第14話 世界の狭間で見れるもの(その6)
みずきは母親を掴む手の力を緩めた。
既に気を失ったような状態になっている母親は、みずきの手からするりと抜けるようにして崩れ落ち、無防備な形で床に叩き付けられた。どすんという大きな音がした。頭部もぐしゃりと割れんばかりの鈍い音を立てて打ちつけられたようだった。
やがて、その頭部の床に面している方から血がゆっくりと流れ出し、みるみるうちに床を赤く染めていった。
「母さん、、、」
みずきは大変なことをしてしまったという思いで、少し動揺をした。しかし急いで近寄って母親を抱き起こそうと思う反面、頭を打ちつけた人は余り動かさない方が良いのではという事も冷静に考えられていた。いずれにしても病院へ連れて行かなくてはならないのだが、この場所からどうやって連れて行けばよいのかは全く分からなかった。
「み、ず、き、、、」
みずきはしばらくはどうすることもできず、ただじっと立って母親の事を見下ろしていたが、突然母親は意識を取り戻し、枯れている声でみずきの名を呼んだ。母親の顔は苦痛で歪んでいた。しかし必死にみずきの所在を探し求め、身体を起そうとしていた。みずきを何とか掴もうと必死に手を伸ばしていた。頭を起そうとする度に頭部から流れている血が顔の方に流れ込み、あっという間に顔は血だらけになってしまった。
「母さん、、、大丈夫か?」
みずきは母親の側に跪き、母親の様子を伺った。
母親はしばらくは焦点が定まらず、空中を彷徨うような目でみずきの事を探していたが、やがてみずきの顔が近くにある事が分かると、うれしそうにみずきの顔へ両手を伸ばして来た。母親の手が近づくにつれ血なまぐさい臭いが強くなって行ったが、みずきは我慢して動かなかった。
「ああ、、みずき、、、」
皺枯れた声はいつも聞く母親の声からは程遠いものであった。おそらくこうして目の前に母親が横たわっているのではなく、声だけがどこからか聞こえて来るだけであったなら、誰がなんといってもそれが母親であるとは信じないであろう。
母親はみずきの首に両腕を巻き付けるとゆっくりと徐々にみずきの首を締め始めた。
「あんたが私にしたことをお返しにしてあげるよ。」
そう言う母親の顔は血だらけで非常に醜いものであり、時折苦痛の表情を示してみずきの心を痛めさせているのだが、みずきの首を締めているという行為については非常に悦に入っている様子であった。母親は頬を緩ませ、舌舐めずりをしながら首を絞める力を強めて行った。
(母さん、、、)
みずきは母親に何かを話し掛けようとしたが声が出なかった。目の前にいる母親は見た目には確かにみずきの母親であったが中身は全く違った人格になっていた。こんな母親を今までみずきは見たことが無かった。
みずきの母親は非常に大人しく優しい雰囲気を持った女性で、みずきも小学生頃までの話ならともかく中学以降は怒った顔やみずきを不快にさせるような表情を見せたことは無かった。絶えず穏やかに微笑んでいる印象が一番強かった。
(やはり、先程倒れた時におかしくなってしまったのだろうか?)
そんな思いがかすかにみずきの脳裏を走った。
母親の絞める手がかなり強くなり、みずきの喉が痛くなりだした。呼吸をするのも困難になって来た。みずきは母親の腕を抑えこれ以上首を締め付けるのを抑えようとした。
母親はみずきの手をふりほどき、更に強く首を締め付けようと手を伸ばして来た。
髪の毛は逆立ち、ライオンのたてがみのようになっていた。
「私はお前の母親だよ。お前を育てたのはこの私だ。お前は私のいうことを聞かなくてはならないし、私の面倒を見なくてはならないし、私と共に生きなくてはならない。お前は私を見捨ててはいけない。」
更に母親はそういった言葉を繰り返し、みずきの抵抗を色々な形で封じようとした。
「みずきや、、、良く聞くんだ。お前と私は今は違う世界に存在している。でも私達は親子なのよ。同じ世界に住まなくては、、、私のいう通りにするのよ、、、とにかく今は抵抗をしないで。私にされるままになりなさい。」
醜い声で母親はみずきを説得する。
「そう、、、その通り。お母さんのいう通りになさい。」
追い討ちをかけるようにそう言うのは、先程まで消えていた花屋だった。花屋は母親の後方から1メートルぐらいのところに立ち、みずきの事をじっと見つめていた。
「このようになったのは、全てみずき、、、お前のせいなのだ。おとなしく母親の元へ落ちろ。」
花屋はそうとも言った。
ふと気がつくと、みずきの周りには多くの見知らぬ者達が立ち、みずきと母親の様子を取り囲むようにして見ていた。それらの者達はみずきに似た者もいれば、以前に恐ろしい思いをした銀髪の狂人もいた。ほとんどの者がみずきに向かって何らかを話し掛けていた。しかしほとんどの内容はみずきには理解できない意味のない内容だった。
(おそらくこいつらは自分に何かを考えさせないようにしているのだろう)
ふと、みずきの心にそういった考えが浮かんだ。そしてその通り、みずきには何も考える余裕が無くなっていた。
母親は身体を起こし、みずきに乗り掛かるようにしてみずきの首を絞め始めた。みずきは何とか致命的な攻撃にならないように抵抗をし続けたが、母親を跳ね返すまでの力は出なかった。というよりも母親の力がとても中年の女性とは思えないような力を出していたことも事実だった。
それをまた周囲が野次る。まるで酒場の酔っ払いの喧嘩を周囲で野次っているかのような光景であった。
(だ、駄目だ、、、)
みずきは母親の払いきれない力強さに、自分の限界を感じ出した。
***
ババッとカメラのフラッシュをたくような音がして、一瞬辺りは光に包まれた。
***
しばらくの間フラッシュの残像が残り、辺りに緑色のもやもやしたものが漂っていたが、それも徐々に消えて行った。
みずきは見たことも無いようなところに立っていた。
20人程度収容できるであろう事務所のような部屋の中。
パルプで作られた机や本棚。そして至る所に紙切れ?書類の山、山。全て英語で書いてあるのでどういう類のものかは分からないが、恐らく何かの資料であろう。
今が夜なのか、それとも日の当たらない部屋なのか、とにかく部屋の中は薄暗かった。時計は部屋のどこにも掛けられていなかった。空気が流れるような感じが無く、濁った空気が充満し、かび臭い感じがしていた。
(ここはどこだろう?誰かいないのか?)
みずきは辺りを見回した。
部屋の片隅に誰かいた。一人で一生懸命キーボードを叩いていた。
(父さんだ)
みずきは一目見てすぐにそう思った。しかし今の父親よりも幾分若く感じた。それに父親は今自分達の家に帰って来ているはずなのに、、、
みずきはゆっくりと父親に近づいて行った。父親は作業に夢中でみずきに気が付かないようだった。ほとんど真横に立った状態になってさえ、父親はみずきの方に顔を向けることは無かった。
(僕の事に気がついていないのか、、、)
机のうえは英語でタイプされた資料の山。部屋の作りからみて日本のであまり見ない部屋だった。むしろ外国のドラマでよく見る部屋の作り、、、たぶんここは父親のアメリカにある研究所の中だろう。
カタリと音がして卓上のカレンダーが倒れた。父親が作成した資料を脇へ退かす時に、カレンダーを倒してしまったのだ。
みずきはそのカレンダーの日付に注目した。
1993年8月。
(93年?、、、5年前だ)
みずきがその事に気付くと、突然父親は何かを察したのかはっとした表情をみせてみずきの方を見た。
再びフラッシュがたかれた。
***
誰が過去の父親の職場に導いたのか、、、
***
チーンという鐘を鳴らす音がした。
その音がみずきにいかなる力を与えたのか、、、
そしてみずきに何を知らしめたのか、、、
***
みずきは母親達がいる場所へ戻っていた。
急にみずきは母親の攻撃を全く苦にする事が無くなり、いとも簡単に母親の腕を払い除けることができるようになった。母親はわあッと言う声を上げてひっくり返った。そしてうううっという悲しいうめき声と共に黒い固まりとなってみずきの足下に消えていった。
みずきはゆっくりと立ち上がった。母親が消えてしまった事に対しても、みずきの心には何の動揺も現れなかった。みずきが立ち上がると、周りにいた者も一斉にうめき声を上げて黒い物体になり、みずきの足下へと消えて行った。まるで全てがみずきの影になってしまったかのようにみずきの足下へ黒い物体が固まってゆらゆらと揺らいでいる。
いつの間にかみずきのからだの周りには、いつか見たあの黄色い魚が泳ぎ回っていた。数匹の黄色い魚はみずきのからだの周りを金粉のようなものを振りまきながら優雅に泳ぎ回っている。
花屋だけがみずきの前から消える事無く、みずきの姿をまるで恐ろしい者を見ているかのように立ちすくみ、じっと見つめていた。
みずきは周りに泳ぐ魚を一瞬気にしながらもすぐに花屋の方へ目を向けた。それから周りで元気に泳ぎ回る魚をひとつつまみ取ると、花屋へ向けて投げ付けた。
花屋は驚いて後ずさりしたが、魚は花屋に直撃した。
魚は花屋に当たるとパッと小さな光を放ち、そして火花のように消えていった。
魚を当てられた花屋の顔は苦渋に歪み、いつの間にか以前に出会った老人の顔に変わっていった。
「ううっ」
花屋からはうめき声しか出なかった。
みずきは自信を持った顔つきで花屋を見つめていた。何がきっかけだったのか。みずきは何かを悟ったようだった。
「もういいだろう。僕は帰る。」
そういってみずきは消えた。