第8話 展開
(りょう、りょう、りょう)
みずきは念仏の様に唱えていた。”りょう”という言葉は記憶のどこかに確かにあった。以前どこかで確実に聞いた事のある言葉。しかし、それ以上は今のみずきからは具体的なものは何も浮かんでこなかった。みずきはそれでも諦める事なく”りょう”という言葉をつぶやきながら懸命に思い出そうと努力をしていた。
つぶやきながらすたすたと歩いていくみずきに対し、さやかはみずきの背中をぼんやりと眺めながらとぼとぼと後ろを歩いていた。さやかにはみずきのように心に当たるような事が一切無かった。”りょう”と言う言葉が一体何なのか、見当もつかない。それでいても、”りょうに会えば、全てが変わる”と言う言葉は、さやかにとって魅力的な言葉であり、救いの可能性を確実では無いにせよ秘めているものだった。頭上に大きく広がる真っ白な雲。掴めそうな程大きく近くに感じられるのに、そこへと通じる足掛かりはまるで無い。”りょう”と言う言葉は、そういうものに似ていた。
いつの間にか、みずきとさやかの差は開いていってしまった。
さやかは慌ててみずきの元へと小走りに寄っていった。そしてみずきの背中が1メートル程の近さになった所で走るのを止め、また先程のようにぶらぶらと歩き始めた。
みずきはさやかの事は全く意識に無いようだった。それゆえにさやかもみずきに話し掛ける事をためらっていた。
みずきは相変わらずぶつぶつ言いながら、真直ぐ歩いていた。途中で横断歩道の信号が赤になった時以外立ち止まる事は無かった。
(いったい、この先どうするのだろう。いったいどこへ行くのだろう。)
さやかは、みずきに訊ねたかった。しかし、みずきの背中はさやかへと扉を開いていなかった。それにも増して、みずきがその件について何か考えがあるようには思えなかった。
何の進展も見られぬまま景色と時は流れた。
もう1時間程は歩いただろうか。さやかは少しづつ疲労を感じ始めた。
つま先は靴に押し当てられ過ぎてずきずきと痛み始めている。ふくらはぎはパンパンに腫れていた。
さやかは、みずきとのペースを確認しながら立ち止まった。
みずきは相変わらず黙々と歩いていた。
(全く、、自分が歩いてる事すら忘れてるんじゃないかしら)
さやかはみずきを目で追いながら心の中で呟いた。膝のうえに手を置き、2、3回屈伸をしてみた。足の痛みが和らぐような気がした。
軽く身体を捻るように体操をした後、再びみずきを追いかけようと走り出した時、背後でさやかの事を呼び止める声がした。
さやかは10歩程前を進んだ後、ゆっくりと立ち止まり、声のする背後へ振り向いた。
「やあ」
片手をあげて挨拶をしたのは、以前さやかにアニムスと名乗った少年だった。
さやかはその少年の顔を見たとたん、急に不機嫌な顔つきになった。
「いったい何の用かしら?私のする事を邪魔しないで欲しいわ。」
さやかは厳しい口調でアニムスに向かってそう言った。
「邪魔?僕が邪魔をしているって?」アニムスは驚きと戸惑いの表情を見せた。「いったい、僕が君に対してどんな邪魔をしたって言うんだい。何もしていない、、、ただ、僕は忠告したいだけさ。」
「何をよ?」
「そんな事をして何の意味があるのか、とね。いったい何の目的でそんなことしてるんだい?あの男は何も分っちゃいない。ただ歩いてるだけさ。ただ歩いて時間と体力を浪費しているだけさ。あんな男にくっついて時間を潰すのは止めた方が良い。」
「余計なお世話よ。良いじゃない、私が何したって、、、そういうのが邪魔だって言うのよ。」さやかはむきになって言い返した。さやかの心の中では半ばアニムスの言う事も分からなくはないと感じていた。しかしさやかとしては今はそれは認めたくなかった。認めた先には何もない事も分っていたからだ。「あなたに彼の事がどのくらい分かるって言うのよ。どうして今やっている事が無駄だって言い切れるのよ。あなたにはそこまで言い切れる程の保証があって?」
「僕は、彼の事は良く知ってるさ。彼の夢の中にも何回かお邪魔したしね。君のおちびちゃんと下らない話をしているから、一度後ろから殴りつけてやった事があるよ。ははは、びっくりして目を覚ましていたよ。とにかく僕には分かるんだ、今の彼には何の手がかりもないって事をさ。詳しく話すとややっこしいし、まして君が理解できるとも思えないから言わないけど、これは真実なんだ。それははっきり言える。だからそうやって彼を追い掛けたって無駄だって言いたいんだよ。」
「、、、、」
さやかにはすぐに言い返す言葉が見つからなかった。しかし今は、「はい、そうですか」、と引き下がる訳には行かない。アニムスの言う事を認めて、その後何が残ると言うのか?
「とにかく、、、わたしは今していることを続けるわ。それは私の意志と自由よ。邪魔しないで。」
さやかはそう言うと、さっと前へ向き直り、みずきを探して走り出した。暫く時間を潰したためにみずきを見失ってしまった。
(恐らく真直ぐ歩いているだけだと思うわ、、、走れば追い付く)
さやかはアニムスの呼び止める声を振り切って、何とか走り続けた。
「ちょ、ちょっと待ってよ。」
アニムスは何とかさやかを呼び止めようとしたが思うように身体が動かなかった。仕方なく動くのを止め、人込みの中へと消えていくさやかの姿をじっと見送っていた。
(仕方ないか。所詮、僕はさやかの中に湧き出た1つの心にしか過ぎないのだから)
アニムスは呟き、一瞬悲しい表情を見せると、すうっとかき消すようにいなくなってしまった。
みずきはさやかが離れてしまった事にも気付かず、黙々と歩き続けていた。
(りょう、、、ああっ喉元までに来ているのに。なぜ思い出せないんだ)
みずきはじれったい頭を近くの電柱に叩き付けたい気分だった。
その時二人の女子学生がおしゃべりをしながら、みずきの方へ向かって歩いてきていた。
女子学生は話に夢中になっていてみずきが前にいる事が気付かなかった。みずきも思い出す事に没頭していて前に注意を払っていなかった。
「痛て。」
予想できる通り、3人はぶつかってしまった。
「ごめんなさい。」
3人は同時に我に帰り、ほとんど同時に謝罪をして、離れようとした。少なくとも女子学生達はそうであった。何事も無かったかのように再び話の続きに没頭し始めた。
「ねえ、それでさあ、彼氏に手紙渡せたの?暫く会えないんでしょ?」
どうも女子学生達は自分達のボーイフレンドの話をしているようだった。我に帰ったみずきはタイミング良く彼女達の言葉を聞き取ってしまった。そしてみずきの耳に飛び込んできた女子学生の一言は、それまで引っかかっていたみずきの記憶を見事に引き出してくれた。
ーーー最近おかげでりょう君と会う時間が少なくなっちゃって、りょう君もちょっと怒り気味だし。参っちゃってるんだ、ほんと。---
(えるの手紙、、、えるの手紙をどこかで読んだんだ。りょう。確かそう書いてあった。りょうは、えるの彼氏の名前だ。えるだ。えるに言えば、りょうという人間と会える。それがなんだか分からないが、とにかく進展するためにはそうした方が良いんだ)
みずきの身体に急激にエネルギーが満ちあふれるような気がした。
「あれ?」
ふと気がついて、みずきはさやかを探した。みずきは、いつの間にかさやかと逸れていたことに気がついた。
しかし間もなく、遠くの方からこちらに向かって走ってくるさやかの姿を確認できた。