第3話  パンドラの箱(その2)

 えるが待ち合わせの公園に到着したのは、約束の時間を15分程超過した頃だった。

「ごめーん、待ったー?」

 息をはずませながら、えるはりょうが来たのと反対の方角から現れ、走り寄って来た。無事りょうの前に辿り着くと、はあはあと息を吐きながら額の汗をハンカチで拭い始めた。どうやら遅れを取り戻そうとずっと走って来たようだった。

「待った?」

 もう一度えるは訊ねた。額を一生懸命拭う努力も空しく、汗はどんどんと流れていた。

「いや、、、そんな事無いよ。」

 りょうは笑顔でそう答えた。実際の所、約束の時間が過ぎた後は1分が10分位の長さに感じていたが、無事にえるが現れた今ではどうでも良い事だった。

「そう、、、良かった。」えるはほっとしたように肩を落とした。「いつもここへ来る時に乗っているバスがあるんだけど、それが道の途中で急に動かなくなっちゃったのよ。運転手さんもおかしいおかしいって言ってるばっかりでちっともらちがあかないし、しょうがないから『もういい、降ります』って降りちゃったんだけど、そしたら急にバスが動き出しちゃって。待ってーって叫んだんだけど、無視して行っちゃったのよ。頭来るでしょ。もう、それから走りっぱなし、、、」

「そう。大変だったね。」

 りょうはえるの熱弁を笑顔で聞いていた。

「、、、ほんとにもう、約束の15分前にはわたし、来ようと思ってたのよ。ほんとよ。」

「ああ、わかったよ。ほんとに気にして無いよ。」

(15分前か、、、まだ花屋につかまってたかな?)

 りょうは花屋での出来事を少し思い出した。あまり長くつかまっていると約束の時間に間に合わないと気にしていたが、花屋の主人はりょうに箱を見せると後は用は無いとでも言うようにさっさと奥に引っ込んでしまった。それまではかなり執拗に引き止められていたため、いささか拍子抜けの感はあった。

 えるの息が落ち着き始めた頃、「これからどうする?」という話になった。

 りょうは事前の下調べを終えた喫茶店の方を指差した。

「ここの先にファルガって喫茶店があるんだ。最近出来たらしいんだよ。そこへ行ってみない?」

 もちろんえるは同意した。りょうの計画通りに事は運んだ。

 喫茶店へ行く途中、二人はりょうが少し前までいた花屋の前を通過した。

 店はいつの間にか閉められていた。表に飾られていた花もきれいに片付けられていた。

(いつの間に閉めちゃったんだろう)

 りょうは通り過ぎがてら不思議に思い、中をちらりと見た。中は電気が消されて真っ暗だった。中に所狭しと置かれている花達はみな一様に元気無く下を向いていた。

 喫茶店は花屋から数分歩いたところにあった。そこは、落ち着いた雰囲気の店だった。内装は南欧をイメージしているように思えた。

「へー、ちょっとこの辺には今まで無かった感じのお店ね。」

 えるは好奇の目で店の中を見渡した。りょうはえるが楽しそうに店を眺めている事で満足していた。

 二人は店員に指示されて店の奥の窓際に腰を下ろした。

 店員が注文を取りに来て、二人は今まで飲んだ事の無い変わった名前の紅茶を頼んだ。そして店員が去ったとたん、えるは先程のバスを降りた後の話の続きを事おかしく話し始めた。

 りょうはうんうんとえるの話を調子を合わせて聞いていたが、ふとテーブルの端に小さい木箱があることに気がついて、それに注目した。それは先程の花屋で見せられた箱にそっくりだった。

(この箱って、、、さっきの箱じゃあないのかな?どうしてここにあるんだろう)

 りょうはえるの話はそっちのけで、しげしげと箱を眺めた。箱の周りに彫られているデザインは独特なもので見間違えることは無さそうに思えた。まさにこれは先程の花屋で見せられた箱に違い無かった。

 思わず手に取って見ようとすると、箱は自動的にふたを開いた。

 りょうは触ろうとする手を止め、中を覗き込んだ。

 箱の上ぶたのところには鏡が取り付けられていて、きらきらと輝いていた。それは前の箱と異なる所だった。

 りょうは鏡をそっと覗き込んだ。驚いた事に鏡にはりょうの姿は写っていなかった。代わりに一人の女の子の顔が写し出されており、にこにことりょうの事を見つめていた。

(鏡じゃないのかな)

 りょうはふとそう思った。しかしその女の子の背景の様子はまさにりょうの背後の様子に他なら無かった。

「こんにちは。」

 鏡の中の女の子をじっと見ていると、話し掛けて来た。りょうは一瞬耳を疑った。しかしその真偽を考える前にもう一度女の子は言葉を発した。

「こんにちは。」

 笑顔のまま再度そう言った。りょうもまたはっきりと聞こえていた。

 りょうの頭の中では、まだ少女の存在が信じられないでいた。強く目を瞬かせたが、鏡の中の少女は未だそこにいた。

「君は、いったい、、、」

 りょうは思わず呟くように鏡の中の少女に話し掛けた。

「わたしは杉崎りょう。つまり、あなたよ。」

 少女は明瞭な声で即座に答えた。

 りょうは声を失った。『わたしは、あなた。』という少女は、どこをどう見てもりょうには見えなかった。しかし、なぜかりょうの中でその少女が自分にとって赤の他人であるという気になれないでいた。少女の雰囲気は確かにりょうの中に持っている何かと非常に似かよっていたからだ。それが何なのかは分からないが、、、 

「りょうくん、どうしたの?」

 突然えるに呼ばれ、りょうは背中に電流を流されたかのようにびくついた。りょうは慌ててえるの方を向いた。えるは不思議な顔でりょうの顔を見つめていた。

 えるから見たりょうは、まるきりおかしな行動を取っていた。テーブルの端にある小さなメニューをじっと見ながら、何やらぶつぶつと呟いていて、話し掛けても全く耳に入っていないような状態だった。店員が紅茶を運んできたので、再度大声でりょうに話し掛けたところで、りょうはやっとえるの声に気がついたようだった。

「な、何。」

 りょうは席に座り直しながら訊ね返した。額から流れ出る脂汗を素手で拭っていた。

「ご注文は以上で?」

 店員の言葉にえるが頷くと、店員は静かに去っていった。

「大丈夫?りょうくん?」

 えるは紅茶をすすりながら上目遣いでりょうのことを見た。

「な、何が?」

「なんか変なの、、、テーブルの端を見ながらぶつぶつ言ってるし、、、私の話しなんか上の空で。」

 えるは冷たい口調でそう言った。少し怒っているようだった。りょうは言い訳しようとテーブルの端にあった例の箱に目を向けようとした。しかし箱はなかった。りょうは逆の意味で目を疑った。

「ここに、、、箱置いて無かった?」

「全然。」

 平然と答えるえる。りょうは言葉を失った。箱についてそれ以上えるに言うことは出来なかった。言えば自分が幻を見ていたことになり、それをえるに告白する事になる。

「変なの。」

 呆然としているりょうに、えるは再びそう言った。

「ごめん。ちょっとぼっとしてたんだ。」

 りょうが言葉を探しあぐねた末、やっと見つけたのがそれだった。

 えるはふーっとため息をつき、やれやれという表情を見せた。

「ほんとにもう、、、まあ、いいわ。」えるはそこまで言って、再び紅茶を飲んだ。「ところでね、、、」

 突然えるのPHSがなった。慌ててかばんの中から取出し通話しようとしたが、聞こえが悪いらしく「ごめん」という表情をして外へ出ていった。りょうは無言でえるの姿を目で追い、店の外へ出て行くのを確認した。そして両手をテーブルの上に置き、大きく深呼吸をした。

(どうしたんだろう、、、疲れてんのかな)

 りょうは冷静になることに努めた。まだ少し心臓が高鳴っていた。

 りょうはちらりとテーブルの端を見た。箱はそこには無かった。箱があったと思われる場所には小さなメニューの札が立てられていた。そこには珈琲や紅茶の種類と値段が手書きで書き連ねられていた。

(やはり目の錯覚かな)

 その結論で落ち着くかに思えたその時、りょうの心を更にうち鳴らす声が背後から聞こえて来た。

「その箱、開けないでって言ったのに、、、」

 それは子供の声だった。今にも泣きそうな弱々しい震える声だった。りょうは恐る恐る後ろを振り返った。そこには先程までいなかったはずの子供が座っていた。今にも泣き出しそうな悲しい顔をしているその子供は、りょうの幼い時の顔にそっくりだった。りょうは幼い時、非常に泣き虫だった。それは家に保管されているアルバムの写真でも散見されることだった。その幼い頃の写真で見た泣き顔の子供が、今りょうの目の前に座っていた。

「ボク、箱、開けないでって、言ったのに。止めたのに、、、」

 子供の顔は非常に恨めしそうだった。りょうは何か取り返しのつかない事をしてしまったような気がしてきた。

(箱、、、あの箱は開けちゃいけなかったのか。開けたら大変なのか)

 りょうは、その子どもにそう問い掛けたかったが声が出なかった。

 子どもはじっとりょうの事を見つめていた。

 やがて子供の姿は恨めしそうな表情のまま、静かに薄れて行った。そして完全に見えなくなった時、えるが戻って来た。

「ごめんごめん。お母さんだった。」

 明るい声で戻って来たえるであったが、それを迎えたりょうの表情は全く正反対の青ざめたものだった。そのことは一目見ただけでえるにもすぐ分った。

「りょうくん、、、」

 りょうは生気の無い表情でえるを見つめ続けた。

 りょうの表情にただならぬものを感じ、えるはりょうのもとに駆け寄り、額に手を当てた。さほど冷房を効かせていない店なのにも関わらず、りょうの額は死んだ人間のように冷たかった。

「ちょっと、りょうくん、どうしたの?」

「何でもないんだ。ちょっと気分がすぐれないだけで、、、」

 りょうはえるの手を自分の額から外した。えるは執拗にりょうの顔を覗き込んだ。

「大丈夫じゃ無いわよ。ちょっと具合が悪いって顔じゃ無いもの。」

「大丈夫だってば。」

 りょうは目の前でちらちらするえるの顔が少し疎ましく感じた。その時、先程子供が座っていた席で再び声が聞こえて来た。しかし今度は子供の声では無かった。

「大丈夫?大丈夫じゃないだろ。おい、この女のせいで今日のおれの一日は台無しだ。約束の時間に遅刻してきやがって、何様だと思ってンだ。こんな女、気使う必要なんて無いぞ。」

 りょうは力無く振り返った。そこにはりょうにそっくりな男が座っていた。男は狂気の目をして笑っていた。

「遠慮なんかいらねえよ。今すぐ犯っちゃえよ。」

「殺ってしまえ。」

 りょうに似た男の前には銀髪の男が座っていた。二人とも胸がむかつくような下品な笑い声を上げた。ぜえぜえと肺を鳴らすような笑い方には山犬のうなり声も彷佛させた。

 離れたところで子どもの泣き声が聞こえた。

「ちっ、うるせえ餓鬼だな。」

 銀髪の男は、そう吐きすてると、子どもの泣き声のする方へ歩いて行った。手には大きな刃物が握られていた。しばらくして子どもの悲鳴が聞こえて来た。

(お前達は誰なんだ)

 自然発生的にりょうの心に浮かんだ質問に答えるかのように、りょうに酷似した男は唸った。

「お前だ。」

「りょうくん。」

 えるはりょうの両肩を持ち身体を揺すった。

 りょうは気絶していた。

 

 

 

つづく

*** ホームへ戻る ***