第14話 世界の狭間で見れるもの(その5)
みずきはゆっくりと力を込めて箱のふたを押し上げた。
実際の箱のふたの重さは大した事は無かったはずだった。しかし、持ち上げる事にみずきはものすごく体力を消耗したような気になった。押し上げた指の先はふたの縁をまだ押さえながらぶるぶると震えていた。
箱を開け終えた後のみずきの心は何か得体の知れない異様さに包まれていた。
何か禁じられている事を侵してしまったような気持ち
けっして取り返す事の出来ない失態
後戻りが出来ない道への迷走
どれも今の気持ちを言い得ているようでもあり、言い得ていないようでもあった。
箱のふたの裏には鏡が取り付けてあり、薄暗闇の中で鈍く背景を写し出していた。
箱の中には今まで冷蔵庫の中にでも入っていたかのような冷気があった。ひんやりとした空気が舞い上がり、みずきの首元をかすめて消えた。一瞬みずきの背中にぞくぞくと電流の様なものが走った。
(何か気味が悪いな、、、このまま締めてしまうか)
みずきの思いとは別にみずきの指は箱のふたを支え続けた。そしていくらみずきが心の中で箱のふたを締めて、この件は終わりにしようと思っても決してその通りにならないことは、おおよそ察しがつき、覚悟が出来ていた。確かに自分の行動の選択に過ぎないものであるが、人間の行動は必ずしも自分の意志に忠実であるとは限らない。後悔することが想像にた易い事でも、火の中に飛び込む虫のように敢えて危険を侵す事はある。今のみずきはまさにそれであった。
なぜそうなのかは、みずきには分からなかった。しかし素直にそれは受け入れていた。
箱の裏にある鏡は、あるいは鏡の光は、みずきの事を見つめているかのように、みずきの方へ向けられていた。鏡がみずきにもっと近づくように誘っているように思えた。
みずきは箱の中の鏡を覗き込んだ。徐々にみずきの姿が鏡の中に現れ、やがてみずきの顔はしっかりと鏡全体を埋め尽くすように写し出された。そこでみずきを見つめているみずきは正に今のみずきであり、それ以外の何者でも無かった。
次にみずきは箱の中に視線を落とした。箱の中は空で何も入っている様子は無かった。
(特に変わった物ではない箱。何の変哲も無い箱。なのに何なのだろう、、、この気持ちは)
みずきの今の複雑な気持ちをはっきりさせる為の糸口を箱の中に求めたが何も見当たらない。
みずきは顔を上げ、りょうの方を見た。りょうは驚いた様子でみずきの方を見ていた。目を見開きたまま凍り付いたように動かいていなかった。
「この箱はいったい、、、」
みずきがりょうに話し掛けようとしたが、りょうはぴくりとも動かなかった。
みずきはりょうの元に近づき2、3度肩を揺すってみたが、マネキン人形のような硬直した動きしか示さなかった。
「彼の実体はここにはもうありません。それは彼の残像です。彼は上層に戻りました。」
みずきの背後で話し掛ける声がした。
みずきがはっとして振り替えると、そこには中年の男が立っていた。男は前にエプロンを身につけていた。男はにやにやと笑みを浮かべながら、みずきの事を見つめていた。
「あなたはいったい誰です?」
「私は花屋です。」
みずきの指の力が不意に緩み、箱のふたがぱたりと音をたてて閉じた。
みずきには当然の事ながらこの男が何者なのか、なぜここにいるのか、知らなかった。しかし相手の男は以前からみずきの事を知るものであるかのように何のためらいや躊躇もなく、平然とみずきの前に立っている。立って、余裕の表情で笑みを浮かべている。
みずきはゆっくりと体を花屋の方へ向けた。
「僕はあなたを知らない。」
「そうでしょう、、、初対面ですからな。」花屋はゆっくりと肯いた。「もう一度言いましょう。私は花屋です。名前とかはありません。」
「、、、」
みずきが黙って花屋の事を見つめていると、花屋は一呼吸置いて再び話し始めた。
「それにしても驚きました。あの箱を開けてもなんともない人がいるなんて、、、まあ、そもそも下層の世界と上層の世界を行ったり来たり出来る事自体が驚きに値する事ですからな。それが出来るという事は、箱を開けても何も起こらない事は自然なのかもしれない。いや、一つ勉強になりました。」
花屋はみずきの様子を伺うことなく話を進めていった。みずきが花屋の言う事を理解しようがしまいがお構いなしと言う感じだった。もともと理解できそうな話ではないので、そういう期待すら無かったのかもしれない。
「私の正体が何かをお話した次は、私がなぜここにいるのかと言う事ですかな。あなたが知りたいと思うことは、、、確かに私はここにいるべきものではない。あなたの所でひっそりと暮らしているうさぎや猫とは違う。私はもっと下層の方にいるものです。ここの世界の住人が暗闇といっているような世界。全ての下層がそこへ流れ落ちている場所。そこは上層を支えている場所であり、けれど全く何も無い場所、、、無。」
「下層?下層って一体何なんです?上層っていったいどこなんです?そしてここはいったいどこなんですか?」
「上層とは意識を感じられる世界。下層とはそれを支える世界。ここはあなたの意識の下に流れるひとつの世界。」
「分からない、、、でもこういった出来事は今までも随分とあったから、これ以上は驚かないけれど。いずれにせよ、これ以上あなたがどんなに丁寧にこれらの世界を説明してくれても、たぶん僕には理解できないかもしれない。」
「そうでしょう、そうかもしれません。」
みずきは花屋の説明に若干意地悪く答えたつもりだったが、花屋は納得したように深く肯いた。
「まあ、あなたがどこの何者かは理解し難い存在であることは分かったとして、、、、でも僕は聞きたい事は、まだたくさんある。たとえばあなたはさっきこの箱を僕が開けて何も問題が無かったことを非常に驚いていた、、、この箱は何なんですか?普通この箱を開けるとどうなるんですか?」
「ふっふっふ、、、きれいな箱でしょう?」
「、、、」
花屋のその言葉には、みずきは答えなかった。
「その箱はね、パンドラの箱といって、それぞれの人の下層の部分を開放してあげる役割を持っています。今まで自分の中に溜め込んでいた闇の部分を上層へ一気に吐き出すという凄い力を持ってるんです。その力のといったら、、、言ってる事は分かりますかな?もう少し詳しく説明しましょう、、、日常生活に於いて不要となったものは、ゴミという形で自分の周囲から捨ててしまいます。しかし自分の見えない所に置いただけでゴミは無くなりません。いかなる処置をしても必ずいかなるか形で残ります。それは当然のごとく増えていきます。人の意識も似たような所があります。現実社会で必要とされない部分は葬り去られます。しかし無くなりはしません。意識の届かない所で密かに残り、着実に増えていきます、、、
それはそれで開放される時を待っています。上層が塞がれた不要な意識は更なる下層に道を求めます。更なる下層は深い海の底のように果てしなく全ての意識の下で繋がっている、、、それがある切っ掛けで上層に開放されると、、、」
花屋はそこで話すのを中断した。にやにやとみずきの顔を覗くようにして、みずきから話を急かすのを待っているかのようだった。
(パンドラの箱、、、聞いた名前だ)
みずきはかつて夢の中で少女のさやかが話していた言葉を思い返していた。
『そう。パンドラの箱。開けないほうが良いのに、さやかは開けたわ。おじいさんが持って来たの。とても優しそうなおじいさん。』
さやかがかわいらしい声でそう言っていた。
(開けてはいけない箱、、、、さやかもりょうもそれを開けた為に問題に巻き込まれた)
花屋はにやにやと笑っている。
(こいつが、さやかやりょうに箱を手渡したのか、、、問題があることを知りながら)
みずきにとって渡した相手が中年の男だろうが老人だろうがどうでも良くなっていた。諸悪の根源はパンドラの箱を渡したことが全てだった。
花屋はじっと待っている。みずきが次を聞きたがるのを。続きを言うように促すのを。
みずきは花屋の期待に応える事無く、つかつかと花屋の近くに歩み寄ると、ぐいと花屋の襟首を掴んで持ち上げた。そして怒りを表した顔で花屋を睨みつけた。
しかし花屋は笑っていた。
「きさま、、、」
みずきは締め付けている手を強めた。花屋の首は更にしまり身体は後方に仰け反っていった。
「親を虐待してはいけません。」
花屋は笑いながらそう言った。
みずきは花屋の言っていることが良く分からなかったが、苦しむ母親の声を聞いて、思わず手の力を緩めた。
いつのまにか締め付けていたはずの花屋の姿は消え、代わりにみずきの母親の首を締めていた。
「母さん、、、」
みずきの母親は目を白く剥き、みずきの手にぶら下がるようにしてぐったりしていた。