
人文一般
| ★★★★〜★は私の「満足度」です。 |
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| 人文一般 現在32冊 | |
| 書名 | 著作者 |
| 検索バカ | 藤原智美 |
| ぎりぎり合格への論文マニュアル | 山内志朗 |
| 横書き登場 | 屋名池誠 |
| わたしを認めよ! | 勢古浩爾 |
| なぜ人を殺してはいけないのか | 小浜逸郎 |
| 人権を疑え! | 宮崎哲弥 |
| 悪魔のささやき | 加賀乙彦 |
| 権威と権力 | なだいなだ |
| 被差別の食卓 | 上原善広 |
| 上司は思いつきでものを言う | 橋本治 |
| 英語を子供に教えるな | 市川力 |
| 日本人はなぜいつも「申し訳ない」と思うのか | 長野晃子 |
| 砂の文明・石の文明・泥の文明 | 松本健一 |
| 「不自由」論 | 仲正昌樹 |
| バカの壁 | 養老孟司 |
| 日本語の作文技術 | 本多勝一 |
| 大学受験のための小説講義 | 石原千秋 |
| 一億三千万人のための小説教室 | 高橋源一郎 |
| 女は男のどこを見ているか | 岩月謙司 |
| 結核という文化 | 福田眞人 |
| 儒教 ルサンチマンの宗教 | 浅野裕一 |
| 知能指数 | 佐藤達哉 |
| 正常と異常のはざま | 森省二 |
| ぼくが読んだ面白い本・ダメな本 そして ぼくの大量読書術・驚異の速読術 |
立花隆 |
| 失言する人には理由がある | 福田健 |
| 懐かしい未来 | 長山靖生 |
| リスクセンス | ジョン・F・ロス |
| 歴史をかえた誤訳 | 鳥飼玖美子 |
| だれが「本」を殺すのか | 佐野眞一 |
| チーズはどこへ消えた? | スペンサー・ジョンソン |
| 話を聞かない男、地図が読めない女 | アラン/バーバラ・ピーズ |
| 記憶は嘘をつく | ジョン・コトール |
「検索バカ」 藤原智美・著 朝日新書 ★★★★
私は「空気読めよ」というフレーズが大嫌いである。自分の子供に「空気読め」と教育している父親の例が本書で紹介されているが、もはや想像の域を超えている。「空気読め」とは「周りに従え」という事であり、その時点で既に劣勢に立たされている。子供にそんなこと教えてどうするのか。「空気なんて読むな。おまえが空気を作れ」とでも言えば逞しさも感じるのだが、そんな事を言う親は初めから「空気」なんて単語は使わない。他人の行動に物言いを付けるのであれば、「空気」なんていう『仮主語』を使わずに、自分の言葉ではっきり伝えればいい。
本書を読んで少々ハイテンションになってしまった。著者の藤原氏は、ネット検索の結果や各種セールスランキングで世論(せろん)を確かめないと安心して行動できない人々が増えていると指摘し、そこに存在する同調圧力と、思考の不在を嘆いている。そりゃそうだろう。周囲と異なる意見を持ち、それを語り合ったり論争したりする文化がほぼ絶滅した以上、一人で思考して何になる。みんなが支持する嗜好や意見を着飾れば、周囲の人たちとも楽しくやれるし、イザコザも生じ得ない。空気を読めばみんなハッピー。…こんな社会に誰がした。
検索によって「空気」を探るが、その探り当てた「空気」の同調圧力に人は自ら縛られる。自分の意見や嗜好が「空気」に合致すれば『やっぱりね』と自信を深めるが、違えば慌てて黙って修正する。それでいて「空気」に従わない人には「空気読め」と迫る。本書の仮説は以上の流れで進み、ものを考える習慣が奪われていく姿や、「世間」というものが担った役割、そして言葉と対話の意義について論考が展開される。
オーバーな話かも知れないが、日本が成熟した民主主義社会に脱皮するためには、現在の様な過度の「お友達社会」は改めなければならない。そんな問題意識を深くした一冊。討論を喧嘩と履き違える若者が多いので、まずは高等教育でディベートを徹底的に教えるべき。議論なき社会に未来はない。「空気読め」に違和感を覚える人には必読の一冊。▲2009.12.1
「ぎりぎり合格への論文マニュアル」 山内志朗・著 平凡社新書 ★★★★
卒論や入試の小論文で「立派な論文」を目指すのではなく、あくまで「ぎりぎり合格」ラインを狙おうという人に向けて書かれた本である。自らの専門分野で立身出世して羽ばたいていこうという人ならともかく、ある意味通過儀礼として論文を書かなければならない状況に立たされた人々にとって、少ない努力で良い結果を出そうという考えはむしろ合理的であり、褒められて然るべき話だと思うのだが、これまで書かれた「論文の書き方」本は論文に『全力投球』しすぎた。とてもじゃないが「少ない努力」なんかではものにならない。もちろん、文章の書き方の基本を理解するにこの種の本格的な書物は必ず役に立つ訳で、こんな駄文を10年以上書き散らしている私ですら何冊か読んではいるのだが、みんながみんな編集者やライターになるわけでもないので、「ぎりぎり合格」を目指すにはどうしても過剰スペックになってしまう。そういうニッチを捉えてこの本を世に問い、既に12刷りをものにした著者・山内氏のセンスにまず脱帽である。
「論文とは、何よりも最初に問題設定をして、しかもその問題設定を答えの出るように整えることに始まる。その次に、問題設定に答えるよう論旨を進めていくことが大事になってくるが、その際、展開される内容=論文の本体は、他の人が再検証したり、吟味できるものになっていなければならない」(p.156)という、これから論文というものに取り組んでいく高校生や大学新入生にとって非常に重要な基本事項を押さえた上で、山内氏は「ぎりぎり合格」を目指すためのコツを伝授する。文章を書く上で知っておかなければならない様々なルールだけでなく、自分の本音を論文向きの表現に変換した例文や、大学教員が如何なる基準で論文審査をしているかなど、時に笑いを誘い、また時に学界という特殊な世界に首を傾げてしまう様な情報が満載である。
「〜はバカだ」と言いたいときは『〜の見解には再考の余地が残る』と表現したり、根拠のないことを書いて他人から突っ込まれたくないときは『…と述べても、必ずしも全ての人が反対するとは限らないだろう』と逃げたりと、いかにも有りそうな表現が多く大変面白い。普段からこんな表現ばっかり使っていては周囲から嫌われるだろうが、これもある意味処世術の一つだろう。論文に縁がない仕事に就いている人にも面白く読める一冊だと思う。▲2009.11.3
「横書き登場」 屋名池誠・著 岩波新書 ★★★
欧米諸国の空港や電車内で縦書きされた日本語の本を読んでいると、ページをめくる様子をじっと見つめられる事がある。彼らにとっては、左から右へページをめくるというのが大変珍しいらしく、縦書きされた日本語を見せると更に物珍しそうにする。生まれてからずっと横書きで育ってきた欧米人にとって、縦書きでも横書きでも表現出来る日本語というのは、私たちが考えている以上に異質に映るようだ。
本書によると、文を書く方向の事を「書字方向」と呼ぶらしい。日本は伝統的に「右から左へ行が移る縦書き」を用いて来たが、現代では「左から右への横書き」が主流である。その過程において「右から左へ移る横書き」が存在した事は、年配の方だけでなく、若い人も書物などを通じて知っているが、それら移行がどの様に行われたのかはあまり知られていない。日本語学者の屋名池氏はこの「書字方向の変遷」に関心を抱いて本書を著わした。
書字方向が変遷してきた背景として、人々が抱く西洋文明へのイメージや、その時の国家政策、そして文を書く手段の移り変わりが指摘されている。移り変わりのありようは決して単純に時間軸で区分できるものではなく、これら要素が複数相互に影響しあって徐々に変化してきたという仮説は新鮮で興味深い。明治期以降一旦広まった合理的な「左から右への横書き」が、太平洋戦争中に国粋主義を信奉する政府の意向で「右から左への横書き」に戻されながらも、終戦後時を置かずして社会全体が自発的に「左から右への横書き」へ移行したという話は、手書き主体だった頃の社会に書字方向が如何に大きな影響を及ぼしていたかを示す証左であろう。
世界の文字についての本は何冊か読んできたが、書字方向に関する研究が存在する事は全く知らなかった。現存する様々な資料を写真で掲載しており、書字方向の変遷を読者も実感する事が出来る。これまでにありそうで無かった、なかなか得難い一冊だと思う。▲2009.1.16
「わたしを認めよ!」 勢古浩爾・著 洋泉社新書y ★★★
「世間を見返してやりたかった」等という身勝手な動機で他人を無差別に殺害する事件が発生すると、マスコミに登場する「有識者」や「コメンテーター」は決まって「私たち社会にも問題はなかったか」とか「心の闇の究明が待たれます」等という紋切型のコメントを出す。被疑者を庇う発言をすれば知性を示せるとでも思っているのか?と私はいつも辟易するのだが、かといって被疑者を単に攻撃し、重罰を主張するだけでは床屋談義と変わらない。マスコミは国民のレベルを越えられないのだから、紋切型のコメントにも一々腹を立てずに聞き流すのが吉なのだろう。
そんな事を思い出したのは、「人は認められないと生きていけない」という、本書の基本思想に接したからだ。「ほとんど誰からも認められず、自分で自分を認めることもできない自分が、ここにこうして存在しているという事を証明するため」(本書まえがき)に破壊的犯行に及ぶことがあるというのだ。無差別大量殺人で訴追されれば、自分の実名とこれまでの人生が広く全国に報道され、やがてその身は犯罪史に名を遺して処刑台に消えていく。それにより自分をこれまで認めなかった周囲の人々を見返してやろうという、ある意味自爆テロの様な心理状態は、その行為の重大な責任を減殺する事は絶対に無いとしても、想像が及ぶ範囲内にはある。そうならないためには、周囲から認めてもらうのが最善だが、それが叶わない人は「自分で自分を認める」しかない。
本書の最終目標地点は「他人の毀誉褒貶に翻弄されない自己承認」である。だれからも承認されないこと、すなわち「孤独」の状態から話は始まり、人はどうやって「承認」されるのかを家族・異性・社会といった側面で分析した上で、こんにち人々に蔓延する、他者との比較の上での自己承認(あの人よりはマシ)の不安定さを指摘する。そして最終章では、どうすれば他人に左右されずに自分で自分をリアルに認める事が出来るかについて論を進めている。
終身雇用制度が崩れ、非正規労働による雇用問題が広がる昨今、従来であれば年齢に応じて得られていた「承認」を得られず苦しんでいる人が増えている。2000年に出版された本だが、今こそもっと読まれて良いのではないかと思う。▲2009.1.13
「なぜ人を殺してはいけないのか」
小浜逸郎・著 洋泉社新書y ★★★
「人は何のために生きるのか」「自殺は許されない行為か」「他人に迷惑をかけなければ何をやってもよいのか」といった難問にリアルに立ち向かわねばならない状況には、できれば置かれたくないものだが、ふとしたきっかけでこういう問いが頭を過ぎることは誰しもあるだろう。宗教的バックグラウンドのある人なら、そっちの方向で問いは解決するのだろうが、そうでない一般的な人々の思考は往々にして行き詰まる。昔と違い、今どき友人や恋人にこういう問い掛けをしようものなら「ドンビキ」されるのがオチで、下手をすれば宗教の勧誘だと誤解される。それもあって多くの人は「まぁいいか」と問いを放棄する訳だが、本書はそういう安易な幕引きに物足りなさを覚える人に好適な一冊である。
評論家の小浜逸郎氏は本書の中で「人々が生きていてぶつかる疑問には、うまく答えの出ないものが多い」とし、その理由の1つとして、その問い自体のありように目を向けている。「問いというものは、出された瞬間から、一つの枠の内部に人を拘束するので、多くの場合、答えようとする思考経路が問いそのもののありようのなかに閉じこめられてしまう」(本書8ページ)とし、発問自体を工夫する事により思考の袋小路から脱する事を試みる。小浜氏は「人は何のために生きるのか」という問いも「あまりうまい問い方ではない」とし、「素朴なレベルで立ち上がるそれらの問いの必然性を認めるところから出発して、なぜその問いでは行き詰まりになるのか、どこに難点があるのかをよく見極め、それをとおして次第に初めの問いを洗練されたものに仕上げていく」べきとする。その考えのもと本書は、冒頭で紹介した3つを含む10の「難問」を取り上げ、それら問いが生まれた背景を解きほぐす事により、思考の袋小路からの離脱とそれら問いの再構築を試みている。
「問いのありよう」を見直す事で難問解決の糸口をさぐるという考え方は面白く、応用出来る範囲は広いだろう。10の難問を解体・再構築していく過程も明快。ただ、それぞれの問いに明確な答えを示している訳ではないので、それを期待して読むと「質問を言い換えているだけじゃないか」と強い不満が残るだろう。誤解を招きそうな題名は何とかした方が良い。▲2009.1.11
「人権を疑え!」 宮崎哲弥・編 洋泉社 ★★★★
現代の日本社会において、相手を黙らせる上で切れ味抜群の殺し文句といえば「人権」であろう。人権は尊重しなければならない、踏みにじってはならない、という教育を長年受けてきた私たちは、議論や紛争の相手にその急所を突かれると忽ち黙り込んでしまう。ひとたび「人権侵害だ」と指摘されると、指摘された方はあたかも相手より強い立場であるかのごとく擬制され、何故かその挙証責任まで負わされてしまいがちだ。「私は人権侵害なんてやっていない。何故ならば・・・」という証明はまさに「悪魔の証明」であり、それは往々にして首尾良く運ばない。人権は大いに尊重されるべきだし、人権を軽視するつもりは毛頭無いが、今の世の中では「人権」という言葉があまりにも広義に使われ過ぎているように思える。その結果、社会一丸となって守るべき本当に重大なものが、その他大勢の中に埋没するのではないかと危惧している。
そういう事を漠然と考えている時に本書に出会った。著名な7人の論者が、巷間に流布する「人権」をその定義から再評価し、エモーショナルな絶対視を排した上で、その相対化と本質の再構築を試みている。多くの論考に共通する考え方は「人権思想は天与のものではなく、作為的な創作物である」というものであり、その論証にも多くの紙幅が割かれている。
本書が収録する論考の中には、エクストリームに過ぎると思われるものもあり、編者の宮崎氏も書いている通り「劇薬的」な内容をも含んでいる。無批判に読むべき本では無いし、それがまだ出来ない子供に読ませてはならない。ただ、テレビを代表とする近年の「微温湯メディア」では接することの出来ないこれら論考に多くの大人が接し、考えを深める事で、社会の構成員として有するべき価値判断力を鍛えられるだろう。大変刺激的な一冊であった。裁判員制度が始まる前に一読をお勧めする。▲2008.3.19
「悪魔のささやき」 加賀乙彦・著 集英社新書 ★★★★
戦時中は「鬼畜米英」と叫んでいたのが、終戦を迎えると「これからはアメリカから民主主義を学ぶべき」と一変し、そして暫くすると社会主義にかぶれた若者たちが学園紛争や反安保・左翼運動を引き起こす。それが落ち着くと重厚長大産業中心の成長経済社会が到来するが、80年代後半になるとバブル景気に踊って金融財テクに不動産ブーム。その後の不況で金融業界が失速し、21世紀になりITバブルも追って破綻すると、今度は「モノ作りが日本の礎」と言い出して日本中が「プロジェクトX」化する。どの国でも社会の経時変動は見られるものだが、やはり日本社会のブレは大き過ぎるのではないか。そういう問題意識に答えてくれる一冊を見つけた。
筆者の加賀氏は拘置所の医務技官を務めた経験を持つ精神科医である。重大犯罪を引き起こした多くの服役囚との交流を通じ、無意識レベルに作用して人に犯罪を引き起こさせる「何か」が存在する事を確信するに至る。多くの服役囚が「悪魔のささやき」と呼ぶのがそれであり、事後どう思い起こしても正当化出来ないというのだ。私たちの日常生活においても、例えば「どうして私はこの仕事のこんな大事なポイントで手を抜いてしまったんだろう?」とか「あの日なぜこれを確認せずに退社して飲みに行ったのだろう?」という具合に、後で原因が想起できない間違いに悩まされる事があるものだ。こういう時に私たちはしばしば「魔が差した」と言うが、それはまさに「悪魔のささやき」と同義だろう。
人間の心に「悪魔」がフッと入ってくるメカニズムと、それをなかなか防げない日本人の心理を様々な視点から分析している。キーワードは「無意識の個人内情報操作」と「他人指向型の生活」。「悪魔」から身を遠ざけるには、人格を磨き、確固たる自分を持つしかなく、そのためには読書で教養を身に付けなければならないという氏の主張は、「教養主義の没落」(竹内洋・中公新書)にも通じるといえよう。また本書で指摘されている日本人の「関心の狭隘化」は私も強く危惧する所である。現在社会の問題を鋭く捉えた一冊であり、内容も分かりやすく特に若い人たちに勧めたい。▲2007.12.2
「権威と権力」 なだいなだ・著 岩波新書 ★★★★
以前どこかで読んだ本に「人間は選択枝をあまりに多く与えられると、多数派に流されるようになり、かえって選択をしないようになる」という一文があった。人間は決断を下す際にどうしても不安を感じてしまうもので、その決断があるレベルを越えて困難になると、他人の基準につい身を委ねてしまうという趣旨であった。難しい病気に罹れば「名医」と呼ばれる医者の門を叩き、余剰資金の運用を考える時にはまず大手金融機関に相談するというのも、同じ心理傾向に基づくものだろう。
そういう際に「身を委ねて」しまうものこそ「権威」と呼ばれるものである。世の中にはあらゆる権威が溢れており、無数の肩書や官位、資格などが、その「権威付け」に大きな役割を果たしている。しかし「権威」がある人や組織に「権力」も備わっているかというとそうでもない。社会に有用な研究を続ける高名な大学教授に対しては、一般市民も権威を感じる事があるだろうが、その教授が市民に対して命令権や懲戒権などの「権力」を有している訳ではない。その逆もまた真なりで、「権力」の象徴である警察官が、市民から尊敬される「権威」を有しているかというと、ちょっと違うだろう。
本書は、自らがクラス委員を務める学級をどうすればひとつにまとめる事が出来るのか悩む一人の高校生が、精神科医である「私」との対話を通じて様々な事を学んでいく形式で話が進む。「権威」と「権力」が市民社会の特質に及ぼしてきた影響と、その危うさ、そしてその先にあるべき「多様性ある社会」を見据えた論考が、分かりやすく記されている。
「権威は決して、権威者の内部で自覚されない。だから、権威ある人間としてふるまおうとする人間は、権力的になる。権力をふりまわす人間になる。そうならざるをえないのだ。(81ページ)」「権力支配は、常に権威と民衆のあいだに入りこんで、自分の背後に新しい権威を作りあげる(209ページ)」。本書の初版は1974年であり、これまで多くの人々に読まれてきた。権威と権力の相互作用をどう制御すべきかというのは、21世紀を迎えた現代でも非常に身近で今日的な命題である。▲2007.11.25
「被差別の食卓」 上原善広・著 新潮新書 ★★★★
各地に伝わる家庭料理というものがあり、書籍やテレビ番組などでよく紹介されている。だが、関西地方のいくつかの地域に伝わる「あぶらかす」や「さいぼし」といった料理は広く知られてはいない。牛の腸を輪切りにして牛脂で揚げた「あぶらかす」や、薄くスライスした牛の肉片に塩をすり込み数日間干した「さいぼし」は、古くから食肉処理業で生計を立てることが多かった同和地区で伝承されてきた料理だという。私も本書を読むまで、これら料理の存在すら知らなかった。
同和地区に育った筆者は、独特の食文化である「あぶらかす」に触発され、社会的に迫害を受けている人たちの間には同様の食文化が存在するのではないかと考え、世界各地を旅した。出版時33歳だった若者が記したルポルタージュである。
かつての奴隷制の痕跡として今日も存在する、豚の耳や足を煮込んだフェジョアーダと呼ばれるブラジル料理や、ヨーロッパでジプシーとして知られる人々の間で伝わるハリネズミ料理、さらには、カースト制の底辺で生きる人たちがネパールの社会的タブーに反して食してきた牛肉料理など、世界各地に同様の食文化が存在していることを紹介している。また、私たちが身近に感じるアメリカの「ソウルフード」にしても、元々は貧しい黒人たちの料理だった事も取り上げ、現在のソウルフードの実態にも関心を向ける。
決して興味本位ではなく、問題意識に裏付けられた真摯な取材が行われているが、過去この種の本にありがちだった告発調の暗さは全くない。忘れてはならないこの問題における、新しい世代の登場を感じさせる好著。▲2007.9.30
「上司は思いつきでものを言う」 橋本治・著 集英社新書 ★★★★
上司も人間である。これは本書が繰り返し読者に伝えているキーワードであるが、単純に見えて実は大変含蓄のあるメッセージだと思う。上司と呼ばれる立場になったからといって突然聖人君子になる訳ではなく、部下の優秀な提案には嫉妬するし、これまでの自分を否定されるような新提案には拒絶反応を示してしまう。さらに「上司」といえどもその上位者に対しては「部下」としての振る舞いを続けなければならない。会社員であれば誰しも経験するであろうこれら事象を、橋本治氏がユニークな事例を設定して分析していく、楽しい本である。
この本は基本的に「部下」の立場から書かれており、彼ら「部下」が上司に対して日頃感じている鬱積した気持ちを解き放つよう試みている。もの分かりが悪く、いきなり思い付きでとんでもない事を言い出す「バカな上司」を持つ部下に対しては、上司も人間である事を諭した上で、上司は決してバカでは無く、以前いた「現場」が懐かしくてあれこれ言っているのだと説く。その前提には、上司は部下より偉いので何かコメントしなければならないとか、そのまま通すのでは自分の存在意義が見い出せないという精神構造があるという。思い当たる節のある人も多いのではないだろうか。更に本書は、「上司」の立場にある人が部下をバカだと思うのであれば、その部下をバカのまま放っておく自分もバカであるとし、とにかく「現場の声」を聞く事に徹するよう提唱している。
「相手をバカにせず、かつ相手がバカかも知れない可能性を考慮する」というのが上司との付き合い方として紹介されているが、これは決して上司・部下の関係のみに用いられるべきものではなく、世間一般で広く活用出来る心構えである。橋本氏ならではの刺激的なフレーズではあるが、相手も「人間」である事を再確認し、その上で「これくらい分かって当然だろう」という先入観を排した付き合いをするべきというこの心構えは、ひょっとしたらあの『バカの壁』すら破れるかも知れない。とにかく面白く、様々な示唆に富んだ本である。会社員だけでなく、公務員や教育者、警察官、軍人に至るまで、上司・上位者というものを抱える全ての人にお薦めしたい本である。▲2004.7.26/RT
「英語を子供に教えるな」 市川力・著 中公新書ラクレ ★★★★
現在私は仕事の関係で欧州に駐在しており、朝から夕方まで、毎日の仕事はほとんど英語で行っている。海外部門で働き出して十年近く経った今、英語で困ることは公私ともに殆ど無くなったが、海外部門配属時の私は英語を全く話せない新入社員だった。そんな「とんでもない環境」に放り込まれた私に、当時の上司から与えられた「英語勉強期間」は1年。英語を1年で何とかしないと食いっぱぐれるかも知れない、というプレッシャーを受けた私は、友人に勧められたNHKラジオ講座「やさしいビジネス英語」(実際には全然やさしくない)を毎日何度も必死に聴き、また仕事で話す機会のあった欧米人と拙いビジネス英会話を繰り返した。全くもって手前味噌だが、今振り返ってもあの1年は非常に濃く、充実していた。「英語は必要に迫られないとマスター出来ない」とよく言われるが、私はそれに100%賛成である。仮に「給料が掛かって」いなければ、意志の弱い私は恐らく英語に挫折しただろう。
そんな経験があるからか、ただ何となく英語を使えるようになりたいという若者や、そういう人々に迎合するような英会話学校の軽薄なCMを見ると、どうにも歯痒く思えてしまう。そんな簡単な気持ちで使える英語はマスター出来やしない!という頑固な体育会的感情がその根底にあるのだが、本書で掲げられている『英語は一生かけて身に付けるものと覚悟する』というフレーズを目にして、私の考えはあながち間違いではなかったではないかと思えるようになった。
筆者の市川氏は、米国で駐在員子女向けに教鞭を執る進学塾講師。自らの多様な経験を基に、幼少時から英語を教える事が、子供の発育に重大な影響を与え、場合によっては母語喪失の危険をもたらしかねない事を指摘する事で、子供への安易な英語教育に警鐘を鳴らしている。考える力を育む上で基礎となる「母語」が確立出来ていない状態で第二外国語を学ばせると、論理的思考の形成に不都合が生じ、いつまで経っても子供のような状態が続きかねないというのだ。子供に英会話を教えるとすぐに「ハロー」とか言い出すので、親としては嬉しいものだろうが、物事を考える上での基礎となる言語(多くの日本人にとっては日本語)をまずはしっかり学ばせないと、取り返しの付かない事になりかねない。海外に住んでいると、日本語も現地語も中途半端になってしまった子供に出会うことがあるが、他人事ながら、その子の将来が本当に心配になってしまう。
まずは日本語をしっかり身に付けさせる、というのが筆者の基本的考え方である。そんなこと当たり前だ、と感じる人が殆どであろうが、そんな当たり前の事を本にしなければならないほど、バイリンガル強迫観念に苛まれた親が多いという事だろう。また筆者は現在の日本にはびこる「帰国子女幻想」にも批判的な目を向けており、海外滞在すれば国際感覚が身に付くという甘い幻想も痛快に切り捨てている。全編を通して明快な記述で読みやすく、海外に住む私にとって、実感を持って読めた一冊である。子供への英会話教育を考えていたり、海外赴任を控えている親には是非読んで頂きたいと思う。▲2004.4.5/RT
「日本人はなぜいつも「申し訳ない」と思うのか」 長野晃子・著 草思社 ★★★★
日本人はすぐ謝るが欧米人はなかなか謝らない、とよく言われる。私は仕事柄ヨーロッパ人と接する機会が非常に多いが、実際のところ、彼らも決して謝らない訳ではない。仕事上ミスをして自分が悪かったと思えば、彼らだってちゃんと謝ってくるし、私から見て「別に謝らなくても」と思う様な些細な事でも「アイム・ソーリー」と言って来たりする。ただそれは日常の仕事や付き合いの範囲内の話であり、一歩間違えば責任を問われそうな公式な場や、信頼関係が築かれていない相手に対しては、彼らは軽々しく謝らない。結局のところヨーロッパ人は、相手と良好な人間関係が築かれているか否かによって「謝り方」を調整しているのだが、その調整方法が日本人とは逆なのである。日本人の場合、親しくない他人に対してほど深く謝るものだ。
それでは、なぜ日本人は親しくない他人に対して深く謝るのか。それは「関係ない人に迷惑を掛けて申し訳ない」と思うからであろう。他人に迷惑を掛けてはならない、という道徳に反する行為に自責の念を感じるというのがその背後にあるが、それではこの「自責の念」というのは一体何なのか。この本の最大の主題はまさにそこにある。
本書は「自分に裁かれる日本人と神に裁かれる欧米人」と「外敵の攻撃か良心の呵責か」の2つをキーワードに、日本人の「罪の意識」の特質と欧米との差異を考察している。その手段として筆者は民話分析を採用し、日本と欧米でそれぞれ古くから伝わる民話における「罪を犯した者」の描かれ方とその結末を手掛かりに、人々の「罪」に対する潜在意識を深く探っている。日本の民話では「自分の犯した罪に対する自責の念」が色濃く描かれており、多くの場合、罪を犯した者は被害者の幽霊や祟りに悩まされ続ける。ところが欧米の民話では、罪を犯した者が自責の念に駆られる姿は全くと言っていいほど見られず、その代わり「神による懲罰」を恐れ、苦しむ姿が描かれている。ある者はその罪ゆえ死後幽霊となって古城や森を永遠に漂い続け、またある者は地獄の灼熱に苦しみ続ける。自分に裁かれる日本人は良心の呵責に苛まれ、神に裁かれる欧米人は神の懲罰という外敵の攻撃に悩まされるのだ。
非常に面白い比較文化論である。特に「自分に裁かれる日本人と神に裁かれる欧米人」というキーワードは斬新かつ秀逸。民話やグリム童話を題材にする切り口は誰にでも分かりやすく、大変興味深く読む事が出来た。また後半では「忠臣蔵」を題材として日本人の遵法精神や価値観についても深く考察しており、前半の内容と共に、日本人の「罪に対する意識」をより深く理解出来るようになっている。内容も構成も秀逸であり、誰にでもお薦めできる一冊である。▲2004.2.9/RT
「砂の文明・石の文明・泥の文明」 松本健一・著 PHP新書 ★★★
魅力的なタイトルに惹かれて購入してみたのだが、期待に背かず、なかなか面白い文明論であった。ヨーロッパ社会を「石の文明」、アラブを中心とするイスラム社会を「砂の文明」、そしてアジア社会を「泥の文明」と定義した上で、それぞれの「文明」の成立過程と特徴を記し、他の文明との間で生じうる確執とその克服を考察している。
ヨーロッパは地面を覆う表土が薄く、ちょっと掘り返すとすぐ石が出て来てしまう。従って基本的に農作物の栽培には向いておらず、古くから牧畜が盛んであったが、牧畜の拡大には牧草地の拡大が必須であるため、彼らは常に他の土地を収奪する方向へ意識が向いていた。そうして成立したのが「石の文明」であり、それは「外に進出する力」を内在している。それに対し、アジアでは豊穣な「泥」が農耕生活を支え、人々は寄り添って共同生活を行って来たため、外を収奪する意識は芽生えず、むしろ自分の土地をより豊かにするために皆で協力した。それが「泥の文明」であり、内在するのは「内に蓄積する力」である。砂漠に生きる人々の場合、過酷な環境ゆえ定住も叶わず、遊牧民として国境を越えて往来している。彼らの生業は交易であり、様々な情報網をベースに商品を適地へ運んで利益を得る。そんな彼らの「砂の文明」はまさに「ネットワークする力」を内在している。松本氏が提示する文明の定義はこのように要約できよう。
民族の基本的精神構造はその自然環境によって形成されると私は信じているので、松本氏の考察は無理なく受け入れる事が出来た。特にヨーロッパの土壌とヨーロッパ人のメンタリティーに関する部分の記述は、欧州滞在中の私には特に共感出来る点が多かった。ただアジアの部分に関しては、インド・タイなど南方諸国の記述が中心で、中国中・北部やモンゴル・朝鮮など「泥の文明」に属さないとされる部分が全くカバーされていないのは惜しい。松本氏は日本文明の南方伝来説に依拠していると思われるが、だからといって「泥の文明」以外のアジアを単に「砂の文明」「石の文明」を一括りにしてしまっては、それらの地域がどう「砂」でどう「石」なのか分からない。
あと、最終章「文明としてのインド再発見」がどうも全体の流れに調和していないような気がする。本書の趣旨は「泥の文明の再評価」だと見受けられるので、この章は松本氏にとって特に思い入れの深い部分だとは思う。しかし、3タイプの文明をより相対化して考察を深める事を期待して読み進めていた私にとっては、前章「『泥の文明』としての日本」までに留めておいてもらった方が、本書全体の流れはより自然であった。そういう点は気になったが、本書が提起した「砂の文明・石の文明・泥の文明」という概念は大変面白く、興味深く読めた一冊であった。▲2004.1.25/RT
『「不自由」論』 仲正昌樹・著 筑摩新書 ★★★
気鋭の社会思想史学者である仲正昌樹氏による、現代思想・哲学に関する入門書である。「人間性」や「自由」「自己決定」等、日常生活でいわば漫然と用いられている概念を出発点に、それらに対する思想家たちのアプローチを紹介した上で、筆者自身の論考を展開させていく。
ハンナ・アーレントやテオドール・アドルノ、ジョン・ロールズ等という、現代思想界をリードする思想家たちが多く取り上げられ、彼らの基本的思想が分かりやすく解説されている。全くの門外漢である私にも理解しやすく、興味深く読み進める事が出来たが、それ以上のコメントを書くだけの知的基盤と勇気を私は持ち合わせていないので、ここでは単に「分かりやすかった」という感想に留めておきたい。
そんな本書において特に印象深かったのは、本音を語る事が「人間的」であると受け取られる現代社会へ疑問を呈した『「本音」の非人間性』(第一章内)である。本書によると、アメリカの思想家・アーレントはその著書の中で、「人間性」の定義として「労働」「仕事」「活動」の3つを掲げ、特にその中の「活動」というのは、個人の様々な利害から解き放たれた人々による、公的領域での言語活動の事であると位置づけられた。仲正氏も指摘する通り、それはまさに古代ギリシャ「ポリス」での政治活動をベースにした概念ではあるが、アーレントは、経済的な利害がうごめく「私的領域」に身を置いたのでは本当の政治活動が出来ず、それを覆い隠した上で展開される言語活動こそが「人間性」の証だと考えた。この概念に沿って考えると、本音を語る事は「私的領域」を解き放つことにつながり、ひいては人間同士の醜いエゴを発露させ、人間性の崩壊に帰結することになる。
「必死になって不自然な『仮面』を被り続けようとしているからこそ(中略)『人間らしい』活動が可能になるのである」(本文より引用)という仲正氏の意見には私も賛成である。「本音トークか否か」に関心が集まる社会よりも、広い視野に立った本当に意味のある発言や議論(仮に本音でなくても)に市井の人々の関心が集まる社会の方が、どう考えても成熟している。私自身を含め、「本音トーク信仰」からはそろそろ卒業すべきだろう。
専門学術分野の動向を敷衍し、一般読者を更なる思索と探求へ誘うという「教養系新書本来の役割」を良く果たした本であり、その意味でも好感が持てる一冊であった。▲2004.1.5/RT
「バカの壁」 養老孟司・著 新潮新書 ★★
今日現在で160万部を突破しているベストセラーである。間違いなく今年最も売れた新書になるだろう。ひょっとしたら今年の流行語大賞の下位に「バカの壁」がランクインするかも知れない。そんな本書を手にとって読んでみたが、どうしてそんなに売れるのか?というのが正直な感想だ。
本書が論旨を進める上でまず提起する現状分析は、次のように要約されるだろう―「現代人は一元論に支配され、自分の考え方と異なる意見には耳を傾けようとせず、無意識のうちに『壁』を作ってしまう。『壁』の外からの問いかけに対しては、肯定的にも否定的にも反応せず、ただゼロ反応である」。その分析を踏まえた上で、脳の働きに関する生物学的な解説や、個性教育への批判、さらには身体を使わない都市市民による「脳化社会」への警告などを繰り広げる。
それぞれの主題に関する解説や批判は分かりやすく、共感できる内容もかなり多かったのだが、本全体としての主張がどこにあるのかが私には見えて来ない。恐らくは「みんなもっと多元的になろう」というのが本書の言わんとする事だろうと思うが、各段落によって構成されるべき論旨の流れが不明確であり、有り体に言えば全体として統一感が無く落ち着かないのである。
本書から得るものが無かった、とは言わない。脳の働きに関する記述など、その方面に疎い私には大変に参考になったし、大学教員としての経験を基にした教育論なども興味深かった。ただ、この本がミリオンセラーになるというのが分からないのだ。昨今の新書創刊ブームのせいか、いわゆる「教養系新書」は玉石混交が著しく、奇を衒ったタイトルに書き捨てたような中身を付け足したような本も多い。「バカの壁」はそのレベルの本とは比べ物にならないほど良質な内容であるが、それでも、もっと多くの人に読まれて欲しい新書が世の中にはいっぱいある。
結局のところ、今年最も売れた教養系新書が「バカの壁」である事が私にとって悲しいのだ。「教養系新書とはこうあるべきだ」という時代遅れの考え方で「壁」を作ってしまった私の、つまらない感傷である。▲2003.10.13/RT
「日本語の作文技術」 本多勝一・著 朝日文庫 ★★★
文の書き方を細かく添削することを「テニヲハから直す」と言うことがある。箸の上げ下ろしから口酸っぱく指導する様な、どちらかというとネガティブな印象のある表現だが、果たして「テニヲハ」をしっかり身に付けているのかと問われると答えに詰まってしまう人も多いだろう。それら助詞の使い方だけでなく、読点(、)の打ち方や改行の方法など日本語の基本的な文法に対して、多くの人は漠然とした不安を感じつつも、最後は「開き直って」文章を綴っている。
細かいことを気にしないでも意味は通じるものだ、という「甘え」に身を委ねるのも一つの生き方だが、文筆業や記者など「作文」を生業にしようとする者には、あくまで「テニヲハ」にこだわる生き方が求められる。また最近、私のようにインターネットで文章を発表する個人が増えているが、検索エンジンの発達によって、個人サイトに掲載されている文章といえども非常に多くの人々に読まれる事がある。世界中の不特定多数に向けて発信する以上、ネットに公開する文章にもある程度「テニヲハ」の気配りが必要だろう。
・・・などと偉そうな事を書いたが、本書を読むと、このサイトをすぐにでも閉鎖してどこかに身を隠したくなってしまう。自分の文章が「正しい日本語」から何と程遠い事か。取りあえずサイト閉鎖は見送るが、1ページずつ改めてチェックしたいと思う。読点の打ち方や修飾の順序、助詞の使い方や「無神経な文章」の例など、多くの例文を基にした解説は分かりやすく、示唆に富んでいる。特に「読点の打ち方」はこれまで悩みの種だっただけに大いに参考になった。新聞社や出版社の新入社員がまず読まされるのがこの本であると聞いた事があるが、さもありなんである。
著者の本多氏は人々の評価がかなり明確に分かれるジャーナリストであり、本書で引用されている例文なども相当に癖がある。私自身、彼の主張には賛成できない部分が多い。だがこの本にはそういった「マイナス点」をはるかに超えるだけの内容があり、プロの文筆家だけでなく、『日本語への慣れを切り捨て』て正確な日本語を書きたい人にとって必読の書である。作文講座において定本となっている谷崎潤一郎「文章読本」(中公文庫所収)と合わせて読みたい。▲2003.5.12/RT
「大学受験のための小説講義」 石原千秋・著 ちくま新書 ★★★
文系・理系を問わず、殆どの大学において国語は入試での必須科目とされている。特に現代文の試験では必ずといって良いほど小説が出題され、受験生たちは限られた時間の中で「主人公の気持ち」や「傍線部の意味するところ」を問題文から読み取る事を強いられる。小説の読み方は人によって違って当然だし、センター試験など選択式の問題では当てはまると思われる選択肢がどうしても見つからず、「主人公の気持ちなんて作者に聞かないと分からないだろ?!」などとイチャモンを付けたくなる事も結構あったものだ。
そんな悩める受験生に、小説問題の解き方を瑣末なテクニックに溺れずに解説しているのが本書である。例えば、学校教育の一環である入試問題において、小説の解釈は常に道徳的なものでなければならないという原則。小説の解釈に迷ったら、より道徳的な方を採用すれば入試では正解を得られるというのだ。大人の私たちが冷静に考えてみれば当然に思えるが、それを知らない受験生は「素直に」不道徳な解釈を採用して誤答とされかねないだろう。(その意味では「何が道徳的なのか」を判断できない学生に国語の問題は厳しい・・・)
本書は数多くの入試問題を引用・再掲し、それら問題を実際に解きながら話を進める構成になっている。その結果として多くの優れた小説に一部分ながら触れることが出来、特に一般の読者にとって本書は「読書案内」としても大いに楽しめる。受験生だった当時、私は読書とは縁遠い生活を送っていたのだが、今になって考えると「国語」は読書に親しむ上で非常に贅沢な教科であり、もっと真面目に取り組めば良かったと感じる事しきりである。受験生だけでなく、読書好きの社会人も楽しめる一冊。▲2003.4.4/RT
「一億三千万人のための小説教室」 高橋源一郎・著 岩波新書 ★★★
新聞でよく見かける広告の一つに「通信講座」がある。定番ともいえる「英会話」や「盆栽の楽しみ方」にはじまり、いま流行りの「フィナンシャル・プランナー」や「気象予報士」、更には「ユーモア教室」なんてのもあったりする。「ユーモア教室」の広告自体ユーモアに溢れているとは言えず、その成果は推して知るべしといったところだが、そんな中で最近目にするようになったのが「エッセイの書き方」「自分史講座」等という書き物系通信講座である。需要なくして供給無しとも言うし、書きたい気持ちを持ち、かつ講座費を払える人は世の中に相当数いるということか。資格好きの日本人のこと、そのうち「エッセイ技能検定3級」「第2級自分史アドバーザー」なんてのも出現するかも知れない。
「小説の書き方」「小説教室」などというタイトルの本は、書店の実用書コーナー(特に商店街の小さな書店)で昔から多く見かける。私はその手の本を真面目に読んだ事がないので批評のしようが無いのだが、本作品「一億三千万人のための小説教室」は、そういう「従来の小説教室」に対するアンチテーゼを基調として書かれているようだ。
小説の書き方を決めるのは自分である。一行目を書き始める前にじっくり考え、そして小説を「つかまえ」よう。他の作品を赤ちゃんの様に真似る事も大事である。本書が教えるこれら内容は、普通に考えられる「小説の書き方」とは大分印象が違う。独創性や技巧に微塵も傾倒することのない本書は、これらを自力で生み出せる「小説家」を育てるにあたって、彼らをどこかへ「導く」のではなく、むしろ走り出しの背中を後ろからグイと押す事で、その役割を果たすのではないかと思う。
高橋氏がNHK「課外授業・ようこそ先輩」の収録で母校の小学校を訪れ、「小説の書き方」を子ども達に教える企画をベースにした一冊。子どもを相手にした教室という前提で書かれた本なので、読みやすく分かりやすい。小説を書く気がなくても楽しく読めるのも、普通の「小説教室」と違う所だろう。▲2002.11.7/RT
「女は男のどこを見ているか」 岩月謙司・著 筑摩新書 ★★
女が男に求めるものは「智恵と勇気」であり、また男を選ぶ際には「母親に嫉妬されない男」を無意識に選ぶ。女は「自分に安心と快感を与えてくれる男性なら、相手のすべてを受け容れ」るもので、男を見る目は「セックスしたい男か、セックスしたくない男か、しかない」という。フェミニストが読んだら卒倒しそうな表現が続く本書は、女性が男性をどういう視線で見つめているかを、女心がわからない男性諸氏のために書いた本である。
この本の基調にある考え方は「陰徳や英雄体験を積み、智恵と勇気を磨く事で、女性に受け入れてもらえる男になれる」というものであり、冒頭から一貫してその重要性を説いている。これ自体は首肯できる話であり、男女間の話のみならず、充実した人生をおくるのに不可欠な要素である。だが女性側の考え方を説くあたりになると、かなり賛否が分かれると思われる内容が続く。女性が男性に「智恵と勇気」や「安心」を求めるというあたりは私も頷けるが、母親よりも幸福になってはならないという呪縛や、女性は常に最高のセックスを考えているなどという主張には共感することが出来なかった。著者が言わんとしている事は分かるが、それを裏付ける傍証に乏しいのだ。
本書の後半では『「いい女」に惚れられる男になる方法』として、さまざまな人生訓が繰り広げられている。個別に見ると納得できる内容が続くが、全体としてはまとまりに欠け、読後の印象は薄いと言わざるを得ない。いっそのこと後半の内容は全部割愛し、前半の「女は男のどこを見ているか」をもっと掘り下げて書いた方が、全体の印象は強くなったかもしれない。
厳しいコメントとなったが、本書を読んだ男性諸氏が、この内容を心の奥底に秘めて女性にアプローチする分には、意外と良い結果が表れるかもしれない。ただこの内容を女性と語り合ったりするのはまずい。本書の内容をどう受け入れるか、その「匙加減」の巧拙こそ、「良い男」になれるかどうかの分かれ目かも知れない。▲2002.10.30/RT
「結核という文化」 福田眞人・著 中公新書
★★★★
肺病・労咳などとも呼ばれ、死病として恐れられた結核。ストレプトマイシンという画期的な抗生剤が発見されるまでは、結核であると医師に宣告される事は、死の宣告にも等しいものであったという。結核は、次第に身体を衰弱させ、激しい咳と喀血とともに命を奪う恐ろしい伝染病であった。
ところが不思議な事に、結核という病気には昔からロマンティックなイメージも伴っている。高原のサナトリウムで静かに療養する美しい少女、痩せた体で静かに本を読む青年、そして美しい恋人との死別。堀辰雄『美しい村』『風立ちぬ』に代表されるこういったイメージは、他の病気には決して見る事ができない独特のものである。
本書は、結核という病気を医学・文化の両面から捉えて、その歴史を検証している。医学面では、古代ギリシャ時代から近代まで行われていた瀉血やタール水(クレオソート)などの様々な療法や、鯉の生き血や石油の服用などという奇妙な民間療法を紹介し、抗生剤が登場するまで人々が行った試行錯誤を記している。また文化面では、結核が文学や絵画に与えた影響を主に日本とヨーロッパで詳しく検証している。結核患者特有の白く痩せ細った身体、白い顔に紅潮した頬、そして潤んだ大きな目は、西洋における美意識に深く合致し、結核患者は多くの絵画や文学で描かれた。また日本でも、多くの文学作品に結核患者が取り上げられた。その背景と原因を本書は探っている。
近年、結核が再び流行の兆しを見せている。結核に対する無関心と警戒心の欠如、さらには医師の側の無知も手伝って、高齢者を中心に患者数と死者を増やしているのであるが、そこに、かつて見られたロマンチシズムは全く見られない。あのロマンチシズムは、死の恐怖に多感な若者たちが怯え、共鳴していた時代にのみ成立したのであろう。『美しい村』などを通して触れる当時のロマンチシズムに多少の憧れは感じるが、医学の進歩により結核の呪縛から若者文化が解放された事は、人類の偉大な足跡として記されるべきものであろう。結核という病気を総括的に検証した好著。▲2002.6.16/RT
「儒教
ルサンチマンの宗教」 浅野裕一・著 平凡社新書
★★★
『儒教にとって最も厄介な書物は「論語」である。同時に、儒教にとって最も困った人物は「孔子」であった。』(本書より抜粋)
貧しい家に生まれ、その後も恵まれた境遇には決してなかった孔子。だが上昇志向だけは人一倍あった。古代三帝の礼学を知り尽くした類希なる礼学者であると自ら名乗り、各地の諸侯に幹部への登用を売り込んで回った。いつかは自らの王朝を建てる事を夢見ながら。しかし実際には誰からも相手にされず、弟子達と共に各地を転々とする失意の生活を送っていた。誰も自分を登用してくれないことを嘆き、時に自暴自棄になったり、弟子に当たったりと、荒んだ日々を送っていた。論語の中にはそんな孔子の様子が多く記されている。
そんな孔子であったが、時代が下ると彼はまず「無冠の王者」として描かれ、のちには冠を有した「王」して記されるようになり、ついには「儒教」という宗教の聖人に祭り上げられた。礼学者として古代三帝の礼法を伝えるはずだった孔子が、その創造者になったのである。本書は、後学の徒がどのようにして孔子を祭り上げ、中華圏における代表的な宗教の開祖者に仕立てたのか、詳しく記している。
不遇の人生を送った孔子の世間に対するルサンチマンは、後学の徒によって見事に成し遂げられた。いまや中華圏で孔子の名を知らぬ者はいない。草葉の陰で孔子もご満悦であろう。儒教や中国に対する新しい見方を提供してくれる、面白い一冊である。▲2002.5.26/RT
「知能指数」佐藤達哉・著 講談社現代新書
★★★
「IQ」という略称で世間一般に広く知られている「知能指数」。だが、これほど曲解されている指標はないかもしれない。
100を超えれば平均より頭が良く、反対に100を割れば平均以下の頭であるという理解が一般的であるが、IQが意味するものは実はもっと狭いのだ。本書によると、IQの数値を求めるには、その人の「精神年齢」を「実際の年齢」で割って100倍すればいいらしい。例えば、実年齢5歳の子供が7歳相当のことが出来る(精神年齢7歳)場合の知能指数(IQ)は「7÷5x100=140」で求められるのだ。この式が示す通り、IQというのはあくまで「その年齢における平均的な発達具合」に対する被験者の発達具合の比率であり、絶対的な「頭のよさ」を示すものではないのだ。
にも関わらず、人々はIQに群がる。頭のよさというものを数値化することで自己を差別化したり、あるいは他人を差別する事に対しては、古今東西を問わず根強いニーズがあるのだろう。例えば、19世紀のヨーロッパには「頭蓋計測学」などの学問があり、人々の頭のよさを身体計測的アプローチから測ろうとしていたという。これは、頭蓋骨の大きさを測定する事で脳の大きさを推定し、頭のよさを脳のグラム数で定量的に現わそうとするアプローチであった。その後このアプローチは徐々に支持を失い、19世紀末に登場するフランスの心理学者A・ビネが提唱した心理学的アプローチが主流になっていった。現代の「IQ」もビネの功績の上に成り立っているらしい。
頭のよさ、あるいは「能力」を数値化する努力は、精神医学面の要求も然る事ながら、人間の社会的欲望の反映と言えるような気がする。放っておいたら誰も評価してくれないかもしれない「自分の頭のよさ」を他人に認めさせたい、そして、「頭がわるい」人よりも高位に立つ優越感を味わいたい。知能指数にはこういう側面が見て取れて仕方ない。差別や自己満足のために用いるのではなく、弱い立場にある人々に救いの手を差し伸べるための「ツール」として知能指数は活用されるべきであるが、そのためには何よりも知能指数に関する啓蒙・教育が必要であろう。
知能指数に関する分かりやすい入門書。おすすめ。▲2002.1.22/RT
「正常と異常のはざま」 森省二・著 講談社現代新書
★★★
世の中、白黒がハッキリつく事は少ないものだ。精神医学においても、精神病に代表される「異常」な状態と、病気でない「正常」な状態とを、ある線を以って明確に分ける事は困難である。特に、人格が発達途上の段階にある青年期の若者の場合、どちらにも当てはまらない「はざま」で苦しんでいる人も多い。本書は、現象的にも病理的にも従来の「正常」「異常」という分類では括り得ず、そのはざまで苦しんでいる症例、「境界例」について、主に青年期の症例を例として解説する。
自我の確立、両親の庇護からの旅立ち、身体の変化、異性への関心、そして、与えられていく大人としての自由。これらを経験し、受け入れていく過程で、若者は、これまで築いてきた価値観や自尊心を変革する必要に迫られる。いわゆる「大人になっていく」過程である。「みんな悩んで大きくなった」と言われるだけあり、普通の若者にとってもこれらを乗り越えるのはたやすい事ではないだろう。
親の過保護や過干渉、愛情不足や放任教育により、子供が自我の確立に失敗したり、主体的に行動する姿勢を身に付けられなかったりすると、やがて訪れる「試練」に立ち向かう事が出来なくなる。その場合、傷つく事から自らを防御する本能が働き、様々な精神病的症状を呈してしまう。しかし、青年期の若者の場合、病状は固定せず、成人患者のように人格崩壊に至るケースは多くない。通常に戻る場合も多い。これが青年期の若者が陥りやすい「境界例」の典型である。
スポーツや学問に得意・不得意があるように、精神的試練を克服するのにも得意・不得意があっていいと思う。青年期特有の試練の前に打ちひしがれている、まだ人格も未完成な若者達を、精神医学の面からサポートする役割は非常に大きい。「正常」か「異常」かという一面的な判断基準を超えたこういう取り組みこそ、多感な青年達に一番求められているように感じる。▲2001.11.1/RT
「ぼくが読んだ面白い本・ダメな本 そして ぼくの大量読書術・驚異の速読術」 立花隆・著 文芸春秋 ★★★★
なんとも長いタイトルだが、前作「ぼくはこんな本を読んできた」に続き、週刊文春「私の読書日記」の単行本化である。立花氏が読んだ膨大な数の書籍の一部を紹介する書評であり、前作共々、私が大好きな企画の一つである。
なんといってもジャンルが幅広い。和洋古今の文学書から科学専門書、はたまた美術書から歴史風俗関連作品まで、本当に嬉しくなるほど広いジャンルを網羅している。このシリーズと『「反」読書法』(山内昌之・講談社現代新書)に出会ってから、私の読書生活は格段に広がった感がある。「この本一冊で三百冊分の威力!」とは帯のキャッチコピーであるが、まさに看板に偽りなしである。なかなか手が出ない高価本や、ちょっと敷居が高そうな専門書のエッセンスが、立花氏の解説付で詰まっているのだから有り難い。
これまでこのHPで立花隆の著作を取り上げた事はなかったが、実は、私の書棚には彼の著作が多く並んでいる。徹底した調査と勉強によりあらゆる分野に切り込んでいく彼は、私にとって一種の憧れでもある。彼の作品を読んでいると、変な話だが「寝なくてもすむようになるクスリ」が欲しくなってしまう。サラリーマンである私にとって、いま一番欲しいもの、そして、一番得難いものは、本を読んで勉強する時間なのだ。▲2001.10.22/RT
「失言する人には理由(わけ)がある」 福田健・著
徳間書店 ★★★
その頻度や深刻さは人それぞれだが、人は、他人と会話している限り必ず失言するものだと思う。
逆に「自分は決して失言しない」と思っている人こそあやしいものだ。そういう人ほど、会話相手の気持ちが実はそれ程分かっておらず、自分の発言が相手を怒らせ、傷つけている事に気づいていないものだ。ちなみに私も失言が多い。数々の失言がもとでその地位を失った森・前首相のような「無神経」な失言は少ないと思っているが、つい口がすべって余計な一言を喋ってしまい、その1秒後には後悔するという事が結構ある。
本書によると、失言する人には自信過剰型・瞬間湯沸し器型・八方美人型・饒舌型・うっかり型という5つのタイプがいるらしい。私の場合は最初の2つがどうやら当てはまる様で、変なことを口走っては後で猛烈に後悔してしまう。今のところ失言がもとで大きな問題を起こした事はないが、いつ人間関係がおかしくなったり、左遷されたりするか分からない。そう考えると、なんだか自分の中に「失言」という「地雷」を抱え込んでいるようで何とも怖くなってしまう。それに、私の部下や周りの人たちが私の失言に振り回されるとすれば、なんとも心苦しいものだ。
「正しい事を言う時にこそ、失言は起こりやすい」とあった。蓋し名言である。自分が正しいと思う事を口に出すときは、どうしても相手を責めたり、自分の考えを押し付けたりしがちだ。その勢いで余計な事を口走ってしまう、という経験をお持ちの方も少なくないだろう。正しい事を主張する時こそ、慎重に言葉を選ぶに越した事はない。
本書は、失言のタイプおよび失言を行うときの心理的状態を例を挙げて説明した上で、「どうしたら失言を食い止められるか」「発してしまった失言をどうフォローするか」等に関して具体的なアドバイスを紹介している。落ち着いて、相手の態度を観察しながら自分の話を進める、等といった内容である。とは言っても、失言を恐れるあまり過度に言葉を吟味し、自分の感情を表に出す事をしない、というのも本末転倒というか、人間らしさが感じられない。回復不可能な失言は決して口にしない、という最終ポイントさえしっかり押さえてしまえば、あとは「相手に対する思いやり」と「自らの心の余裕」を持つだけで失言は大幅に減るだろう。人間は失言する生物であるとつくづく考えさせられる一冊。読みやすく面白い。タイトルに心当たりのある人は必読。▲2001.9.28/RT
「懐かしい未来」 長山靖生・編著
中央公論新社 ★★★★
私たちが子供の頃、本やテレビでよく「21世紀には・・・・」というフレーズを耳にしたものだ。当時の私達にとって「21世紀」というのは、途方も知れない「未来」を現わす、大きな一つのマイルストーンとして捉えてられていた。そこには大きな希望があった。
そして私達はついに21世紀を迎えた。
しかし、20世紀から連続的に生き続けてきた私達を、21世紀は、高らかなドラの音で迎えるでもなく、また人工知能のサイボーグが現われエスコートしてくれる訳でもなく、ただ淡々と迎え入れた。
そんな物足りなさを紛らそうと、ふと手にしたのがこの本だった。20世紀初頭に描かれた「未来像」をここで読み返し、自分達がどこまで到達したかを再確認し、人類の偉大な足跡を実感しようと目論んだのだ。
目論みは外れた。なぁに、21世紀なんて偉そうなもんじゃない。ここに収録されている未来小説の半分も実現されてはいないではないか。科学が発達し、社会が成熟し、ケイタイを使えば世界中どこの人とも瞬時に会話が出来る世の中ではあるが、他惑星への旅や、病の克服、自然のコントロールなど、人間が恐らく何万年も抱いてきた夢はまだまだ殆ど手付かずだ。
当時の予言を現代の科学から見ると、奇想天外というか、メチャクチャに見えるものも多い。しかし、そう感じてしまうのは危険な事だ。私達はいつしか、今の科学で実現できない事を「奇想天外」「メチャクチャ」などと蔑み、それらを希求する目を塞いでしまってはいないだろうか。科学の発達、特にIT分野の進展は、我々を天狗にし、現代の科学でカバーしきれない「奇想天外」な夢を無意識のうちに排斥してはいないだろうか。
本書は、明治から昭和初期にかけて出版された未来小説を15作収録し、それぞれの背景や関連作に関し長山氏のコメントが付記されている。氏のこの分野への知識の深さも然ることながら、作品の選択もいい。小酒井不木「人工心臓」や夢野久作「人間レコード」、江見水蔭「月世界跋渉記」などは特に気に入った。アンソロジーという意味でもなかなか得がたい一冊といっていいだろう。
100年近く前の人々が、ありったけの知識と想像力を駆使して書いたこれら未来小説を読んでいると、現代の私達がどんな未来小説を書けるのか、ふと不安が過ぎってしまう。現代人がだんだん器用貧乏になっていくようで寂しい。▲2001.9.24/RT
「リスクセンス」 ジョン・F・ロス 著
集英社新書 ★★
私達の身の回りに数多くのリスクが潜んでいる事は、現代に生きる人ならば誰しも認識している事だろう。しかし、そのリスクの度合いをどう判断し、認識しているかというと人それぞれだ。
クルマを運転したり、道路を横断したり、飛行機に乗ったりと、私達の日常にはリスクの存在を感じさせられる場面が数多くある。しかし本書によると、それらによって危険な目に遭う確率は、家庭内で階段から落ちたり、感電したりする確率よりもずっと低い。また、市販薬に毒物が混入されて7人の子供が死ねば、包装を安全にするため企業は莫大な金額を費やすが、20リットル入り大型バケツで毎年全米で50人が命を落としても何の対策もなされない。目立つリスクに対し人々は過剰に反応し、日常に埋もれたリスクにはなかなか考えが及ばないという事だろう。
見かけ上の恐ろしさに惑わされず、私達が本当に面しているリスクに目を向け、深刻さを判断し、対策を講じる。これこそ「リスク・マネージャー」として求められる姿であろう。家庭や企業において、私達は何を、何から守るべきなのか。それを理解する事がリスク管理の出発点であり、それなしだと相手が見えない戦いになってしまう。負け戦にはならずとも消耗戦は避けられない。
本当のリスクを見分けるための方法論は本書にはそれほどない。むしろ、数多くの事例を挙げ、それぞれのリスクの在り処を探っていく事で、読者が自らの「リスクセンス」を身に付けられるように仕上げてある。そのスタンスはいいのだが、いかんせん構成が平板で、読んでいて途中で飽き気味になってしまった。新書という限られた紙幅なのだから、もう少しメリハリをつけて欲しかった。▲2001.9.22/RT
「歴史をかえた誤訳」 鳥飼玖美子・著 新潮OH文庫
★★★★
考えてみると通訳というのは恐ろしい作業である。ある人の言葉を他の言語に置き換えて伝えるだけ、といえばそれまでだが、異言語間で完全に一致する表現が存在する事はそれ程ない。そうなると表現の選択は通訳の経験と知識、そして気持ち次第であり、通訳の「選択」が会談の成否、時には国家の命運までも左右しかねないのだ。
連合国側のポツダム宣言受諾の要求に対して日本政府が発した「黙殺」という見解には、「静観したい」「ノーコメント」という意味合いが込められていたという。当時の情勢、つまり陸軍主戦派の圧力により、その意思は「黙殺」という強い表現によって発表されたが、それを通信社はignore(無視)と訳し、世界へ打電された。広島に原爆が投下されたのはその数日後であった。
この件に始まり、本書は数多くの「通訳に起因する問題」を紹介している。その中には「意図的な誤訳」としかいえないのもあり、対外的な合意内容を、意図的にぼかした和訳で国民に伝えて世論を収めようとする外務省の姿も見て取れる。これなどは誤訳の名を借りた情報操作に他ならない。如何に多くの操作にこれまで我々が嵌められていたか、よく分かった。
私も仕事柄通訳を行う事が多いが、いつも頭を悩ませるのが「発言内容をどこまでいじっていいのだろうか」という点である。日本語で言った事を一語一句訳したのでは相手も要点がつかめなくなるし、特に私のようにビジネスの場で通訳を行う場合は、要点をある程度整理して相手に伝える事が求められる。だからといってあまりに整理しすぎると、元々の発言者から「今言ったxxに関しても訳してよ」と催促されたりする。本書が指摘するように、通訳に最も必要なのは、言語能力も然ることながら、物事を的確に判断して整理する能力なのかも知れない。▲2001.8.6/RT
「だれが「本」を殺すのか」 佐野眞一・著 プレジデント社
★★★★
若者の活字離れが指摘されて久しいが、それはある意味仕方ないだろう。
本は、私達のわずかな可処分時間を、インターネット・ケイタイ・TVなどの「競合」と奪い合っているのだから、人々は本には以前と同じ時間を割くべきだ、という主張は現実的ではないし、第一高飛車だ。そんな現実に危機感を抱き、書店から取次・版元・作者に至るまで一体となって本の魅力を国民に訴えようとする動きは・・・まだ見られないようだ。
本書は、書店・取次・版元という流れの各所で起きている制度疲労、そしてそれに立ち向かい新しい時代を作ろうとしている人々熱心な動きを克明に記している。黙っていても売れていた時代。本が読者を選んでいた時代。旧態依然とした出版界の姿は、再販制度に守られながらこの「古き良き時代」を引き摺っているとしか思えない。
興味深かったのは出版社の原価計算。本の定価を1000円とすると、取次への出し値が700円。返品率を20%とすると、560円が出版社がこの本から得られる売上額。そこから製造原価にあたる印刷・造本代が20%、印税、校正費などの編集費が12%、そして宣伝行事費10%、人件費・倉庫代13%が引かれると、手元に残るのは10円。つまり、1000円の本から得られる営業利益は10円! 営業利益率1%である。
それもこの計算は返品率が20%と仮定しての話。50%近い返品率の本も珍しくない状況を考えると、出版社の財務的にきわめて厳しい姿が浮き彫りになる。私としては返品率の高さが版元の収益をここまで苦しめているとは思わなかったが、逆にいうと返品率がゼロに近いヒット作を出せば、かなりの収益を得られるのも確かではある。その意味で、出版業というのは本書が言うようにかなり博打に近いビジネスかも知れない。
日本の出版界の状況を余すところなく記した好作品。本好きな人はもちろんだが、出版界をビジネスの視点から見つめるという意味で、本をよく読むビジネスマンにもオススメ。東証関係者が出版社に言った「返品をいつでも受け付けてたら、いつ売上が確定するんですか?」という疑問、実は私も抱いていた。これに対する答えが本書では述べられていないのだが、一体どうしているのだろうか。▲2001.06.15/RT
「チーズはどこへ消えた?」 スペンサー・ジョンソン 扶桑社 ★★★
ここ数週間、都内の書店では本書がビジネス書の売上ランキング上位に位置している。
なんでもアメリカの主要企業がこぞって社員研修のテキストとして採用しているらしい。
どんなものかと思っていたが、ようやく手にとってみた。
キーワードは「変化」。
今いる場所は、誰しも居心地がいいものだ。だがこの気持ちは得てして、我々の「変化への対応力」を鈍らせているのではないか。同じ所にいると「変化」が「恐怖」に思えてくる。そして変化への備えも疎かになり、いざ変化が生じた時に素早く対応できなくなってしまう・・・
本書は、このような話を童話タッチで私たちに問い掛ける。
変化が乏しい環境に身を置くと、変化は恐怖に映る。しかし実際に変化してみると、楽しく、わくわくしたりするものだ。童話タッチ、それも100ページにも満たない本だが、本書はその事を私たちにハッキリと思い出させてくれる。勇気が出る一冊だ。
特に、自分のことを「農耕民族だなぁー」と最近思ったりしている人にはおすすめ。眠れるオオカミの血を思い出させてくれるかも(?)。 ▲2001.2.27/RT
「話を聞かない男、地図が読めない女」 アラン・ピーズ、バーバラ・ピーズ著 主婦の友社 ★★★★
生物学的に男と女は違う。そりゃそうだ。
内臓の構成すら異なるのだから、思考回路や脳の働き、感性などが男女で全く同じなわけがない。
本書を読むと「やはりそうだったか」と頷くことしきりである。
「男は女への愛の証として、世界一高い山に登り、世界一深い海にもぐり、世界一広い砂漠を横断した。
――だが女は男を捨てた。男がちっとも家にいなかったから。」
「女が悩みについて話すのは、ストレス軽減策に過ぎない。聞いてもらいたいだけで、解消してもらいたいとは思ってないのだ」
「向こうから求められない限り、男にアドバイスしないこと。あなたならきっと解決できるはずよ、と信頼感を表すだけにとどめよう」
この本のエッセンスが凝縮されたこれらフレーズは、多くの人々にとって「そうそう」と頷けるものだと思う。
男女同権とか差別とか、そんな社会的次元の話ではなく、もっと根本的な所で「違い」を男女が認識すべきだと思う。私自身、周囲の異性に対して時として抱いていたいろいろな苛立ちが、本書の読後にさらさらと氷解していくのを感じた。
なかなか息の長いベストセラーだが、読んでみて理由がよく分かった。非常に面白い。恋人とうまくいかないで悩んでいる人、夫婦関係がマンネリ化して困っている諸氏には特におすすめ。▲00.11.26/RT
「記憶は嘘をつく」 ジョン・コトール著/石山鈴子・訳 講談社 ★★★
私達は自らの「記憶」に全幅の信頼を置いている。昨日オフィスで目にした光景、13歳の誕生日に父親から貰ったルービックキューブ、4年前に彼女からもらったCD。それら記憶が鮮明であればあるほど、私達はその記憶を疑う事は出来ない。だって「見たんだから!」
しかし本書によると、記憶は再構成され、他の記憶とミックスされるらしい。子供の頃、近所の公園で大きなブランコに乗った記憶があったとしても、実はブランコは別の公園に置いてあって、そこの記憶が近所の公園に関する記憶に乗り移ったのかも知れないのだ。それどころか、実際には自分はそのブランコに乗った事がなく、その場を写した映像や写真を見た記憶が「近所の公園」の記憶に乗り移ったのかも知れないのだ。本書はそのような実例を多く紹介し、人間の記憶が如何にあやふやかを指摘している。
また、人間の脳はストーリー性を求めるらしい。ストーリー性の無い記憶は、無意識のうちに何らかのストーリー性を記憶に求め、ニセの記憶を作ってしまうのだ。先に挙げた「13歳の誕生日に父親から貰ったルービックキューブ」という記憶にしても、「父親の出張土産で貰ったルービックキューブ」という記憶と「13歳の誕生日に父親からプレゼントを貰った」という二つの記憶が一つになったかも知れないのだ。その方がストーリー性が高いから。こういう「ニセの記憶」を引き起こす現象を本書では「無意識の剽窃」と呼んでいるが、記憶への過信を避けるためにも、この事は知っておく方が良さそうだ。
「ニセの記憶」に騙される事が、いわゆる「勘違い」の最大要因なのかも知れない。
勘違いに後悔する事の多い人には、特におすすめの本。(00.9.28/RT)