第12話  訪問(その1)

 悪夢から追い出されるようにして、えるは目を覚ました。

 全身にうっすらと汗をかいていた。心臓の鼓動が百メートルを全速力で走り終わった後のように高まっていた。心臓のどくっどくっという鼓動が内部一体に響き渡り、鼓膜を刺激した。

 部屋の中は薄暗かった。しかしそれはえるが寝る前に窓にカーテンをひいたからで、カーテンの隙間から差し込む一筋の太陽の光がレーザー光線の様にえるの腹部の辺りの毛布に直撃していた。

(朝だ)

 えるはベッドから跳ね起きると、横目でベッドの側の本棚に有る目覚まし時計で時間を確認し、それからパジャマから洋服へ着替え始めた。時間は9時を少し回った辺りだった。

(しまった。寝坊したわ)

 えるは8時には起きる予定だった。父親が帰ってきた事も有るし、朝食には揃って食べなくてはいけないと言われると思ったからだ。確かに目覚ましをかけるのを忘れていた。しかし、こういう時は母親が決まって起こしに来てくれたものだが、、、

 えるはバタバタと音をたてながら、階下へ向かった。

 えるの足音とは反対に1階は非常に静かだった。居間では父親が珈琲をを飲みながら新聞を読んでいる。

「おはよう。」

「ああ、おはよう。」

 えるの声に父親は一瞬新聞から目を離し、返事をした。しかしそれ以上えるに話し掛ける事は無く、すぐに新聞の方へ視線を戻してしまった。

(おかしいな、、、)

 えるは母親の姿を探した。いつもならそろそろ朝食が始まってもおかしくない時間である。帰ってきたばかりの父親をほっといて姿を見せないなんていうのは、どう考えても変に思えた。

 えるは母親が寝ていた寝室へと向かった。しかしそこには母親はいなかった。布団もきれいに片付けられていた。

 えるは再び居間へ戻っていった。

「ねえ、お父さん。お母さん、どこ行ったか知らない?」

「母さんか、、、どこか買い物にでも出かけたみたいだよ。」

 父親は特に表情もなく、さらりと答えた。しかし、その答え方はえるに違和感を感じさせた。

「こんな朝から、、、?どこに行くって言うのかしら、、、」

「、、、」

 それに対しては父親は何も答えなかった。

「変なの、、、」

 えるは呟くようにそう言うと、どことなく空いてきたお腹を満たそうと台所へ行こうとした。行きかけて思い出したように父親の方へ振り返った。

「お父さんも何か食べる?朝食まだなんでしょ?」

「いいや、いらない。」

 父親は素っ気無く答えた。

「そ、、、」

 えるは一言そう言うと台所ヘ行き、テーブルの上に置いてあったビニールの袋の中からフランクロールを取り出した。それを口にくわえながら、父親が作った珈琲の残りをカップに注いだ。

「える。」

 居間で父親が呼ぶ声が聞こえた。

「なあに。」

 えるは口をもごもご言わせながら居間へ戻っていった。

「える、もうじきお兄さんがここへやって来る。」

 父親は新聞にその事が書いてあるかのように新聞を見つめたままそう答えた。

「えっ?」

 えるは驚いたような声を上げた。予期せぬ父親の言葉を聞き返そうとした時、玄関の扉が開く音が聞こえてきた。通常の客なら呼び鈴を鳴らすだろう。えるは慌てて玄関へと走っていった。

 父親の預言通り、玄関にはみずきが立っていた。

「お兄ちゃん、、、」

「や、やあ久しぶり。」

 みずきはぎこちない声でえるに挨拶をし、靴を脱ぎ始めた。

「どうしたの、、、?こんな朝早くから。」

 えるはみずきにそう訊ねた。父親の話からみずきが来る事は分っていたが、そう訊ねずにはいられなかった。

 みずきは辺りをきょろきょろと見回した後、「えるにちょっと聞きたい事があるんだ。」といった。

「何かしら?」

「まあ、立って話すのも何だし、、、母さんは?」

「それが、、、朝からいないのよ。」

「そう、、、じゃあ居間で話そう。」

 みずきは母親の不在については特に疑問を抱く事無く、そう言って居間の方へと歩き出した。みずきは父親が帰ってきている事を知らないはずだった。えるは慌てて父親が居間にいる事を告げようとしたが、時遅く、居間に入っていってしまった。

 えるが急いで居間に入ると、そこには父親の姿は無かった。父親が飲んでいたはずの珈琲カップも新聞も全て片付けられていた。

 みずきは何も気付く事無く、父親が座っていたソファへどっかと座った。えるも続いてみずきの正面に腰を下ろした。

「話って、、、?」

 えるはみずきの様子を伺うように上目遣いをしながら訊ねた。

「うん、、、それなんだけど、、、」みずきは話し難くそうに前かがみになり、鼻を何回かぽりぽりと掻いた。「えるの友だちにさあ、、、りょうって奴いる?」

「えっ?」

 えるは一瞬、見えない矢で胸を射抜かれたような気がした。顔は一瞬にして青ざめ、脂汗が滲んできたがみずきはそれには気付いていないようだった。

「いるの?」

 追うようにしてみずきは質問を繰り返した。えるの頭の中は少しだけパニック状態になりつつあった。

 父親のPCに写った’りょう’という文字。更に遡って昨日の夕方の出来事。人が変わったように凶暴になったりょうの顔。坂を降りていく二人、、、

(何なの。お父さんもお兄ちゃんも。りょう君に何の用なの?)

「える?」

 えるの様子がおかしい事に気が付いたみずきは驚いて呼び掛けた。

「何?りょう君?知ってるわよ、、、何でお兄ちゃんは知ってるの?りょう君に何の用があるのよ。」

 えるの言い方は非常に攻撃的だった。みずきはえるの予想外の反応に少し戸惑った。

「える、、、何怒ってるんだか知らないけど、落ち着いて聞いてくれよ。」

 みずきはえるをなだめるようにして話し始めた。

 父親は書斎にいた。

 そこで修理したばかりのPCの画面をじっと見つめ、流れていく文字を追っていた。

 それは居間で話をしているみずきとえるの会話だった。

つづく

*** ホームへ戻る ***