第3話 パンドラの箱(その1)
8月の終わり、夏休み最後の日。
杉崎りょうは、あおいえるとの待ち合わせの場所へ向かうために、日向丘の坂を登っていた。えると前回会ったのは2週間以上前になる。前回会った時には、えるの通っているセミナーの件についての口論をし、今日はその結論をりょうが聞く事になっている。前回の流れから推測すると、えるはセミナーを辞める事になっており、りょうもその答えを期待している。しかし一方において、りょうは今日のえるの答えが期待に反するものであってもそれを受け入れようと考えていた。えると前回話した後、りょうは自分なりにもう一度その事を整理してみて、えるの希望もそれなりに尊重しなくてはと思っていたのだった。それはりょうの親友の重松のアドバイスでもあり、最終的に自分で選択した結論でもあった。ということで、りょうから見れば今日の結果が若干の気持ちの違いはあれ、大きく自分の気持ちを揺るがせるものになるとは思っていなかった。そんな事よりもりょうは、早くえるの顔が見たかったし、話をしたかった。えると付き合うようになってから3ヶ月経つ。りょうは会う度にえるへの思いを強くしていた。えると楽しい時間を多く持つ事が今のりょうにとっては一番大切な事であった。意見の対立などしている余裕は無かった。
りょうは今日のえるとの予定をどうしようか考えながら歩いていた。
えるとの待ち合わせは午後2時に日向丘の公園にしている。時間はまだ1時を少し回ったあたり。待ち合わせには十分な余裕があった。気持ちが逸るのと共に、少し余裕をもってこれからの事を考えたかったので、予定よりも早めに待ち合わせ場所へ行こうと思っていた。公園の近くには小さいながらも本屋や喫茶店等時間を潰すには困らない所がいくつかあった。
夏の正午に登る坂は結構堪えるものがあるが、坂の頂上に近づくにつれ自然とりょうの足は早くなって行った。今の時間は一日の内で一番暑い時間に当たる。自然と汗が流れてくる。坂の左右は大きな木々に覆われていたが、所々から差し込む日ざしはりょうを容赦無く照りつけた。同時に蝉の狂ったような鳴き声も響き渡っている。こんな状態でありながら、幸か不幸かこの坂を登っている人はりょうの他にも何人かいた。恐らく今時分ここの坂を登る羽目になっている大概の人は、額の汗を拭いつつ、自分の運命を恨めしく思っているに違いない。りょうのようにすたすたと元気良く登っているものは見かけられなかった。
頂上へ辿り着くと、目の前には日向高校の門が見えた。明日から学校ではあるが、ちょっと見た限り人の気配は無かった。駐車場には何台か自動車が停まっているので、教員は何人か来ているのだろう。
りょうもえるも、この学校に通っている訳では無かったが、この丘の上の緑に囲まれた雰囲気の学校が気に入っていた。そしてその隣にある公園も。
涼しい風がりょうの身体を通り過ぎて行った。一瞬の出来事ではあったが、りょうはその心地よさにうっとりした。汗だくになっていた身体がすっきりとし、疲れがとれたような気がした。
りょうは校門の前を通り過ぎ、公園へ向かって歩いて行った。
程なく歩いて、りょうは公園に到着した。
人は誰もいなかった。公園は前に見た時と全く同じで、静かな雰囲気は変わっていなかった。りょうはそんな公園の様子に、そして無事に自分がここに立っている事に何となく安心感を覚えた。
りょうは自分の腕時計を見た。1時15分。まだ待ち合わせの時間には随分と間があった。このままこの公園でぼんやりしているのも気分として乗らなかった。あれこれとこの辺に関する記憶を呼び起こして最適な方法を考えている内に、最近この公園の近くに出来たと言う喫茶店の事を思い出した。話によるとなかなか変わった種類の珈琲や紅茶を用意しているらしい。
(今日はまだ結構暑いし、外で話すのはいまいちだな。えるは紅茶が結構好きだし、その喫茶店で話をする事にしよう。まだ時間はあるし、探せるだろう)
りょうは公園の入り口から離れ、喫茶店を探そうと歩き出した。
喫茶店は公園のすぐ近くにあるはずだった。りょうは店の看板を探しながら道を歩いた。
(確かファルガって名前だと思ったけどな)
ファルガ、ファルガと呟きながら探していたのだが、最初に目について、立ち止まったのは1件の花屋だった。
さほど大きな店ではないが、入り口の所にいっぱいに飾られている花はどれも豪華であり、りょうの目を引き付けた。りょうは別に花に詳しい訳ではなく、その1つ1つの花が何と言う名前なのかすらまるっきり分からなかったが、引き付けられて止まなかった。まるで特殊な磁力でも用いているかのように、その場から動けなかった。
店の中では、そこの主人であろうと思われる中年の男がこちらをじっと見ていた。
男は40才から50才の間くらいだろうか。頭は少し薄くなっている。花屋らしい花柄のエプロンをしていた。
その男が難しい顔をして腕を組みながらじっとりょうの事を見ていた。
りょうは店の主人の存在には気がつかず、ただ花に見とれていた。
暫くして、りょうが立ち去る様子が無さそうなのを確認すると、ゆっくりと店の主人は店の中から出て来た。
「何かお探しですかな?」
店の主人は先程とは雰囲気を変え、愛想笑いをしていた。声も明るい調子で話し掛けていたが、どことなく気色悪さが残っていた。
「いや、別に。あの、、、」突然に声をかけられて、りょうは戸惑った。「余りにも花がきれいだったので、ちょっと見とれてただけなんです。」
「ほおー、見とれて。」
店の主人はわざとらしく頷いてみせた。あまりにも大袈裟なので、却って嫌みたらしかった。
「うちの花はね、日本じゃ手にはいんない物ばかりだからね。いやいや世界のどこを歩いたってなかなか手に入らない。物凄く珍しくて、物凄くきれいなものばかり置いてあるからね、見とれるのはしょうがないんだよ。でもね、この花の良さを分かる人も滅多にいないんだよ。そういう意味じゃ、あんたは良い目をしてるね。」
店の主人は気味が悪い程、愛想が良かった。
「はあ、どうも。」
りょうは恐縮しながら答えた。
(なんか売りつける気なのかな)
りょうは少し不安になってきた。褒められて悪い気はしないが、花を買う気は全然なかった。お金もそれほど持って来ていない。
「まあまあ、表で話すのも何だから、中に入りなさい。」
店の主人はりょうを招き入れようとした。りょうはいよいよ花を買わされる不安が膨らみ始めた。
「いや、別に、急いでますから。」
「そんな事無いでしょう。少しだけちょっと立ち寄ってください。あんたに見せたいものがあるんだ。」
何とか断わって店を離れようとするりょうの腕を店の主人は掴んで放さなかった。
「いや、人と待ち合わせているんで、、、」
「別に花を売りつけたりしない。」
何とか理由をつけて離れようとするりょうに店の主人はきっぱりとそう言った。
「、、、」
りょうは黙って店の主人の顔を見た。店の主人の顔は、一見は笑みを絶やしていなかったが、目は恐ろしい程ぎらぎらしていた。それは獲物を待ち構える蜘蛛を彷佛させた。それにどことなくりょうの気持ちを見透かしているような無気味さがあった。
(関わらない方が良い)
心のどこかで誰かが囁いた。
しかし、りょうが口にしたのは、「じゃあ少しだけ。」だった。
「さあ、入った入った。」
店の主人は嬉しそうに招き入れた。
「なあに、ほんの少しだよ。ちょっとあんたに見せたいものがあるだけなんだ。ここでちょっと待っててくれ。」
店の主人はそういうと、奥へ消えて行った。
店の主人が戻ってくるまでの間、りょうは店の中をぐるりと見渡していた。店の中も表と同様に美しい花がたくさん飾られていた。ただ表の花とちょっと違う所は、店の中の花には明るさが無かった。色はきれいな配色をしているが、どことなく元気が無い。何となくりょうの事を羨ましそうに見つめているような気がした。
5分程奥の方でごそごそしていたかと思うと、小さな木箱を持って戻って来た。木箱は特に色は施されていなかったが、箱の周りいっぱいに星や太陽や草木等をイメージさせる彫り物がたくさんしてあった。店の主人は箱の周りのほこりを手や息で注意深く払いながら、りょうの所へ持って来た。そして不思議そうに眺めるりょうに対し、ごく自然な感じで手渡した。
りょうは手を上げ下げし、その箱を色々な角度で眺めた。見れば見る程不思議な箱だった。単に彫を施された箱だと言ってしまえばそれまでなのだが、角度や見直してみる毎にそのデザインは異なって見えた。それに見た目の感じからは程遠いくらい軽い。ほとんど何も持っていないような軽さだった。
「どうかね、素敵な箱だろう。あんたはきっと気に入ると思うな。」
店の主人の言葉にりょうは無言でコクリと頷いた。それを見た主人も満足そうにうんうんと頷いた。
りょうはふと気がついて箱に耳を押し当てた。風の流れる音がした。ちょうど海で拾った貝殻を耳に押し当てた時に聞こえるような涼し気な音だった。
(中はどうなっているんだろう)
箱を揺らしてみても何も音はしない。
恐らく中は空洞に違いない、とりょうは想像した。しかし一方で何か想像を超えるような何かが入っているのでは、という予感もあった。少しだけ中を見てみたい気がしていた。箱のふたは特に何かで固定されている訳では無く、指で押し上げれば簡単に開きそうだった。
「見たかったら、ふたを開けても良いんだよ。」
りょうの心を悟るように店の主人は助言した。
りょうは好奇な目をしながら、両方の親指で箱のふたを押し上げようとした。
(その箱は開けない方が良い)
誰かがりょうに囁いた。
りょうの指は止り、箱のふたは数ミリ上がったところでぱたりと落ちた。
「どうしたのかね?遠慮はいらんよ。開けてくれ、開けてくれ。」
店の主人は躊躇するりょうを促した。
りょうは耳を澄ませた。先程の声の主を求めていた。しかし再びその声を聞く事は出来なかった。
「さあ、開けてくれ。開けたいだろう?」
再度の催促にりょうは一気に箱を開いた。
りょうは箱を覗き込んだ。中にはやはり何も無かった。中は単に四角く括られた空箱だった。開けた時にドライアイスのような白い煙りが少し立ち篭め、りょうの喉元をひんやりさせて消えたが、それ以上の展開にはならなかった。ひょっとしたらという予想外の結果も少しは期待をしていたが、期待外れに終わった。
ふーっとため息をついて、りょうは箱を閉じた。
「いやあ、開けたね、開けたね。」
店の主人はうれしそうに言葉を繰り返した。歯茎をむき出しにして笑みを浮かべていた。
りょうは無言でその箱を店の主人に返した。店の主人はそれを大事そうに受け取った。
「これはね、パンドラの箱って言うんだよ。」
店の主人は笑いを堪えるようにしてそう言った。その様子はまるで悪戯に引っ掛けた相手に、それを悟られまいとするかのような表情だった。