第11話  静なる夕食

 父親が台所へ入って来た時、やかんの沸騰は頂点を極めていた。注ぎ口からは沸騰したお湯の飛沫が飛び、やかん本体は、今まさに自分が爆発寸前である事を周囲に知らせようとするかのように、がたがたと音を立てて揺れていた。

 父親は冷静に状況を判断しようとした。母親は裏口のドアの前でぼんやりと立っている。

 父親は一瞬、その事態の対処に戸惑った。そしてとりあえず父親は母親に声を掛ける事はせず、まずがたがたとやかんを怒らせている火元を消した。やかんは火元が消えると徐々にがたがたという音を沈め、やがて静かになった。

 やかんが静まった後もそれに気付く事なくぼんやりと立っている母親を、父親はゆっくりと観察していたが、やがてゆっくりと話し掛けてみた。

「どうしたんだ。」

「えっ、何が?」

 父親の声にようやく母親は我に帰った。母親は父親の声に慌てふためき、一瞬意味も無いような動作を繰り返した。

「はははっ、母さん、どうしたんだい?大丈夫?」

 父親の優しさのこもった笑い声に母親はようやく落ち着きを取り戻した。

「あら、ごめんなさい。何かぼっとしちゃって、、、」

「大丈夫かい?やかん、、、火が掛けっぱなしだったよ。火元には注意してくれなくっちゃ。」

「あら、そうだったかしら、、、ごめんなさい。」母親はちらりとやかんの方に目を向けた。「久しぶりにあなたが日本に帰ってきたら、何だかあなたが留守中にあった事を色々考え出しちゃって、、、つまんない事ばかりなんだけど、、、」

「そう、、、ずいぶん苦労を掛けたね。」

 父親は特にそれ以上怒る事もしなかった。それよりもふと気が付いて見つけたテーブルにのっている大きな花束の方が気になっていた。

「ところであの花束はいったい何だい?」

「ああ、それ?今花屋さんがもって来たの。何でもあなたの帰国祝だとかで、会社の方かららしいけど。」

「会社の人間から?」

「ええ、、、そう言って持ってきたわよ。」

「それは変だなあ、、、」父親はすぐに怪んだ。「会社の人間がそんな事するはずがない。」

「きっと、あなたを驚かそうと思ってしたんじゃないかしら。」

 母親は無責任な口調でそう呟いた。

 父親は更に追求したい気持ちはあった。どこの花屋が持って来たのか確かめようとしたが、そこへ書斎に残っていたえるが「お腹がすいたあ。」と言いながら現れたことで話は中断された。

***

 間もなくして親子三人の夕食が始まった。

 久しぶりの親子三人の料理ということで食卓には色とりどりの料理が並べられていた。食材も新鮮で高級な魚や肉を知り合いの店から調達してきていた。母親はこの日の為に何日か前から準備をしていた。

 父親もえるも料理の豪華さに思わず「わあ。」という驚きの声を上げながらテーブルに着いた。

 そして食事の雰囲気もこの食卓に負けないくらいの賑やかなものになると予想されていた。父親が留守中に起こった色々な出来事について、あるいは言いたいと思っていた積もり積もった気持ち等を互いに話し合う時間がそこにはあると思われていた。だが、それは期待外れに終わった。

 食事は予想に反して静かな中で進められていった。

 父親とえるは何度か顔を見合わせては互いに首を傾げ合った。

 三人の中で一番賑やかにおしゃべりをすると思われていた母親が、ほとんど話をせず、黙々と料理を口に運んでいたからだ。何度かえるが母親に向かって話題を差し向けてみたが、母親の反応はあっさりしたもので、「まあ、そう」「いいえ」といった単純で素っ気無いものしか返ってこなかった。いつもなら1つの話題に対して自分の感想の他に近所の誰某がどう言っていたとか、それに派生してうわさ話等に移ったりと数倍にして返ってきていた。あまりにも話が長くなり、うんざりしてしまった事や話を向ける前から気が引けてしまったりする事の方も良くあった。

 それを考えると今日の母親は別人であった。

 父親はもともとおしゃべりな方では無いので、えるの話に軽く応える程度が普通であった。

 その父親ですらこの状況を見て、少しでも場を明るくしようと努力をしていた。しかし慣れない事をしたために余計にぎくしゃくしてしまった。

 えるは結構話し好きではあったが話し相手がいつもの調子と違うのでいまいち間が悪かった。

「お母さん、どこか具合でも悪いの。」

 話の行き場に行き詰まったえるは、場が盛り上がらない核心を突く事にした。もちろん本当に具合が悪そうであれば、えるはそんな事は聞かない。見た目何でも無さそうであるし、そんなに問題を孕んだ雰囲気でも無かったので場を盛り上げるつもりでそう訊ねた。

「いいえ。」相変わらず素っ気無い口調でそう答えた。母親の目は前の料理の方にいったままで、えると目を合わせる事は一切無かった。

 えるは何か言い返して来る事を期待したが、「いいえ」「はい」の類しか言わないので話が先に進まない。えるは少し苛ついた。

「何か、いつもと違って全然話とかしないし、、、お母さんちょっと変みたい。機嫌でも悪いの?」

「、、、」

 それには母親は何も答えなかった。

 それに対して父親は何か一言言おうとしたが、上手い言葉が思い付かないまま何も言わずに終わってしまった。

 えるもそれ以上自分から話をする事は止めた。

 暫くの間、沈黙のまま食事が続いた。

「ああそう、お父さんに言っておく事があったわ。」

 突然沈黙を破って母親が口を開いた。それまで下を向いて食べていた父親とえるはびっくりして母親の顔を見た。

「なんだい?」

 平静な面もちで父親は言葉を返した。

「今日の夜ですけど、みずきの部屋を使って寝てください。」

 母親は淡々とした口調でそう言った。視線は相変わらず料理の方に向かれていた。

 えるは唖然として言葉が出なかった。父親も驚いてはいたが表情には出さなかった。

「ああ、それは構わないけど、、、いったいどうしてだい?」

「寝室はちょっと散らかってるのよ。片付けるまで部屋に入らないでください。えるも入らないで。」

 母親はそれだけ言うと、再び黙々と食事を続けた。

 父親の帰宅に向けて色々と準備をしてきた母親の言葉としては、それは意外なものだった。しかもえるが思い付くかぎりでは母親が寝室を散らかしている記憶など無かった。

 えるは母親に向かって何か言い返したかったが、母親の何者も受け付けなそうな風情を見て、思い留めてしまった。

***

 その後は三人で必要以上に話を交わす事なく互いに部屋に籠り、寝る時を迎えた。

***

 就寝前、えるは夕食の時の様子を思い返していた。今晩の母親の様子は明らかに変だった。昼間はそんな事は感じられなかったのに、何か急に人が変わってしまったような気がした。

(どうしたんだろ、、、お母さん)

 えるは母親の言動や仕草から原因を見つけだそうと努めたが、結果は得られなかった。

 やがて睡魔が襲い、えるは電気を消して眠りに就いた。

 眠りに就いたえるは再び夢を見た。

”えるちゃん。あなた、随分大きくなったわね。

 それはお母さんの望む所では無いので、あなたを食べてあげるわ。”

 大きな口を開けて襲って来る母親からえるは必死に逃げていた。

(逃げなくっちゃ。逃げるのよ、える。逃げなきゃ、食べられちゃう)

 えるは夢の中で必死に自分を励まし、逃げ続けた。

 母親はえるの身長ぐらいありそうな大きな口を開き、えるを追い掛けて来た。走る速度も思いのほか早く、えるとの距離はどんどんと縮まってくる。

(逃げなくっちゃ。逃げるのよ、える。逃げなきゃ、食べられちゃう)

 えるは必死に走った。

 目の前は真っ暗だった。その先に何があるのかは全く分からない。一寸先に崖があったとしても気が付く事は出来ず、飛び下りてしまうであろう。しかしえるは走るのを止めなかった。立ち止まった所で助かる見込をえるは信じていなかった。

 生温い風が顔に強く当たる。

 道は果てしなく続く。

 しかし一寸先に道は感じられない。

 まるでえるが一歩足を踏み出す度に新たな道がえるの足下のみ誕生しているような感じがしていた。

 不安定な足下の中をえるは一生懸命に走った。

 ふとえるは夕方に見ていた夢を思い出していた。

(再びお父さんが来て、助けてくれるのかしら)

 えるは漠然とそう思った。父親の登場を期待して辺りきょろきょろと見渡した。

 しかしどんなに逃げ続けていても父親は一向に現れなかった。

***

 真夜中のみずきの部屋。

 ベッドの上で父親は横たわっていた。

 父親の目は開いていた。真っ暗な部屋の中でじっと天井を見つめていた。そして耳を澄ませている。何か変わった物音がするのをじっと待っているかのようだった。窓を閉め切っているせいか、外の音も全く聞こえない。今聞こえて来るのは、みずきの部屋の中にある目覚まし時計のこちこちという音だけだった。

 天井の模様は外から漏れて来る月明かりでかろうじて確認する事が出来た。木の板で出来ている天井は木目の部分が得体の知れない生物の目玉の様に感じられた。その生物はにたにたと笑みを浮かべながら、じっと父親の事を見つめている。

 それはしばしば月は雲に隠され、部屋は暗黒に包まれる。

 父親も夕食の時の母親の様子を思い返していた。

 明らかにいつもの母親とは違うと確信していた。

(いつから?どうして?)

(書斎で話をしている時には、特に変わった風には思えなかった。やはりおかしくなったのは台所へ行ってからだ。そしてあの花束。どうも気に掛かる。いったい誰がもって来たのか、、、)

 母親の状況を見る限り、本人に原因を聞いた所で何も得られないだろうと踏んでいた。残るは本人に警戒心を持たせ無いようにして何とか手がかりを行動から見つけだすしか無かった。

 父親はその機会をじっと伺っていた。行動を起こすなら真夜中こそ絶好であると踏んでいた。

(きっと何かボロを出すだろう)

 そう考えていた矢先に下の階でゴトリと何かの音がした。

 父親はゆっくりと起き上がると母親の寝ているはずの寝室へ足音を忍ばせて歩いていった。

 寝室の扉の前で耳を済ます。

 中はとても静かだった。

 父親はゆっくりと扉を開けた。

 部屋には誰もいなかった。部屋の中はきれいに片付けられ、母親の布団すら敷かれていなかった。

 誰もいない事が分かると父親は足音を立てて中に入り、電気をつけて辺りを伺った。特に変わった所は無かった。

 押し入れの中でゴトリという音が聞こえた。

 父親は躊躇する事無く押し入れへ走り、勢い良く襖を開けた。バタンと大きな音を立て襖は右に飛ばされた。それまで真っ暗やみだった押し入れにぱっと光が注がれる。

 一瞬押し入れの奥の壁の向こうにうさぎの顔が見えた。

 父親は勢い良く押し入れの中に飛び込むと、奥の壁にぶつかっていった。どすんという大きな音を立てて父親の身体は壁に当たり、その先への進行を妨げられた。もちろんそこにはうさぎなどいなかった。

 押し入れの壁は、何事も無いと言わんばかりに父親の腕に冷たい感触を伝えていた。

「ちっ」

 父親は舌打ちすると、ゆっくりと押し入れから外に出た。

つづく

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