第2話  記憶の行方

 さやかは、ほんの少しの間みずきを見上げていたが、再び顔を伏せてしまった。

 みずきは黙ってさやかのことを見下ろしていた。

 みずきはさやかのことを探しにここへ来たのだし、さやかはここでみずきの来るのを待っていたのだから、お互いに相手がそのことを知っているであろうと思っていた。にもかかわらず、みずきもさやかもすぐには言葉が出てこなかった。お互いに相手を見つけた後、どうすればいいのか考えていなかった。

 さやかの手には例のカードが握られていた。恐らくみずきを待っているあいだずっと手にしていたのだろう。少ししわくちゃになっていた。アルファベットは夢で見た通り「M」だった。 

(M、、、みずきのMか、、、。彼女は僕の助けを必要としているのか?)

 みずきにはさやかが自分に助けを求めているのかどうか自信が無かった。あのリアルな夢を見る限り、予感した通りさやかがいる限り、みずきの助けというのは思い込みだけとは思えない。しかし所詮見たのは夢だ。どこか確信が持てずにさやかのことを見下ろしていた。

 さやかの背中は小さく丸かった。とても疲れているようにも見えたが、心なしか安心感を持っているかのようにも思える。

「大丈夫かい。」

 しばらくの沈黙の後、初めに声をかけたのはみずきの方だった。みずきはさやかの傍らにしゃがみ込み、覗き込むようにしながら、話し掛けた。よく見ると、さやかは下を向きながら微笑んでいた。

「遅かったよ。」

 聞こえるか聞こえないか分からないくらいの声でさやかはそう言った。しかしみずきにはさやかの言わんとする事が良く理解できていた。

「夢の中でなかなか君と話す事が出来なくてね。、、、随分前からここで待ってたの?」

「、、、一週間くらい前から。毎朝ここに来て、あなたが現れるのを待ってたわ。別に来るって言う保障なんか無いのにね。ふふ、でも来てくれたから良かった。」

 さやかはゆっくりと顔を上げた。幾分、顔は生き生きとしていた。

「いったい、どうしたんだい。前に会った時と比べると随分と元気が無くなってるようだけど。」

「元気かあ、、、」

 さやかはそう呟くとふーっと大きくため息をついた。そして空を見上げた。暫くの間じっと空を見つめていた。みずきもつられて空を見上げた。空は青かった。細長い絹状の雲がゆっくりと流れていた。やがて空を見上げるみずきの耳に再びさやかの声が聞こえて来た。

「わたしね、、、自分の影、失くしちゃたんだ。」

 明るい声で、少しの躊躇も無く、さやかはそう言った。空を見上げていたみずきは、びっくりしてさやかの顔を見た。さやかの顔はいたって真面目な風だった。

「足下を見て。」

 言われるがままに、みずきはさやかの足下を見た。

「私の影、、、無いでしょう?」

 みずきは、あっという言葉が口から出そうになった。さやかの言う通り、みずきの濃い影の隣にさやかの影は無かった。言われなければ、ちょっと気付きにくいことではあるが、気付いてしまうと確かに妙な事だった。みずきは何度となく後方に日の当たり方を確認した。しかしどう見ても影が無いのはおかしな事だった。

「これはいったい、どういうこと?」

 さあ、と言う感じで一度首を傾げてみせたが、その後落ち着いた口調でさやかは事の次第を話し始めた。

「全ての問題の根源は、あなたに関わり過ぎた所かしら、、、なんてね。、、、本当の所は良く分からないわ。でもいつからこんな風になっていったかというと、あなたの事を占い初めてから。別にあなたのことに興味があって占い始めた訳ではないわ。全てはカードが導いたもの。わたしはカードに導かれるまま占い、そしてあなたに関心を寄せ、そして影を失う。」

 さやかは、へへっと意地悪く笑うと膝や尻の砂を払い、すくっと立ち上がった。みずきもさやかに合わせるように立ち上がった。

「ずっと座ってたから、ちょっと身体が痛くなっちゃったわ。立って話させて。、、、そう、それでね、2度めにあなたと会った後あたりからわたしの周囲のイメージが変わり始めて来てね、、、」

「2度目?」

 みずきは思わず聞き返した。

「そうよ、2度目よ。」

 不思議そうな顔でさやかは答えた。

(2度目?僕はさやかに2度会っているのか?確かに僕の記憶のどこかにさやかと2度会った記憶は残っている。しかし、その記憶は妹のえるが誘拐されたという前提の中での記憶だ。もしその記憶が正しいのであれば、妹はやはり誘拐されていたのであり、僕は何らかの理由で記憶を妹の失踪直前へ戻された事になる)

 みずきは、はっと我に返った。さやかがみずきの事をじっと見つめている。

「どうかした?」

「いや、何でも無いんだ。」みずきはあわてて作り笑いをし、その場を取り繕った。「それで?」

「うん、それでね。わたしが私で無くなるって言うのかしら、、、もう一人のわたし。いいえ、一人じゃ無いの。他のたくさんの私が問い掛けるの。あなたは誰って、、、もちろんわたしは私としてここにも存在してるんだけど、他にもいるのよ。だんだん自分の存在に自信が無くなって、、、いったい何がわたしに起きたのか、手がかりを求めて外へ出てみたの。そこでわたしは他の私に出会って、わたしが分裂し始めていることを聞かされたわ。」

「別のわたしって、、、小さな女の子?」

「うん、そんな子もいたわ。」さやかはうなずいた。「男の子も。」

「いったい、何でそんな事に?」

「わからない。でも、そのうち自分の影が消えている事を知って、そうなのかなって思い出したの。」

「パンドラの箱って、、、開けた?」

 みずきは夢であった少女の言葉を思い出して、唐突にそう訊ねた。しかしさやかは、きょとんとした顔つきでみずきの事を見返していた。

「パンドラの箱?何それ?知らないわ。、、、もちろんそんなもの開けた事ないけど。でも、なぜ?そのパンドラの箱って言うのは何なの?」

 さやかは逆に真剣にみずきに訊ね返した。どうやら本当に知らないようだった。

「いや、夢で会った君が、小さい女の子のね、そう言ってたから、ちょっと気になって。女の子は君がパンドラの箱を開けたのがいけないと言っていたんだ。」

「そう。」さやかは、少しがっかりしたように肩を落とした。「全然記憶に無いわ。わたしの家にはそんな箱なんて無いし、、、」

「そう、、、違うのか。」

 みずきはため息をついた。あの少女が言っていた事は何だったのか。それとも聞き違いなのか。確かめようにも夢の話であり、今は無理だった。

 一方、目の前でものすごくがっかりした表情で下を向いているさやかの姿を見て、安易にため息をついた自分を後悔した。

「でもがっかりする事はないさ。君の占いでは、僕が君を救う事になっているんだろ?そして、こうやって出会えたんだ。きっと物事が好転して行くと思うよ。」

 みずきはさやかを励ますように力強くそう言った。

「うん、そうね。」

 さやかは力無く微笑んだ。

 みずきもさやかに微笑み返したが、次にどう動くべきか、アイデアはまるで無かった。

 突然、生暖かい強風が吹いた。

 風は低い無気味な音をさやかの耳もとで立てて、去って行った。それは墓場から蘇ったさやかの分身がさやかに問い掛けたあの声に似ていた。

 さやかは背筋にぞくぞくするものを感じ、反射的に振り返った。

 むろん後ろには何も無かった。

***

「える、お父さんから電話よ。」

「はーい。」

 海外勤務をしている父親から電話が入った。初めに電話を取った母親と家の状況について幾つかの話しをした後、父親は、えると変わるように依頼した。

 えるは母親の呼ぶ声を聞くと、階段を駆け降りてきた。そして受話器を母親から引継いだ。

「もしもし、お父さん。」

「ああ、そうだ。どうだ元気にしてるか。」

「もちろん元気よ。お父さんは?今度いつ帰ってくるの?ちょっと頼みたい事があるのよ。」

 久しぶりの父親との電話に、えるはまくし立てた。

「おいおい、落ち着いて話してくれよ。」

 それを聞いている父親は、笑いながらえるの剣幕を押さえようとしていた。

 母親もそれを聞きながら微笑み、「電話代が大変だから適当に切りなさいよ。」と言いながら台所の方へ去っていった。

 しばらくの間はしゃぐような声での会話が続いていたが、やがて台所にいる母親の様子を探るようにしながら、えるの声のトーンは下がっていった。

「大丈夫。お母さんは、台所へ行ったわ。」

「そうか、、、で、どうだ?みずきの様子は。」

「うーん、記憶は残っているみたいだけど、どこまで憶えてるんだか。ちょっと確認し難いのよね。」

「そうか、まあ、いずれ話す時が来るだろう。」

「意外と早かったりして、、、」

「えっ、どういうことだ?」

「ううん、別に。ただ思っただけ。」

 二人の神妙な会話の中、急に小さな雑音が入った。それは本当に聞こえるか聞こえないかと言うくらいの小さな雑音だった。しかし、二人はその小さな音に敏感に反応し、会話を閉ざした。1分程雑音は続き、それから消えるようにして聞こえなくなった。

「切った方が良さそうだな。」

「ええ。」

 えるは聞こえるかどうか分からない程の小さな声で答えた。緊張していたせいか、声はかすれていた。

「じゃあ、頃合を見てまた連絡するが、もしみずきに何か変化があればすぐに教えてくれ。」

「わかりました。」

 えるはそう言うと、静かに受話器を置いた。

 

 

 

つづく

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