第10話 見えるもの
えるはどたどたと音を立てて階段を降りて来た。そして慌てた様子で父親の所在を探した。
初めに台所を探し、次に居間を探してみたが父親の存在はそこには無かった。母親の姿もそこには無く、部屋は日が落ちかけている中でひっそりとしていた。えるはまるで父親の所在を御主人の出迎えを寝坊して逃した召し使いのような風情で追った。一刻も早く御主人の前に跪かなければ、大きな罰則でも待っていそうな感じだった。
間もなくして、再び父親と母親の声が聞こえてきた。それは書斎の方からだった。
えるは急いで書斎に向かった。
バタンと大きな音と立てて書斎の扉を開けた。
父親は仕事用の机に座っていた。ノート型のPCを開き、画面を目で追っている。母親は父親の後ろにある小さな腰かけに座り、にこにこ微笑んでいた。
「あら、えるちゃん、降りてきたの。随分と静かにしてたからお勉強でもしてるのかと思ってたけど、、、」
えるは母親の言葉には答えず、じっと父親の事を見つめていた。
父親の方も娘のえるが現れたと言うのにPCの画面から目を離す事は無かった。
「何です、えるちゃん。お父さんが帰ってきたのに何の挨拶も無いのかしら。」
「お帰りなさい。」
母親の催促に対し、えるは小さな声でそう言った。
「予定より早く帰れたのね。」
「ああ。」
えるの質問に父親は短くそう答えた。相変わらず目はPCの画面へ向けられていた。
「何でも道路がすごく空いてたみたいよ。」代わりに母親が補足を入れた。「夕食の時間前に帰れて良かったわ。久しぶりに一緒に夕食を頂きましょう。、、、さてと、夕食の支度の続きをしなくっちゃ。えるちゃんも手伝ってくれる?」
母親はゆっくりと立ち上がると部屋から出ていった。
「はーい。」
えるは素っ気無い声でそう答えたものの、母親に続いて部屋を出る気は無かった。母親の姿が台所へ消えるまでその姿を追っていたが、やがてふうっと1つため息をつき、先程まで母親が腰を下ろしていた腰かけに腰を下ろした。
父親は、そんなえるの動作にも構う事無しにPCの画面を見つめていた。
「どうかね、最近は。特におかしな事が起こっている様子は無いかな?」
父親は何の気の無い様子でそう訊ねた。
「うん、別に。、、、特にあれ以来は何も無い、、、。平々凡々な毎日よ。」
そう言いながら、えるはりょうとの今日の出来事が気になっていた。どう考えても今日のりょうはおかしかった。今までのりょうとはどことなく違和感が感じられた。それがあの出来事による影響なのかどうかはえるには判断できない。しかし、その事を今は父親に話す気にはなれなかった。それはえるの直感的な抑制であり、自分自身が整理出来ていない事での不安からでもあった。
「そうか、、、そうかな、、、?」
父親は意味ありげな言葉を返した。
「何かしら?その言い方って。私が何か隠し事してるとか?」
えるは少しむきになって聞き返した。
「いや、別にそう言う訳じゃ無いんだ。」少し笑いをこぼしながら父親は弁解した。「あの出来事が始まった以上その後何も無かったなんて言うのがちょっと信じられなくてね、、、恐らく間もないうちに困った出来事が続発するはずだ。えるにもお父さんにも、そしてみずきにも、、、。もしえるがそれを感じていないのだったら、それは嵐の前の静けさってとこだろうな。もうじきここは嵐の真只中に入る。でも心配は要らないさ。そのためにお父さんは日本に帰ってきたんだから。この問題を解決し、えるやみずきを守るためにね、、、」
「問題って何なの。」
「今に分かるさ、、、、やれやれみずきの方は既に問題に直面している様だな。新しいガールフレンドと共に問題を背負い込んでいる。明日にでもその問題を解決するためにうちへ帰ってきそうだな、、、」
父親は意味不明な事を呟き始めた。
「お父さん、さっきから何を真剣に見てるの。」
父親の様子が気になったえるは腰かけから立ち上がり、父親の肩ごしにPCの画面を覗き込んだ。父親は特に隠す様子も無く、えるが覗き込むままにじっとしていた。
画面には日付と時刻、それに合わすような記録が短いコメントで綴られていた。それが数分毎に更新され画面に映し出されている文字を下から上に押し上げていた。
「何なの、これ?」
えるはマウスで流れていく文字列を逆に引き戻し、目に停まるコメントを拾い、読んでいった。読み進むうちに、それはみずきのここ数日間の記録であるように思われてきた。
「何?これ、お兄ちゃんの事がたくさん書いてある。しかも分単位で細かく、、、。」
「これは、みずきのここ数日間の記録さ。」
「記録って、、、いったいどうやってこんな物取ってるの?一体誰が?」
「それは企業秘密さ。」
父親は意地悪く笑うと、画像の文字を最新の所まで戻した。そして、マウスで文字を指しながらみずきの近況を語り始めた。
「ほら、見てごらん。みずきのやつ、相当苦労している様だな。どうやらこの側にいる女の子がトラブルの元になっているらしい、、、どうして知り合ったのか気になる所だが、まあ恐らくみずきの災いの余波を彼女がもろに受けたって事だろうけどな、、、」
えるは黙って父親の指す文字を追っていた。
「明日、みずきとその女の子は我が家にやって来る。迎えてあげようじゃないか。ふふふ、どんな女の子か楽しみだな。そしてみずきとどういうきっかけで知り合うようになったのか、これは必ず聞かねばならない。本当なら危ないからみずきに近寄らないようにって言ってやる所だが、どうやら遅すぎたようだしな。そしてもう1つ。ここに来る目的の意味、、、この記録では、ある人間について訊ねようとしている。その人間の名は、、、」
父親は、みずきが訊ねようとしている人間の名を求めてマウスを強く動かした。
「りょう、、、」
その文字を目にしたとたん、えるの背筋に恐ろしく冷たい電流が走った。
「りょう?りょう何だ?」
父親が必死に確認しようと操作しているにもかかわらず、突然画面は固まったまま動かなくなった。
「どうしたと言うんだ。」
父親は慌ててあちこちのボタンを押しまくったが、努力の甲斐なく、やがて電源が落ちて画面は真っ暗になってしまった。
「やれやれ。どうやらバッテリーが切れた様だな、、、」父親は姑くの間、PCのあちこちを覗き込んで調査していたが、やがて諦めて画面のふたを閉じた。「まあいいさ。明日になれば分かる。さあ、お母さんの所へ行って、御飯を食べよう。」
父親はそういうと立ち上がった。
「お、お父さん。」
えるは慌てて立ち去ろうとする父親を呼び止めた。
「ん?何かな?」
父親は意外な様子でえるの顔を覗き込んだ。
「あの、、、お兄ちゃんの事をあんな風に調べるなんて良くないわ。」
「ああ、お父さんもそう思うよ、でも今回は仕方ないんだ、緊急事態だからね。」
えるには緊急事態の意味が良く分からなかった。父親はただ大変だと言うだけで、何が大変なのかをえるに語った事は無かった。訊ねても、うまくはぐらかされてしまう。
「あの、、、お兄ちゃんの事をあんな風に調べられると言う事は、私の事も。」
「調べられるよ。」
父親は躊躇失く答えた。
えるは息を飲み込んだ。知らず知らずのうちにえるは怯えていた。
「ははは、大丈夫だよ。必要が無ければ、そういうことはしないから、、、」
父親は笑いながらそう言うと、部屋から出ていってしまった。
えるは部屋に取り残され、じっと立ち続けた。父親は冗談半分に言っているようだったが、えるには半ば脅迫に聞こえていた。
***
えると父親が書斎で話している頃。
母親が台所に戻ると、台所にある戸口に一人の中年の男が立っていた。
男はエプロンを掛け、両腕に大きな花束を抱えていた。顔にはにたにたと品の無い笑顔を浮かべている。
「あら、どなた?」
「花屋です。」
「花屋?注文はしてないけど、」
「御主人の会社の方からです。恐らく帰国祝いでしょう。」
「まあ、そうなの。随分と用意が良いわね。わざわざありがとう。」
母親はうれしそうに大きな花束を受け取ると、近くのテーブルの上に大事そうに置いた。
「うちの人にそんな気を使ってくれるなんて、思っても見なかったわ。」
「人望が熱いんでしょう。」
母親と花屋は穏やかな笑いを交わしあった。
「ああ、それから、これを。」花屋はエプロンのポケットから小さな木箱を取り出した。「これは私からなんですが、奥さんにプレゼントしますよ。」
「あら、かわいらしいわね。何かしら。」
母親は受け取ると、嬉しそうに箱の周りを見回した。箱の周りにはきれいな彫り物が施されていた。
「それはパンドラの箱と言いましてね。ぜひ中を御覧なってください。その箱がもっと素敵に思えてきますよ。」
母親は花屋にそそのかされ、促されるままに箱のふたを開いた。
きいという軋むような音を立てて開かれた箱の中には何も無かった。しかし母親は箱のふたの裏に輝きを放つきれいな鏡が取り付けられていることに気がついた。
母親はその鏡の輝きに惹かれ、中を覗き込んだ。
「やあ。」
母親はびっくりして顔を箱から引いた。
てっきり映し出されると思っていた自分の顔はそこには無く、代わりに見た事も無い男の顔が映し出され、自分に呼び掛けてきたのだ。
母親の驚く様子を花屋はにこにこしながら見つめている。
「これ、、、」
母親はそれ以上言葉を続けようとする前に、母親の姿は消滅してしまった。
消えてしまった母親の手から解放された木箱はゆっくりと落下し、小さな音を立てて床に転がった。
花屋はそれを拾い上げると、エプロンのポケットに入れ、そっとその家を離れた。
母親が火をかけたままのやかんが、しゅうしゅうと沸騰し始めてきた。