
日本の法律では、臓器移植は献血のように「善意」「無償」に基づくものとされ、また実施する前提となる脳死判定等の基準も非常に厳格に規定されている。そのため日本では需要と供給のバランスが成り立っておらず、ドナー不足が恒常化しているため、自分に合うドナーが見つかるのを待たずに命を落とす患者も多い。そこに目を付けたのが、海外での臓器移植を有償でコーディネートする「ドナービジネス」である。数千万から億単位のカネを移植希望者から集めた彼らは、アジア諸国に希望者を送った上で、現地にて「調達」される臓器を移植する。ここまでは比較的良く知られている話だが、本書はここから更に取材を進めていく。
まず、移植される臓器はどうやって入手されるのか。本書によると、現地のディーラーが有償で提供者を募る事もあれば、誘拐等の犯罪的な手法で臓器を強制的に確保したりもするとのこと。また、日本から送られて「借金のカタ」として臓器を摘出される債務者もいるらしい。「腎臓売ってカネ返せ!」という取立てで社会問題になった貸金業者があるが、まんざら誇張ではないようだ。
もっと恐ろしい話も紹介されている。アジアのある国では、誘拐された人が全ての臓器を生きたまま摘出され、各臓器をバラバラに転売されたり(もちろん命はない)、また、借金をネタに監禁した女性を何度も人工妊娠させ、産まれてくる子供を次々に臓器屋に売却したりと、人間の所業とは思えない話が、氏の取材により次々と明らかになっているのだ。
戦慄が走る衝撃のドキュメンタリーである。現代社会で最も厚いベールに閉ざされた闇世界の一つと思われるこの「ビジネス」に、筆者は非常に鋭く切り込んでいる。恐らく身の危険を感じながらの取材だったに違いない。これぞジャーナリズム。必読の一冊。▲2002.3.15/RT
「怪文書」 六角弘・著 光文社新書 ★★★★
私は以前、仕事上関係する会社に送付されてきた「怪文書」を偶然目撃した事がある。詳しい事は書けないが、結局その内容は真実で、怪文書で関与を指摘された社員はその会社を去っていったらしい。これは何年も前の話ではあるが、誰が書いたか分からない「怪文書」の薄気味悪さは、全く当事者ではなかった私でさえまだ鮮明に覚えている。この薄気味悪さは実際に関係した人にしか分からないだろう。
本書は、主にバブル期直前期から90年代に政界や経済界に実際に出回った「怪文書」を写真付で紹介し、関係者へ与えたダメージや、その「怪文書」が生まれるに至った背景を解説している。経済事件や政界でのゴタゴタの陰では、必ずといっていい程「怪文書」が発行されている。本書はそれら「怪文書」を紹介する体裁になってはいるが、実際には告発された事件自体を振り返っており、大変興味深い。いわゆる「失われた10年」を「怪文書」を媒介として振り返ることが出来るのだ。
「怪文書」を出すのは決して誉められた事ではない。自らの姿を秘匿して誰かを責める事は「卑怯」とも言えるし、受け取った側が抗議や反論を行なえないというのは公平性に欠く。だが、義憤に突き動かされた内部告発などの場合、告発者の身の安全を守るためには「怪文書」は有効な現実的手段の一つであろう。法的告発やマスコミを使った告発がいわば「正規戦」だとすると、怪文書は「ゲリラ戦」である。誰もが「正規軍」を組織できるとは限らないというのが現実の社会だ。
インターネット上の匿名掲示板に関する議論にも通ずるが、やはり「匿名で告発を行う手段」は一種の必要悪として残しておくべきだと思う。誰もが実名で全てを表現できるほど、この社会は清く正しくはない。ただその前提として、匿名での表現を全て真に受けない成熟度が社会や個人に求められる。この前提条件をどう実現するか。難しいテーマだが必要な議論ではないだろうか。▲2002.3.2/RT
「続・日本軍の小失敗の研究」 三野正洋・著 光人社
★★
旧日本軍が第二次大戦以前に実際に起こした「小失敗」を紹介し、そこから根本的な原因を抽出し、教訓を得ようという一冊。最近「失敗学」という分野が俄かに脚光を浴びており、その流れで興味を惹かれて買ってみた。
高級将校が「米兵は享楽的で戦意に乏しい」という予断だけに基づいて敵の戦力を推測・訓電した結果、その情報を基に進撃した部隊が準備万端の米軍に全滅させられた話や、「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓を発表し、敵の捕虜になる前に自殺する事を兵士に強要した結果、捕虜になった後に敵陣内(収容所)で暴動を起こさせる等の戦略を取れなくなったという話が紹介されている。取り上げられている事例はどれも興味深く、軍幹部の官僚主義により失われた多くの兵士の命に心が痛むと同時に、やるせなさが込み上げて来る。まるで現代の「あの国」で起きているような話である。
念のため言っておくが、「あの国」とは日本である。官僚は「日本には狂牛病は発生しない」と思っているから、対策なんて必要なはずが無く、その結果国民全体が狂牛病のレッドゾーンに突入する。「行政指導」の名の下に行政が民間分野に口を出すから、いざ何か起きた時に「官頼み」となり、自立的なリスク管理が出来なくなってしまう。
興味深い一冊だったが、多くの例から導き出された原因のほとんどが軍幹部の無責任な官僚体質や秘密主義、そして事実に基づかない精神論に帰結しているのが、ちょっと物足りなく感じた。この本は「失敗学」ではなく「戦史研究」を主題としているので、単に私が異なった期待を抱いていただけかも知れないが・・・ ▲2002.2.11/RT
「誤報−新聞報道の死角−」 後藤文康・著 岩波新書 ★★★
朝日新聞で整理部デスクなどを勤めた筆者が、新聞の誤報・虚報の歴史を振り返り、それぞれの事件が内在した問題を総括した上で、この種の事故を防ぐための提言を行っている本。
世間に戦慄を走らせた「グリコ・森永事件」の捜査が行き詰まりを見せていた頃、捜査状況を取材しようとしていたある記者が、警察幹部とやり取りを行なった。その際、記者の質問が「禅問答」のように具体性を欠く内容だったため、記者は「グリコ・森永事件」に関して話しているつもりが、警察幹部は全く別の事件に関する取材だと勘違いし、「その事件は解決したよ」とコメントした。それを受けた記者は「グリコ事件、犯人取り調べ」というスクープ記事を書き、結果として大誤報となった。 また、別の刑事事件に関して独自の情報を得たある記者が、出入りしている警察署の刑事に「間違いないか」と確認を迫った時のこと。その情報を否定し続ける刑事に何度も食い下がった記者は、最後に刑事から「そんなに自信があるなら書きなさいよ」と言われた。その言葉を聞いた記者は「刑事は情報を認めた」と認識し、翌日の朝刊にスクープ記事を書くが、刑事のこのコメントはいわゆる「捨てゼリフ」で、情報の中身を認めたものでは決してなかった。もちろん、このスクープは誤報となった・・・
こういう事例を数多く見ていると、報道というものが孕む危うさを実感する。記者個人のこういう過ちは、職業記者として「軽率」の謗りを免れないのは当然であるが、締め切りやスクープ競争に追いつめられた精神状況では、絶対に起きないとはいえない過ちでもある。むしろ、こういう勘違いに基づく記事が、幾度のチェックを潜り抜けて輪転機に到達するという事に、会社組織としての根源的問題があるように思える。
誤りを犯さない人間はいないのと同様に、誤りを絶対に犯さない報道を期待するのは無理な話だ。飛行機だって墜落すれば、原子炉だって爆発する。新聞だけが誤報事故を起こさない訳はないし、もしそう思っているのであれば思い上がりと言わざるを得ない。重要なのは、いかに事故を起こす可能性をゼロに近付け、かつ、事故が発生した際に被害を最小限に留めるか、というポイントだろう。誤報を減らす努力ももちろん重要だが、起きたときの危機管理こそ、これからの言論機関に求められるのではないだろうか。また、報道に接する側の私たちも、報道というものは決して無謬ではない、という意識を常に持っておくべきであろう。「新聞を疑え」というテレビCMを産経新聞が流しているが、どの新聞でも盲目的に信じる事は止めたほうがいい。極言すれば、報道を信じるか否かも「自己責任」というものなのかもしれない。なかなか考えさせられる一冊だった。▲2001.11.7/RT
「文書鑑定人
事件ファイル」 吉田公一・著 新潮OH文庫
★★★
私たちの暮らしは、さまざまな書類や契約書、そしてそれに欠かせない判子やサインの上に成り立っていると言っても過言ではないだろう。家やクルマを買う時には実印と印鑑証明が必要だし、クレジットカードでの買い物にはサインを求められる。宅配便を受け取るだけでも認印を押さなければならない。つまり判子やサインは、「私」が「私」である事を対外的に証明してくれているのである。
だが現実問題として、「そんな判子は押していない」「それは私が書いたサインではない」等といったトラブルは後を絶たない。また、パスポートなどの公文書を偽造・変造して摘発される例も多く、それらの場合には、判子やサイン、書類などの真偽および変造の有無を判定する必要が民事上も刑事上も重要となってくる。本書は、長年司法の場で文書鑑定人として従事してきた著者が、自ら経験した様々な事件を通して、文書鑑定の基礎知識を分かりやすく解説する。
プリントゴッコを使って印影から判子を偽造したり、もらった領収書の金額をちょっと書き換えたりする事は、その気になれば誰にでも出来る事ではある。しかし、文書鑑定人が赤外線画像や実体顕微鏡を用いて調べれば、たちどころに判明してしまう。また、ペン書きの文字をシンナーなどで綺麗に消したつもりでも、X線を当てれば、薬物に接した部分は色が変わって見えてしまうのだ。また、どんなに字体を似せて他人の文章を「代筆」しても、筆跡鑑定の目は絶対にごまかせない。実体顕微鏡という特殊な装置を使えば、書かれた文字がどういう筆順で書かれたのかまで分かってしまうからだ。これを読めば、もう悪い事はできないだろう。
筆者は文中で、サインに対する日本人の意識の低さに関して警鐘を鳴らしている。日本人のサインは一般的に再現性が無いが、これはサインを自分の証明としてではなく、単に名前を伝達しているだけと見なしているからだ、というのだ。全く同感である。
自分の証明であるサインは、自分にしか書けないものであるべきなのに、多くの人々は、読みやすい字で、それも毎回違う書き方でサインしてしまう。誰がなんと言っても、再現性のあるサインは究極の「自分の証明」である。実印だって絶対にかなわない。筆者が指摘しているように、これからは学校教育の場でも「サイン」の重要性をしっかり教えていくべきだと思う。▲2001.10.25/RT
「近代日本の他者像と自画像」 篠原徹・編
柏書房 ★★★
明治期以降の日本が「国民国家」を形成して行く過程で、われわれ日本人は自国の姿をどう捉えて来たのか?そしてその姿は海外からはどう受け止められてきたのか?という基本テーマに沿い、民族・民俗・考古・近代史の各専門家の論文9本を収録した本。
「金関丈夫と『民俗台湾』」は、台湾に対する植民地支配、つまり皇民化政策を強化する意思のもと日本が行った民俗学的調査が、現地では、植民地支配に抵抗してくれているものと理解され、漢族のアイデンティティー確立のきっかけになっていった事を指摘する。
「アイヌ『滅亡』論の諸相と近代日本」は、明治期の日本がアイヌ民族を「滅亡」に向かう存在と定義付け、社会的に「保護」すべきものだとしながらも、日本民族への「発展的解消」を示唆する事で、内在する差別意識をそこに隠蔽していく姿を指摘する。またこれに続く三本目「<土人>論―『土人』イメージの形成と展開」では、今日では差別語として使用を廃されている「土人」という単語の用法調査を基に、アイヌおよび近隣/非近隣諸民族に対して有していた日本の意識を探る。尋常国語読本などからの引用を多数収録しており、当時日本がこれら他民族、特にアイヌや南方諸民族をどう捉えていたかが具体的に理解できて大変興味深い。
「鳥居龍蔵・千島アイヌ・考古学」では、各種土器や「チャシ」と呼ばれる遺跡の分布を通じて、北海道アイヌと千島アイヌ、そして環オホーツク諸民族との密接な関わりを豊富な図説を用いて解説する。「南洋に渡った壮士・森小弁」では、日本が南洋諸島を委託統治する前後にかけてミクロネシアのトラック島に渡り、土着した日本人・森小弁とその周囲の姿を媒介として、当時の日本とミクロネシアとの関係、特に「南進論」に基づく官民挙げた南洋進出の過程を浮き彫りにする。
かなり幅広い分野にわたる内容で、読み応えがあった。私の場合、環オホーツク文化や南洋諸島統治に関して興味が深いので、ここに挙げた5本は特に興味深かった。現在の日本人が有する自国のアイデンティティーが如何に確立されたかを明らかにするためにも、これら研究の重要性はこれから更に強調されていいだろう。▲2001.8.20/RT
「新聞があぶない」 本郷美則・著 文春新書
★★★
再販制度がなくなると新聞の戸別配達が維持できなくなる。全国一律の料金体系でないと、地方の読者の切り捨てにつながる・・・これらは新聞の再販制度撤廃に反対する新聞社の見解である。ん?どこかで聞いた議論だ。そうだ、国有事業の民営化論議の時に繰り返される見解だ。国鉄にしろ電電公社にしろ、民営化という名の市場原理の導入を行おうとすると、必ずこの議論が出る。現在の郵政3事業民営化論議でも同じである。
本書は現在の日本の新聞業界における種々の問題点を指摘するが、再販制度維持をめぐる全新聞一貫となったキャンペーンは、最近では最も異常と思われるケースであろう。全紙がこぞって反対の烽火を上げ、撤廃賛成の意見は殆ど取り上げず、読者に議論の場を提供する事すらしない。「読者に本気で議論されたら世論が撤廃の方向に行ってしまう」と判断しているのなら、それはそれで正しいのかも知れないが、確信犯の謗りは免れない。
本書の前2章はもっぱらアメリカの新聞に関して触れられており、日本の新聞が抱える問題点は後半で述べられている。本書の力点はどうみても後半なのだが、前半と後半との関連が薄い。日本の新聞界の問題点を折角鋭く突いているんだから、この際後半の部分に集中してもっと紙幅を裂いて欲しかった。▲01.6.11/RT
「飢饉 -飢えと食の日本史」 菊地勇夫・著 集英社新書 ★★★
江戸時代に度々深刻な飢饉が発生した事は、学校の歴史の時間で学んだ通りだ。
私が中学生だった頃の歴史教科書では、天保の大飢饉か何かの解説口絵として「すくいこや(救い小屋)」という看板が掛かったバラックに押し寄せる飢えた人々の絵が紹介されており、その痛々しい光景が今でも脳裏に残っている。本書は、それら飢饉の発生経緯、被害、そして当時の行政の対応などを解説する。
飢饉が発生する最大の要因はもちろん冷害であったが、当時すでに、冷害を避けるための政策が行政側から実施されていた。冷害の影響を受けやすい「豊後稲」といった晩稲(おくて)種の栽培を抑制し、早稲・中稲(なかて)種の栽培を奨励していたのだ。また飢饉が発生した場合には、藩所有の山野を飢えた人々に開放し、飢えをしのぐ山菜や現金収入を得られる流木の採取を認めたり、藩の備蓄米を民に配給する事で、領民の救済にあたったという。
晩稲種の栽培抑制に関しては、領民の生命維持という目的の他に、税収(年貢米)を確保する意図が大きく働いてであろう事は想像に難くないが、そうは言っても当時の行政当局が既に「食糧危機管理」に当たっていた事は事実のようだ。ただそうはいっても時は江戸時代。飢饉の凄まじさは現代人の想像を越えたものがあり、特には人肉食すら行なわれていたという。行政は人肉食を禁じたというが、実際には人肉に代わる食糧を配給できるわけでもなく、実際にはコントロールを失った状態が放置されたようだ。
翻って現代の日本を考えてみると、食糧自給率は主要国のなかでダントツ低い約30%。
この数字が意味するものは改めて説明するまでもなかろう。
食糧自給率の向上が喫緊の課題である事は論を待たないが、代々の自民党政権は農村部の票田を意識してか「日本の農業を強くする」という事よりも「日本の今の農業を守る」事に重点を置いてきたように見える。このため戦後50年を経た日本の農業は未だに変革の殻を破れずにいる。どうせなら「日本の農業を輸出に耐えられるくらいの体質にする」くらいの高い目標を持って、農業関係者には食糧自給率を高める努力をして欲しいものだが、ここで求められるのは「殻」を破る勇気と決断。アメリカに殻を外から割ってもらう事はもう避けたいものだ。▲2001.2.28/RT
「マンションは大丈夫か」 小菊豊久・著 中公新書 ★★★★
一軒家に住むのが夢、という人も多いが、私は意外とそうでもない。
都心に近くて、部屋も広いマンションの高層階に住む事の方が、私にとっては憧れだったりする。一軒家は何かと手入れが大変だし、いまの東京で都心に広い一軒家を持つ事は(私の給料では)ちょっと厳しい。自分の土地を持つ事にこだわらない私は、無理して狭い一軒家に住むくらいなら、広いマンションを買いたい。
そういう人には必読の本。日本のマンションの歴史から、年代によって異なる建築手法、そしてマンションを選ぶにあたって絶対に見逃せない技術的チェックポイントまで、日本の「マンション」の全てがわかるようになっている。
「手抜き建築」の手法も詳しく解説されている。セメントの水含有率を上げる、壁を薄くする、内部隔壁を省く.... これらはマンションの寿命や隣室の騒音問題などに直結し、購入者の資産価値を下げる事になる。
最近、マンション購入者の眼力が落ちてきていると著者は嘆く。バブル期、人々は「抽選に当たればとにかく買う」という行動に出た。まだ建築も始まっておらず、図面でしか物件のイメージを得られない段階なのに、である。粗悪マンションを掴まされないためには、様々な知識も然ることながら、「人生で一番高い買い物」をするに相応しい注意力と執念が必要だろう。マンションを買う事を筆者は、マンションという「会社」の「株」を買うようなものと喩えている。なるほど、粗悪マンションを買えば「株価」は暴落するし、売ろうにも売れなくなってしまう。それを防ぐために、買う前には「会社の財務諸表」、つまり建築時の様々な情報を「会社」に請求し、十分に検討する必要がある。そのうち「IR活動」に積極的なマンション業者に人気が集まるようになれば、業界の体質も少しは変わるかもしれない。▲00.10.22/RT
「不平等社会日本」 佐藤俊樹・著 中公新書 ★★★
日本社会において「階級」について語る事は、ある意味タブー視されている。
いうまでもなくこれは、「平等で差別の無い社会を作る」という至上命題が戦後半世紀にわたって私達の思考を支配しつつけた結果であるが、本書は統計学的分析を駆使して、現代の日本社会にも厳然として階級社会が存在し、階級間に立ちはだかる壁が戦前以上に強まっている事を詳らかにしている。
本書によると、いわゆるエリート層の多くはその父親もエリート層であり、非エリート層の父親を持つ子供がエリート層に加わる割合は戦後減ってきている。この現象が孕む問題として本書は、1)エリート層に生まれた子供が目的意識を持たすに(当然の事として)エリートコースに進み、その結果「空虚なエリート」が産出される事 2)実際の社会を支える非エリート層が、将来の展望を持てずにやる気を無くす事 の2点を指摘する。
社会を運営していく以上、方針を決める指揮官と、それを受けて実際に社会を動かす人々の2つが存在するのは止むを得ないだろう。そういう現実の中で、エリート・非エリートそれぞれが自らの役割に対する決意と誇りを持てるような仕掛け作りが不可欠と考える。そのためには、本書が指摘しているように、「一流大学を出て大企業に就職する」というコース以外にもエリートコースを設ける事も不可欠だろう。会社に入った後でも、その気になればエリートコースに「昇格」できる、という可能性を提示するだけでもかなりやる気は違ってくるだろう。
日本社会では階級という言葉に対してアレルギーが強いが、憎むべきは「階級」という単語ではなく、階級間の富の分配がうまくいかない事による社会対立だろう。あらゆる階級に十分な「飛躍の機会」と社会保障が与えられさえすれば、階級の存在は決して悪ではないし、我々の信奉する資本主義では階級の存在は不可避だろう。日本人は戦後、多くの社会的課題に対し「見ないふり」を決め込んできたが、階級の問題もその一つなのかもしれない。もうすぐ21世紀。そろそろ事実を直視したいものだ。▲00.10.4/RT
「宿命 よど号亡命者達の秘密工作」 高沢皓司・著 新潮文庫 ★★★
1970年3月に発生した「よど号ハイジャック事件」に関する私の知識は、「学生を中心とした日本赤軍メンバーが日航機をハイジャックしてピョンヤンに行き、30年経ったいまもずっと北朝鮮で暮らしている。たまに雑誌とかにインタビュー記事が出るが、みんな帰りたがってるようだ・・・」といったものだった。 きっとこれが平均的日本人のこの事件に対する総括だと思うが、本書はその「常識」の浅薄さ、いや、彼らを取り巻いた現実の厳しさを読者に克明に付き突けて来る。赤軍派メンバー9名の波乱の運命を克明に記した良質のノンフィクション作品。
北朝鮮で彼らが受けて来た意外な待遇、一枚板を誇っていた彼ら内部の分裂、北朝鮮内に留まっていたと思っていた彼らの本当の活動内容など、著者の取材力によって焙りだされた意外な事実は数知れない。ここでそれらの内容を一端すら紹介することは避けたい。小さな事実の積み重ねによって見えてくる大きな流れを見て欲しいからだ。
文庫版解説によると、本書が上梓された際、新聞社の社会部長や雑誌編集長が、「これがジャーナリズムの仕事だ」として、全ての部下に本書を読むことを勧めたという。「よど号ってなに?」という人には本書はちょっとツラいかも知れないが、冒頭に記した「常識」に支配されている人には面白い一冊だろう。渾身の670ページ。これで800円ちょっととは安い。▲00.9.16/RT
「極秘捜査」麻生幾・著 文春文庫 ★★★
地下鉄サリン事件から5年が経った。多くの報道のなかで、私達はいつのまにかその衝撃に慣れてしまっているかも知れないが、東京の地下鉄で、朝のラッシュアワーに、猛毒のサリンが蒔かれたという事実は途方もなく重い。電車(バス)通勤をしている方は、試しに明日の朝、自分が乗っている車両に猛毒ガスが撒かれる様を想像してみて欲しい。戦慄を覚えるはずだ。
本書は、警察当局・自衛隊がこの史上初のサリン攻撃にどう対応し、また被疑団体への強制捜査にどう臨んだかを克明に記す。とにかく全てが未知数。過激派やヤクザの制圧には慣れている警察も、被疑団体が保有すると思料されるサリンや細菌兵器という怪物を前に、当初はたじろぎを隠せなかった。しかし、自衛隊や、国家機密のベールに閉ざされていた特殊部隊との強力な連帯により、最後は被疑団体首魁の逮捕を成し遂げる。
ABC兵器という言葉がある。A=原子力兵器、B=生物兵器、C=化学兵器である。奇しくも日本人は、このABC兵器のうちの2種類の被害を人類で初めて受ける民族となってしまった(AとC)。それどころか、被疑団体は生物兵器として炭疽菌を培養していたというのだから、もう少しでABC兵器のフルハウスが日本で実現していたのである。
「日本は平和だ」と、私を含め日本人はみな思っている。しかし、その平和が薄氷の上に成り立っていた事をここ数年で我々は多く学び取った。(阪神大震災もその一つ)
危機管理の重要性が叫ばれて久しいが、我々日本人はあまりにも多くの授業料を払っているような気がする。そしてその割には効果がでていないのではないだろうか。そんなことを考えさせてくれた一冊。よく取材された良質のノンフィクション。あの事件を風化させないためにも読んで欲しい。▲00.8.30/RT
「戦後史のなかの日本社会党」 原彬久・著 中公新書 ★★★
「万年野党」と陰口を叩かれながらも、戦後一貫して野党第一党の立場を維持し続けてきた日本社会党。94年6月の「自社さ連立内閣」で擁立された社会党・村山首相は、長年存在を否定してきた自衛隊の観閲式にて自衛官らを閲兵し、国会の場では自衛隊を「合憲」とした。また六十年安保闘争では政権与党側と「大衆闘争」で死闘を演じた日米安保体制に関しても「堅持」の姿勢を宣言するに至った。これらの事はまだ我々の記憶に新しいところだ。本書は、左右分裂などで揺れた社会党の動向を主軸に、また政府・自民党や冷戦下での米ソ中などの主要諸国を副軸に据えて、戦後の日本政治史を再検証する。
社会党が国民から一度も単独政権を立てる機会を与えられなかった理由として著者は、社会党が政権を担う事を前提に政策提案を行なっていなかったために、国民が「社会党政権」を思い描けなかった事を指摘している。非武装中立論に代表される「理想主義」に走るあまり、「現実社会」に対応していく力を付けられなかったというのだ。94年に社会党が政権に加わった際の混乱ぶりは、まさしく、長年にわたって対峙を避けてきた「現実」についに対峙したための無力さから来たのだろう。著者指摘の通り、現実を前にして彼らは「理想」を次々と放棄せざるを得なかった(上述の通り)。
終章で著者は、自民党の長期政権を支えたのは実は社会党だったのではないか、と読者に問うている。自民党が国民から信頼を得られなくなっても、それ以上に次位の政党=社会党が国民から遠い存在であれば、結果として自民党は政権を与えられ続け、その結果国民の間に政治不信が高まるというのだ。社会党関係者にとってはこれほど屈辱的な総括はないだろうが、残念ながらこの指摘は正鵠を射ているのではないだろうか。
左派と右派の対立、冷戦下での国際情勢の急変(特に中ソ対立)など、一貫した政策を社会党が持ちづらかったのは理解できる。しかし、政権を担う事を前提に練り上げられた確固たる政策を国民に提示しつづける事が、野党、それも第一党の社会党に最も求められていた事であり、同時に社会党に最も欠けていたものだったのではないだろうか。
国民はあなた方をずっと待っていたのだ。結局待ちぼうけに終わったが。▲00.8.19/RT
「社会調査のウソ」 谷岡一郎・著 文春新書 ★★★★
最高に面白かった。このHPの書評で始めに感想を述べるのはこれが初めてである。それくらい本書は面白かった。と「判決主文」だけ書いてもこれを読んでる人は何がどう面白いのか分からないだろうから、ここらで「判決理由」に移る事としよう。(ちなみに刑事裁判では主文を先に言うのが通例。例外は死刑判決)
新聞等のメディアに接していて、世論調査などの「社会調査」に出くわさない事はないだろう。新聞社が行なう世論調査の他に、各種団体や政党、官公庁が社会調査を行なうが、本書はそれら社会調査の結果がいかに恣意的に操作されたものであるかを、数多くの実例を用いて説明している。
「米国・アリゾナ州は結核で死亡する人の割合が全米で一番高い」という調査結果を見ると、あたかもアリゾナ州が結核が蔓延しやすい、不衛生な地域だというイメージを持ちがちだ。が、実は正反対で、アリゾナは結核の療養に適した気候の良い土地なので、全米から結核患者が療養に集まってきて、その結果結核での死亡率も上がっているというのだ。
また最近日本のメディアでよく目にする「暴力シーンの多いTV番組を見る子供ほど、暴力行為などの非行に走る」という「調査結果」も、本書はその論理展開を批判する。「暴力シーンを見ること」が「暴力行為」を引き起こしているのではなく、親の育て方により暴力的な性格を持つ子供ができ、その結果として、暴力シーンを好んで見るようになったり、はたまた実際に暴行行為に及ぶのだ、というのである。「複数の変数の表面上の因果関係が、どれも一つの共通の原因から生じた結果に過ぎない」この現象を「スプリアス効果」と呼ぶらしい。
本書に挙げられた数多くの事例に触れ、私は、これまでの人生でいかに多くの「社会調査」に騙されていたのかと呆然となった。各新聞の主張を真に受ける事もなく、自分では「思慮深く社会の情報に接している」つもりだったのだが、なんとも恥ずかしい限りだ。しかし本書に触れた以上、そう簡単には騙されないという自身も若干だが付いた。今後も参考文献などを通じて「リサーチ・リテラシー」の向上に努めていく決心がついた。
調査を行なう団体には、調査を行なう理由があるのだ。それが何なのかを常に考えるようにしていきたい。
必読の一冊。全ての人にお勧めできる。この690円は安い。▲00.8.17/RT
「怒れ!日本の中流階級」 カレル・ヴァン・ウォルフレン著 毎日新聞社 ★★★
刺激的なタイトルである。本文中では「ブルジョワジー」という単語も頻出する。戦後日本の知識・言論界で隆盛を見せたマルクス主義の残滓が今でも社会の至る所で散見されるなかで、これらの単語を見ただけで拒否反応を惹起する人も多いと思うが、筆者はこれらの単語を「字義通り」には使用しておらず、「政治的に力を持たない中流階級」と位置付けている。つまり本書は、総中流社会と呼ばれる日本の一般市民に対し「怒れ」と呼びかけているのである。
われわれ中流階級の人間は、故意に「政治的に無力化」されているという。政治活動に関わる事が、勤務先ではマイナス要因として人事考課に反映され、また近所の住民からは胡散臭そうな視線を受けたりする。また、農民や中小企業経営者、産業界と異なり、中流階級(特に都市部)にはその主張を政治に反省させる団体が存在しない。この様な現状は、戦後の官僚が、自らが作り上げようろする日本のシステムに対する対抗要因を除去する為に、あらゆる方策を通じて作出したと本書は分析する。
正鵠を射た分析と言えよう。都市部の中流階級を代弁する組織の不在は、以前から主張されている事であるが、それが官僚によって仕掛けられたものだと考えると戦慄を覚える。また、周囲の目を気にするあまり、政治に無関心であると周囲に装い続けてきた多くの人々は、実は官僚側の陰謀にまんまとひっかかっていたのである。
「長いものには巻かれろ」「出る杭は打たれる」「流れに掉させば角が立つ」.... 自己主張する事を「戒める」格言に日本は事欠かない。われわれの税金で運用されている政府に対し、思う所をぶつけ、改革を要求する。良く考えると至極当然であるこの事を阻むものが如何に多いか、改めて認識する事が出来た。 「今の日本はおかしい」「社会のシステムを変革する時期だ」と考える人々には、必読である。▲2000.5.12/RT
「日本の司法文化」 佐々木知子・著 文春新書 ★★★
海外のいわゆる「法廷モノ」小説では、法廷でのクライマックスシーンで真犯人が突如現れたり、弁護士が決定的な証拠を陪審員に提示する事で土壇場の逆転無罪判決が下りたりと、非常にドラマティックな展開がよく起こる。反面日本の裁判においてはこの様な事はまず起きない。その理由の一つは、我が国が陪審員制度を導入していない事が挙げられる訳だが、寧ろ最大の理由は、起訴に至るまでの過程が、米国のそれとは大きく異なるからである。本書は、日本の司法制度の根幹を成す「起訴便宜主義」「起訴独占主義」をベースに日本の司法制度を分かりやすく説明し、海外との相違点を詳らかにし、その根底に流れる「司法文化」に関して詳説する。(本書でいう「司法文化」とは、司法制度(逮捕から起訴・処罰に至る刑事・矯正制度)によって具現化される、その国家における犯罪・犯罪者に対する基本姿勢、を指していると言えよう)
日本では、有罪判決を取れない恐れのある事件は、検察側が初めから起訴せず「嫌疑不十分による起訴猶予」等に処す事が一般的である。つまり、裁判に持ち込まれた時点で有罪に持ち込めるだけの証拠が揃っている訳であり、裁判段階での劇的な逆転も非常に起きにくい。反面米国では、起訴に際して「有罪が取れるか」どうかの判断はなされないため、証拠調べも十分になされないまま公判に突入する。その為、冒頭に述べた様な劇的な「どんでん返し」が起こるのである。 これは日米の司法文化の差を現わす一つの好例と言えよう。
本書は上記の他にも、矯正政策など「司法文化」を形成する各分野に触れ、それぞれの制度が日本の司法文化を如何に形成しているのかについて述べている。法律専攻の私には若干復習的な内容であったが、一般向けとしては、日本の司法制度を理解する上で非常に分かりやすく、十分な内容であろう。▲2000.3.21/RT
「日本の公安警察」 青木理・著 講談社現代新書 ★★★
泥棒とヤクザだけに目を光らせていれば国の秩序を守れる。平和な世の中に身を委ねているとついそんな幻想を抱いてしまいそうになるのだが、現実は決して甘くはない。かつて伸長した過激派、そして昨今のカルト集団によるテロ事件。彼らに対する警戒を引き受けるのがいわゆる公安警察である。小説やテレビの影響で刑事警察に対する国民の知識・理解はある程度深まっているが、警察において双璧をなす公安警察に関しては、全くと言っていい程、その姿は知られていない。本書はその公安警察の姿を、豊富な資料という「バックライト」を用いて、ベールの裏からかなり明瞭に浮かび上がらせている。
予算の付き方、組織・指揮系統から、協力者(敵対組織内)の獲得方法まで、公安警察の輪郭を浮かび上がらせるのに必要な情報を本書はまず詳説する。その上で、過去の事例を通して、公安警察が歩んできた決して平坦ではない道を振り返り、最後に過激派との闘いや、カルト集団への対処に関する現代的な問題点について触れている。
公安警察は今後も必要とされるであろう。活動内容の不透明さが問題とされる事もあろうが、刑事警察と違い、公安警察の活動を全て青天白日の下に曝す訳にはいかないだろう。理不尽な人権侵害は当然糾弾されるべきだが、公安警察の活動を過度に制限する事は、角を矯めて牛を殺す事になるような気がしてならない。「私たちは何を守り、何を防いでいくのか」 公安警察を考えるに当たっては、この点に立ち帰って考える必要がありそうだ。▲2000.3.21/RT
「日本海海戦の真実」 野村實・著 講談社現代新書 ★★★
露バルティック艦隊を「日本海海戦」で破った東郷平八郎率いる日本軍連合艦隊。彼の成し遂げた偉業は当時日本のみならず世界から絶賛されたが、幾つかの史実は後の太平洋戦争時に軍部による東郷の「神格化」のために作為的に抹消され、彼の神懸かり的な才能のみを伝えるエピソードのみが多く伝えられる事となった。 東郷平八郎は日本海海戦において実際に何を考え、逡巡し、誤りかけたのか? 本書は海軍の内部極秘資料等の史料を基に日本海海戦を再検証し、神格化のベールを剥いだ日本海海戦の姿を明らかにしている。
例えばバルティック艦隊の進路予想。一般には東郷は「敵は必ず対馬海峡を通る」と確信していたとされ、それを的中させた東郷の類希なる才覚がこれまでクローズアップされがちだった。しかし本書の再検証によると、大本営・連合艦隊共に「対馬海峡説」と「津軽海峡説」とで寸前まで意見が対立し、東郷自身も対馬海峡説を裏付ける情報が入るまでは「対馬海峡説」を採用していた訳ではないと言う。通説と本書のどちらを真とするかは各読者の判断であろうが、私は本書が提示する説の方が真実に近いのではないだろうかとの心証を得た。氏の検証に用いられている史料(海軍内部の極秘戦記)の信憑性はかなり高いものと考えられ、それを基に進められている氏の再検証に不自然さが感じられないからである。軍部が東郷の決断力・無謬性を強調するあまり、意思決定における軍内部の意見の揺れを総て「割愛」した事は容易に想像できる。
とは言っても東郷が極めて優秀な指揮官であった事実には何の揺らぎもない。寧ろ私は、軍部による不合理な神格化を全て排した上で、東郷平八郎の実績をいま再び検証する事こそ、彼の偉業を延々と伝えていく上で必要な事のように感じる。そしてそれは東郷のみに関する事ではないだろう。▲99.9.21/RT
「現代たばこ戦争」 伊佐山芳郎・著 岩波新書(新赤版) ★★★
顧客をいかに囲い込むか。これは多くの企業にとって最大の関心事である。どうすれば顧客が他社商品に乗り換えたり購入自体を止めたりする事無く、自社の商品を継続的に買ってくれるか? 各社の知恵の絞り所であるが、これ以上ない素晴らしい方法を手中にしている産業がある。タバコ産業である。ニコチンの依存性を利用する事により、顧客(喫煙者)を商品(タバコ)から離れられない様にする事が出来るのである。本書によると以前からタバコ会社はニコチンの依存性に注目していたとの事。また長期にわたる売上げ維持の為、特に若年層から喫煙を習慣付ける事に腐心し、思春期特有の「自立心」や「独立心」を表現する手段として喫煙を位置付け、若年層を強く意識した広告を展開してきた。確かにその様な広告がいくつか頭に浮かぶ。
タバコのCMが日本のテレビから姿を消えて久しいが、その代わり吸い殻のポイ捨てや未成年の喫煙を防止する目的の「マナー広告」をよく目にする様になった。しかし本書はこれらを「マナー広告」を装った「タバコ広告」と断罪する。緒方拳がタバコを吸いながら「私は愛煙家です。私は捨てない」と言う姿はいかにも格好良いし、「ルールがあるから(スポーツは)面白い。"ハタチになるまでタバコは吸わない" それがルール」と言われれば、ルールに反発したがる思春期の若年者はタバコの方を向くだろう。人間の心理を巧みに利用した脱法行為的広告手法と言わざるを得ない(広告規制は法に基づくものではないので、正確な意味での脱法行為ではないが)。
タバコによる税収確保を国民の健康に優先させる日本政府の姿勢が厳しく断ぜられるべきである事は言うまでもない。むしろ私は、追いつめられたタバコ業界が今後どの様な手段で生き残りを図っていくのかを、我々国民が注意深く見つめ続ける必要性を痛感する。本書は上述の様な「えせマナー広告」や、何気なく使われる"愛煙家"という表現などに関して警鐘を鳴らしており、マスコミを通じた情報操作の恐ろしさについても再認識させてくれる。またアメリカでのタバコ業界対政府の訴訟やその背景、タバコの健康に対する害毒についても詳述しており、タバコ問題一般に関する非常に良く纏まった入門書と言えよう。▲99.9.19/RT
「東京国税局査察部」 立石勝規・著 岩波新書(新赤版) ★★★
マルサという呼称は今では隠語としての役割を果たさなくなる程有名になったが、実際のマルサ、特に東京国税局査察部の男達の仕事ぶりは何重もの厚いベールに包まれている。大物政治家や総会屋、企業トップの仮面をかぶった巨悪に立ち向かうには、政治・他官庁による捜査段階での介入を防ぐ意味で「機密保持」が極めて重要であり、査察官達の口は極めて堅い。本書は、既に逮捕・起訴が完了した事件に関し、当事者の実名入りで捜査手法やそれにまつわるエピソード等を紹介する。
金丸脱税事件には多くの紙幅を割き、金丸氏の隠し資金(金融債・金塊)を突き止めるに至るまでの捜査手法を明らかにする。他の事件に関する捜査を装って"本命"の税務調査を行う「横目」という手法や、銀行で関係者に対する聴取を行っている最中に、隙を見て彼の机の引き出しから書類を取り出しコピーを取るという荒手の技など、巨悪の逮捕までには想像を絶する様々な苦労があった事が我々の前に明らかになる。
あの怪盗アル・カポネも最後は脱税容疑で逮捕された事は有名だが、裏献金・賄賂・麻薬取引など巨悪の影には必ず脱税が存在する。実際日本の汚職政治家の多くも逮捕容疑は所得税法違反である。巨悪の首根っこを押さえる役割を果たす国税調査官の役割は大きい。「たかが脱税」と言うなかれ。▲99.9.19/RT
「連合赤軍「あさま山荘」事件」 佐々淳行・著 文春文庫 ★★★★
昭和47年2月19日午後3時6分、長野県警のパトカー「長野一」号からの警察無線がその大事件を告げる第一報だった。警察の山狩りに追われた連合赤軍メンバーは、当初軽井沢町の「さつき山荘」に潜伏していた。そのアジトを「長野一」号に発見され追いつめられた彼らは、警官に発砲しながら逃走し、近接する河合楽器保養所、通称「あさま山荘」に管理人の牟田泰子さんを人質に立てこもったのである。本書は、当時警察側で実質的な総指揮を執った元警察官僚の著者が、当時のメモ及び膨大な資料を元に、犯人一味との10日間にわたる死闘を克明かつ生々しく綴ったノンフィクションである。
本書によると、敵を目前にして総指揮を執る者にとって、対処すべき相手は敵だけではない。警視庁と長野県警との官僚主義的な確執、現場の指揮権を巡る争い、警察庁(東京)からの「意見」。全ての力を前線に集中すべき現場においてこれらは障害以外の何物でもないが、総指揮官はこれら全てに常に的確な判断を以って対応していく事が求められる。当時の後藤田正晴警察庁長官から命じられた「人質を無事救出する」「犯人を殺さずに検挙する」という至上命題、そして「部下に死者を出さない」という著者の信念。これら3つをいわば「原則」として、あらゆる課題に次々と冷静に判断を下していく著者の仕事ぶりには、類希なる将器を見出さずにはいられない。
著者はあらゆるメディアにおいて我が国の「危機管理」のあり方に重大な疑念を表明し、その重要性を強調している。私自身彼の主張には賛同する所が多いのだが、本書を読んで彼の主張のバックグランドが更に良く見えて来たような気がする。戦後日本の修羅場を戦い抜いてきた著者にとってはもちろんだろうが、人生経験の浅い私の目から見ても現在の政府の危機管理システムは手ぬるく思える。危機管理には確かに非民主的な部分が存在する。しかし危機に際して平時と全く同様の民主主義を適応する事は、行動の迅速性を妨げ、責任の所在を不明確にするのではないだろうか。「一番欲しい物を手に入れるためには、二番目に欲しいの物は諦めなければならない」という言葉を危機管理に当てはめて考えてみる必要があると思う。戦後の日本では、戦争や騒乱など「考えたくない事」は「考えない」で済ませよう、という風潮が強い。しかしそれで済む程世の中は甘くない事を、地下鉄サリン事件や阪神大震災などは我々に通告したのだから。
とにかくページがどんどん進む本だった。氏の活き活きとした描写は、前線の極度の緊張感を28年の月日を超えて余す所無く我々に伝え、心拍数まで上昇させてくれる。陳腐な表現で恐縮だが、上質ノンフィクションの醍醐味を十分に味あわせてもらった。▲99.8.19/RT
「ドキュメント・屠場」 鎌田慧・著 岩波新書 ★★★
ほとんどの人の生活に今や肉食は欠かせない存在になっている。しかしそれら食肉がどの様なプロセスを経て市場に供給されているのかに関しては、多くは語られていない。本書はこの「食肉処理(屠畜)業」の本当の姿、そして差別に対し如何に立ち上がってきたかを、実際に「食肉処理場(屠場)」で働く人々の生の声を通して浮き彫りにしている。考えさせられる本だ。
古代、屠畜業に携わる人々は「ケガレを除去する霊能的なキヨメ集団」として畏れられる存在だったが、13世紀頃から差別的地位に位置づけられていった。その流れが江戸時代を経て、現代に残る職業差別につながってくる訳だが、この根底にあるものとして筆者は仏教的な「殺生戒」「穢れ観」を指摘する。 この様な状況の下、第二次大戦後の日本でも食肉処理業に携わる人々は皆多かれ少なかれ差別と戦ってきたが、彼らの戦いを支えたのは熟練した技能者としてのプライドと向上心であり、その意味で明治以降の食肉処理、いや日本人の肉食は「世間の差別」と「職人気質」との熾烈な戦いの上に成り立ってきたと言えるだろう。本書で多くの紙幅を裂いて収録されている筆者と「職人」達のインタビューを読むと、その様な思いを抱かざるを得ない。
戦後の学校教育現場、特に小学校では「生き物を大切にしよう」という概念を重点的に教え込む。その為に校庭のウサギに世話をさせたりするが、これはこれで人間性を育てる意味で極めて重要な事と考える。しかしこの概念は、生物としての人間が避けて通れない食物確保、端的には「動物を殺めて食用にする」事との衝突を免れない。にもかかわらずこの衝突に関しては教育現場で何ら解決されない為、多くの子供たちはいつか「食肉処理」という現実に気づいた時に自己矛盾(動物を殺すのは悪い事だが、自分は肉を毎日食べているではないか....)に陥り、その結果食肉処理というプロセス事体を「考えたくない・触れたくない」と感じ、故意に目を背けるようになるのではないだろうか。私は、食肉処理に対する世間の無理解はこの様な戦後教育にある様な気がしてならない。
「生き物を大切にしよう」というスローガンは非常に明快で、子供にもすんなり受け入れられるだろう。しかしそれと同時に「人間を含む全ての生き物は、他の生き物を食べなければ生きていけない」という厳然たる事実もしっかり教え込む必要があると考える。そうすれば上で述べた自己矛盾も払拭され、更には教育現場で「あきら君、給食を残してはいけません。あきら君のために肉をくれた豚さんに申し訳ないでしょう!」などという指導も可能になり、ひいては「生き物を大切にする」教育にもつながると考えるのだが。▲99.5.8/RT
「敗戦の逆説」 進藤榮一・著 ちくま新書 ★★★
第二次世界大戦に敗れた旧枢軸国は連合国による占領下に置かれる事になったが、日本だけは他2国と異なり「間接統治」「アメリカ単独占領」という特異な占領形態が取られた事は周知の通り。天皇制は戦後も維持され、保守政治も戦前・戦後を通じて基本的にその流れを保っている。本書では、戦後日本の占領政策にはアメリカの如何なる意思が含有されているのかを、戦時中1943年当時から進められていた同政府内での議論を基にまず解明している。
終戦後の日本を非軍事化するにあたっては、満州事変以前の「平和日本」に戻らせるべきとの意見と、全く新たな平和国家を作り出すべきとの前向きな意見の2つが存在した。また対日政策を強硬に進めるべきか、穏健に進めるべきかに関しても意見は分かれた。これらの決定に当たっては当時勢力を伸ばしつつあった共産圏の動向が大きな影響を及ぼし、結局それぞれ後者の選択がなされるに至った訳だが、そのアメリカの占領施策が現在の日本社会が抱える問題の根本に位置している、と筆者は指摘している。
私はまず、日本がまだ緒戦の勝利に沸いていた1943年当時、既にアメリカが終戦後の対日占領政策を詳細に検討し始めていた事実にまず驚かされた。この事は冷静に考えると至極当然の事ではあるのだが、日本の戦争教育が第二次大戦を「国民総力戦」的扱いで取り上げてきたため、私自身、アメリカ側がその様な冷静な分析を行っていた事にこれまで想像が及ばなかったのである。私自身の想像力の欠如も原因の一つであろうが、片面的な教育では個人の想像力を伸ばせない事も改めて思い知った気がする。
アメリカの占領政策に対しては従来から批判が寄せられている。それは「勝者による押し付けの改革(究極的には憲法)」という類のものだが、私は、問題は当時の占領施策にあるのではなく、サンフランシスコ平和条約後半世紀近くもこの「占領政策」に抜本的な見直しを入れなかった日本政府にむしろある様な気がしてならない。筆者も述べているが、戦後の日本は間接統治・天皇制維持・保守政治の連続という敗戦国としては「恵まれた」条件でスタートできた。しかしどんな政策でも経年劣化は免れない。現代日本の抱える多くの問題は、自らの政治的基盤の動揺を恐れる余り、この「占領政策」を時勢に応じてなんらメンテナンスして来なかった政府・与党に起因しているのではないかと深く感じる。
大変面白い本だったが、帯の「われらが出生の秘密」という宣伝文句は替えるべきではないか。筆者自身が終章で使用している単語なので出版社側で使いたい気持ちも分かるが、この一行の意味は本書を最後まで読まないと全く分からない。▲99.4.28/RT
「兵士に聞け」 杉山隆男・著 新潮文庫 ★★★★
本になる事の決して無い原稿を、毎日毎日ただひたすら書き続ける。そんな日々を50年近く送っているのが自衛隊である。彼らが国民にその存在を感謝される事があるとすれば、それは有事か大災害の時である。そう、平時には意識されない空気の様な存在。しかもその「空気」は国民の一部からは激しく嫌悪され、鼻を抓まれ続けている。東芝と日立の全従業員数を合わせたよりも更に多い隊員を有するこの巨大組織に属する隊員一人一人が、何を考え、何に生きがいを見出しているのか。そんな私の以前からの疑問にこの本は見事に応えてくれた。
自衛隊内では決して花形とは言えない「災害救助部隊」が、実は自衛隊内でもっとも社会と繋がり、隊員の仕事が結果として現れて「やりがいがある」るという現実。反面でいわゆる花形である戦闘機部隊等は自衛隊設立以来「実戦」を一度も経験していないという、世界でも有数の装備を誇る軍隊=自衛隊が抱える構造的矛盾。護衛艦は次々と新造されるが、乗組員は増やされないために隊員一人一人の負担は数倍に重くなっているというやるせなさ。これらに潜む問題点をただ書き並べるのではなく、著者は隊員の生の声を詳細に取材し、彼らの微妙な心の動きを通じて我々に活き活きと伝えてくれる。後半では、カンボジアにPKO部隊として派遣された隊員達が肉体面・精神面共に味わった極限を委細に渡って記しているが、現地での様子だけでなく、帰国後に彼らが味あう事になる「カンボジアに行けなかった隊員達との軋轢」も、自衛隊員の微妙な心理状態(この場合は「僻み」)に思いを巡らせる上で非常に興味深い。
自衛隊が「軍隊ではない」事に起因する多くの矛盾を改めて認識出来た。本にならない原稿を延々書き続ける日々の中で必死に自分を捜そうとする隊員達、特に若手の苦悩を少しは理解できたような気がする。しかし大局的に言えば、自衛隊が軍隊である以上、兵士の生きがいが常に満たされている様な「キナ臭い」状態は決して好ましくない。大局的な理解(平和が一番)と個人的な欲望(訓練の成果を世間に表わしたい)のバランスを取るのは、我々「文民」が想像する程容易ではないのかもしれない。我々サラリーマンにとっても「仕事とは」「生きがいとは」と考えさせられる内容。オススメ。▲99.4.6/RT
「巣鴨プリズン」 小林弘忠著 中公新書 ★★★
敗戦後、多くの人が戦争犯罪人として連合国側により訴追され、巣鴨プリズンに収容されていた。東条秀樹や広田弘毅といったいわゆる戦争指導者レベルから、上官の命令に従い捕虜を殺めてしまった若い兵士まで、多くの日本人が絞首刑を宣告されたが、彼らに教誨師として接し、最期を看取ったのが仏教家・花山信勝である。本書では彼の回想と言動、そして刑場に消えていった多くの囚人たちの言葉を通じ、戦争犯罪や死生観について読者に考える材料を与えている。
本書は非常に多くの「考える材料」を与えていると思う。私も戦争犯罪や死生観に関し、読後に様々な思いを巡らせるに至っている。が、私は本書の示唆するところはそれだけではなく、現代社会、とりわけ企業社会での「上司と部下の関係」に関しても多くの考える材料を与えるものと信じる。刑場へと引きずられながら、鉄網の向こうに控えるかつての上官に向かって「助けて下さい!私はあなたの命令に従っただけなんです!助けて下さい!」と泣き叫ぶ若い兵士。何もできない上官。そしてその上官も後日絞首刑を宣告され、花山の教誨を受ける身となる。部下の命を奪う事になったその「命令」も、戦場の緊迫する状況では上官にとって不可避だった。しかし部下は自分の命令を忠実に実行したために処刑された。待てよ、そう考えると自分ももっと上層部の命令に従っただけではないか.... さまざまな想いが去来しながら処刑の日を迎えるこの上官の心情は現在の企業社会にも投影出来るであろう。読者それぞれがじっくり考えを巡らせて欲しい。
仏教に根差す花山の冷静な教誨により、東条秀樹をはじめ多くの被告達は自分の責任を真摯に受け止め、自分の死が平和な日本への礎になる事を念じて処刑台へと向かった、と本書にはある。戦争犯罪や東京裁判に関しては、戦後50年を過ぎた今でも多くの議論が展開されている。本書はそれら議論には敢えて触れず、戦争犯罪者を個人として捉えた上で精神面から戦争責任について考えている点が斬新と言えよう。一気に読んでじっくり考えよう。▲99.2.14/RT