「キリストの審判こそ希望」(使徒信条講解17)

(2006年10月22日)

聖 書 ゼカリヤ書14:1〜9
ヘブライ人への手紙9:23〜28
讃美歌 28.355.425.436.27.88.
交読詩編 107:4〜9
招 詞 「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれたのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒言行録1:11)

わたしの申し上げたいことを、本日の説教の題にこめました。キリストの再臨、キリストの審判こそ、わたしたちの希望です。「主よ、おいでください」という終末への待望は、初代教会を除けば、信仰の表舞台にはあまり出てきません。しかし、主イエスを信じるという中には、終末、キリストの再臨は必ず含まれます。

キリストの再臨と言われても、あまりぴんと来ないということがありましても、もう一度キリストがおいでになること、使徒信条の「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」という信仰の告白がキリスト教信仰の中心にあるのです。

ただ、キリストの審判、世の終わりという言葉にはこわい、恐ろしい、という思いが付きまといます。ヨーロッパの人たちにとっては、終末、最後の審判といえば、システィナ礼拝堂にあるミケランジェロの「最後の審判」を思い出すかもしれません。この絵は当時の人々が思い描いていた審判に対する思いの集大成であり、その絵がまた、人々に最後の審判の有様を想像させ、恐れを生み出しました。絵の真ん中で裁きを行うキリストのあまりの厳しさに、そばにいる母マリヤでさえも顔を背けています。「地獄極楽」の絵を見せながら来世への信仰を説いた中世の説教法師などとも共通します。

聖書が証言するキリストの再臨、終末は希望を持って待ち望むべきものです。ですから。世の終わり、終末ということでお話しすることは、わたしたちの中にある思い込みや誤解との戦いになります。世の終わり、終末といいますと、天体に大きな異変が生じ、さまざまな天変地異がこる、太陽が暗くなり、といった言い方を主イエスご自身がおっしゃっておられます。同時に主イエスはそれが最後ではない、とはっきりおっしゃっておられるのに、わたしたちには主のお言葉よりも、自分たちの恐れの方が先にたってしまいます。世の終わりと言われると地球温暖化によって南極と北極の氷が溶けて海面が上昇し、世界の主要都市のほとんどが水没するなどという未来図とも重なります。今日、このような事柄には事欠きません。世界がこの先どのようになっていくか、考え始めたら怖くなるばかりです。しかし、世の終わり、それはこの世界がなくなってしまうのではありません。神が終わらせてくださる、神が完成させてくださるのです。

このことを信じているので、今、わたしたちにできることをするのです。何度でも申し上げたいのは、主イエス・キリストの再臨、世の終わりはわたしたちの希望だ、ということです。わたしたちは、キリストこそ希望であると信じているので、地球温暖化に対しても、今、わたしたちのできることをするのです。それもこれも神がわたしたちを完成させてくださる、と信じているからです。終末は、神がわたしたちをお造り下さったこと、天地創造の完成です。終末に関しての一つの誤解は、迫害の辛さや現実の苦しさを逃れたい思いから終末に憧れるのだ、という思いです。切支丹の迫害の中で「ハライソに参ろうや」とお互いに声を掛け合った、あるいは、現実の苦しさに負けて天国に憧れる、ということもあるでしょうが、幸福の絶頂にあったとしても終末を待つのがわたしたちの信仰です。

ハイデルベルグ信仰問答の問い52では、キリストの再臨はどのようにあなたを慰めるのですかという、わたしたちの思いを超えた展開になっています。「再臨はどのようにあなたを慰めるのですか」、この問いが大切です。再臨は慰めなのです。何故慰めなのか、何故頭を挙げて世の終わりを待てるのか、主イエス・キリストがおられるからです。

問い52の答え「わたしが、あらゆる患難や迫害の中にも、頭を挙げて、この審判者を待ち望むことができるためであります。主はわたしのために、すでに、神のさばきに対して、ご自身を与え、すべての呪いを、わたしから取り除いてくださり、また主とわたしのすべての敵を、永遠の罰の中に、投げ入れ、しかも、わたしは、すべての選ばれた者らとともに、み許に召し、天の喜びと栄光のうちに、入れて下さるのであります」。

このことが今、はっきりしているので終末を待つことができるのです。頭を挙げてこの審判者を待ち望むことができます。ヘブライ人への手紙9章、キリストはその御業を既に完全に果たしてくださいました。そのキリストがもう一度お出でになる。それが完成です。

終末、再臨が恐怖である、というのは、今、わたしたちが向き合っている神の御心が信じられないからです。神の御心が信じられないから何を信じるのか、と言えば、わたしたちの思い、考えを信じるのです。その方が安心できるからです。事柄の中心は、世の終わりのことではなく、今ここで、神の御心が愛である、と信じることです。今、このことが信じられないので、わたしたちは終末を安心して待てないのです。

主イエス・キリストは、思い悩むな、とおっしゃいました。主イエスはわたしたちにはどこまで行っても思い悩みがついて回ることを良くご存知でした。思い悩むな、というお言葉の真の意味は、わたしを信じなさい、ということです。主イエスを信じることこそ、思い悩まないことの第一歩です。それでも思い悩みが出てまいります。しかし、主イエスを信じていてもなお出てくる思い悩みと、主イエスを信じていない中に出てくる思い悩みとは、天と地ほどにも違います。

主イエスを信じていても出て来る思い悩みはあります。だからこそ、わたしたちは祈るのです。そして祈りに繋がっていけば、必ずわたしたちの思い悩みをキリストにお委ねできるのです。わたしもかつては神を知らない中で、将来がどうなるのか分からなかった時がありました。しかし、キリストを知って以来、信じて以来、キリストの御手の中にある思い悩みとなりました。二度と、キリストのいない世界に戻りたいとは思いません。

椎名麟三という作家は、人生の長い遍歴を経て、洗礼を受けましたが、その時、「これで俺は、死ぬとき、怖い怖いといって泣き喚くことができる」とつぶやいたという話が伝わっています。彼の気持ちは良く分かります。信仰とは、何があっても平然としていられる、ということではありません。

信仰なんて、とおっしゃる方がいます。わたしは、何かを信じたり、頼るものを持っていなければ生きて生けないような弱いものではない。弱い人が信仰を必要とするのだ、そう嘯いている人もおられます。それで生きていけるのなら結構です。しかし、強がりを言う方がいかにもろいか、わたしたちは良く知っています。弱い人というのがまさに自分自身であるからです。神の御心よりも、わたしたちの中に出てくる考えの方が確かであると思う、このことはどこもまでもわたしたちの信仰についてまいります。

何も無い中で、ただ信じなさい、というのではりません。信じられるお方がおられるのです。そのお方は主イエス・キリスト。わたしたちの身代わりとして、わたしたちが命をもって償うべきであった神への罪を、十字架の上において贖ってくださったのです。わたしたちのこのお方を信じるのです。言い換えれば、今、ここでキリストの赦しを信じられるので、すべてをお委ねできるのです。

聖書が記しているように、裁きのときを待つクリスチャンの生活の姿勢は、わたしたちが信仰によって主の救いを確信して、キリストの再臨を希望のうちに目を覚まして待ち続けるところにあると示されています。

主イエスの再臨を待つということは、今を生きるためにとても大切な姿勢です。待ちながら、神様を畏れ、礼拝しつつ生きるのです。わたしたちは待つことが苦手です。待つことができません。本当の待つこと。それは祈りと深く結びつきます。終末を待てるから愛するのです。祈るのです。