第14話  囚われの部屋(その2)

 

(みずきよ、起きるのだ)

 しわがれた声がみずきの脳に大きく響いた。その声はみずきがここへ到る途中で道に倒れた時に聞いた声に違いなかった。声は失い行くみずきの意識を覚まさせるかのように頭の中で響いた。そしてみずきに立ち上がる事を命じていた。

(お前は間違った認識をしている。立ち上がって、良く確かめるのだ)

(もう僕は動く力は残っていないんだ)

 みずきは響き渡る脳の刺激を抑えようと却って意識を閉じようとした。しかし声は更に大きくなって行った。

(起きるのだ。お前は間違っている)

 脳みそを金槌で殴られているような衝撃だった。とてもこのまま意識を失って行くどころの問題では無くなった。

(止めてくれ)

 みずきは堪えきれずに目を開けた。

***

 目の前に一人の老人が空中に浮かんでいた。老人は非常に痩せこけ、骨と皮しかないような体つきだった。しかし顔つきはしっかりとしていて目はらんらんと輝いていた。顔にヒゲを蓄え、上半身は裸、下半身も布を巻いただけのその姿はインドの修行者を思わせた。老人はあぐらをかいた状態で空中を漂い、厳しい目つきでみずきの事を見下ろしていた。

 やがて老人は唱うようにみずきに語りかけ始めた。

これは悪夢だ

悪夢に支配されてはならない

悪夢によってお前は苦しまされているが

苦しませているものは

誰もいない

全てはお前自身にあり

悪夢はお前自身の投影に過ぎない

お前は自分の影におびえ苦しんでいるのだ

お前は影の存在を隠してはならない

影は日のある所に

必ず存在する

影を闇に埋めてはいけない

影を遠ざけてはいけない

影を闇に埋める事は

お前自身を闇に置く事になるのだから

闇に置かれたお前は

やがて闇に覆われ

支配される

お前は

老いと死と病と欲望と憎悪と嫉妬と

その中に生きている

お前は

老いと死と病と欲望と憎悪と嫉妬なのだ

それを隠してはいけない

苦しみはそこにある

***

 

 みずきはいつのまにか立ち上がっていた。身体の傷は全て消え、痛みも全くなかった。

(これはいったいどういうことなんだろう)

 みずきは自分の身体のあちことを見回しながら、心の中で叫んでいた。

(、、、、)

 老人はみずきの驚きを目の当たりにしながらも、黙って空中に浮かんでいた。

 落ち着きを取り戻したところで、みずきは前を見た。正面にはもう一人のみずきが立っていた。そして間を取り持つように老人が浮いていた。

 みずきはみずきと同じ位の位置にある老人の顔を見た。老人はみずきの顔を見る事無く、言葉を発した。

(前にいるのはもう一人のみずきだ。みずきよ、もう一人のみずきを受け入れるが良い。ここまで来れたお前の事だ。お前は受け入れられるだろう。ここはお前の世界だ。お前の心の中だ。全てはお前しかいないのだ。)

 老人がどちらに対して語っているのか、全く分からなかった。老人の語りかけている事は、みずきにとって何一つとして理解できるものはなかった。いったいなぜこの老人が現れ、みずきに何をさせようとしているのか、みずきには分からなかった。しかし老人はみずきの心に語り続けた。

(あなたは誰なんです)

 これ以上老人に話を進めさせぬよう、みずきは老人に向かって訊ねた。

(ブラフマン)

 老人はやはりみずきの方を見ることなく、そう呟いた。みずきはそれが自分の質問に対する回答なのかどうか自信がなかったが、老人の名前として受け取った。

(ブラフマン、教えて欲しい。僕はあなたが何を言っているのか全く分からない。ここがどうゆう所なのかも理解できていない。あなたが僕に何をさせたいのかも分からない。なのにあなたは僕に受け入れよと言い続ける。あなたが何者で、ここがどこで、あなたは僕に何をさせたいのか、、、もっと詳しく教えて欲しい)

(、、、、)

 みずきの質問にブラフマンは何も答えなかった。正面のみずきはみずきの事をじっと見つめたまま、黙って立っている。こちらの様子をうかがい、観察しているようにもみえる。

 みずきはブラフマンの答えを待ちつづけた。やがてブラフマンは語り始めた。

(言ったろう、、、ここはお前の世界だ。お前以外の者は誰もいない。わたしはお前だ。お前はわたしに求めるものは何も無い。言葉で悟るな。ただ受け入れれば良いのだ。お前は既にこの世界にいる。つまりお前は既にこの世界を理解し、ここにいる意味を分っているのだ。ただ受け入れていないだけなのだ)

 ブラフマンの言葉はひとつひとつ脳から全身へ電流のように足下へ流れていった。そして少しずつ、みずきの身体はブラフマンの言葉を受け入れ出していった。これ以上ブラフマンに言う言葉も無かった。

(さあ、受け入れるのだ)

 ブラフマンの促しに対し、みずきは心の衝動に流されるまま目を閉じた。相手のみずきも同様な事をしていた。

 不思議な事に目をつぶっていると妙に落ち着いた気分になっていった。少し前に離れてしまっていたような心が少しずつ元に戻って行くような気がしていた。身体に暖かみが戻ってきた。

「お兄ちゃん。」

 妹の声がした。びっくりしたみずきはあわてて目を開けた。

「える。」

 妹のえるはそこにいた。えるは全くの無傷の状態でベッドの上に座ってみずきの事を見つめていた。

「いったいどうなってるんだ?」

 みずきは辺りを見回しながらそう言った。そこはみずきがここに入って初めて訪れた部屋だった。四方コンクリートの壁に囲まれ中央にベッドが1つ。そしてそのベッドの上には今度は妹のえるがしっかりと座っていた。一見する限りえるは全く元気の状態だった。先程の惨状がまだ記憶に残るみずきとしては、えるの元気さが却って動揺を誘う材料になっていた。奥の方も注意深く様子を見たが、細長い扉は見当たらなかった。

(あの老人が言う通り、さっきのは悪夢だったのか、、、)

 みずきの中にほっとする思いが広がった。

「お兄ちゃん、そこの壁から出て来たのよ。助けに来てくれたの?」

「そうだ。」

 自信は無かったが、えるの問いにみずきはそう答えた。みずきには未だに全く現状が分っていなかった。

 再びブラフマンの声が聞こえてきた。ブラフマンは二人の位置より数メートル高い位置で浮かんでいた。

(お前達は帰れる)

 ブラフマンは二人を見下ろしながらそう語った。ブラフマンの身体は蛍光色の何かを塗ったかのように闇の中で輝いていた。そしてその周りを黄色い魚がブラフマンと戯れるように泳いでいた。

(あの魚、、、ネロが欲しがってたやつだ)

 みずきはブラフマンを見上げ、その魚を発見するとすぐにそう思った。

「誰?あの人。」

 えるが上空を見上げ、不思議そうに訊ねた。

「分からない、、、多分味方だよ。」みずきはつぶやくようにそう言った。「それより、とにかく早く帰ろう。」

 みずきはえるにそう言ったものの、帰る術が分っていなかった。

 突然壁を叩く音がした。みずきとえるはびっくりしてそちらの方を見た。その壁はみずきがこの部屋に到るために抜けてきた壁だった。

「開けろ。開けるんだ。」

 続いて広場にネロといた老人の怒号が響いてきた。力いっぱい壁を叩いているようだった。

 みずきは動揺しながら、空中に浮かぶブラフマンの事を見上げた。ブラフマンの姿は心なしか霞み始めているようだった。

 続いて反対側の壁からさやかの叫び声がした。さやかの声は数回に渡り響き、初めは大きく最後は消え入るように聞こえた。今にも息絶えそうな雰囲気だった。

 みずきの心臓は高鳴った。さやかの命が危ない。このまま放っておくことはみずきにはとても出来なかった。

 一方で前後の壁に亀裂が入り、冷たい空気と腐ったような悪臭が漏れ出してきた。自分達の身の安全すら危うくなってきている。

「お兄ちゃん。」

 不安そうにえるが叫んだ。

 みずきは前後のの壁を交互に見ながらうろたえた。みずきがうろたえればうろたえる程、壁の亀裂は大きくなっていった。亀裂はパラパラと破片を下に落としながら四方へ蜘蛛の巣のように筋を広げていった。

(お前達は帰るのだ)

 一括するようにブラフマンからの声がみずきの頭に響いた。余りの大きさにみずきは思わず頭を抑えた。

「ブラフマン。余計な事をするな。」

 壁の向こうから再び怒号が聞こえる。

(しかし、、、、さやかが危ない。助けなくては。助けないで二人で帰っても良いのか?)

(、、、、)

 みずきは空中のブラフマンに問い掛けるように念じた。しかし何も返答はなかった。

(帰るのだ)

 再び頭が割れるような響き。それだけでみずきは気を失いそうだった。

「みぃずぅきぃ、、、」

 恐ろしい声と共に壁が崩れた。ネロといた老人は先程とうってかわった恐ろしい表情で壁の穴からみずきの事を見つめていた。目は赤く輝き、口は引き裂けんばかりに大きく広がっている。必死にその細い手で壁を壊しながらみずき達のいる部屋へ侵入を試みようとしていた。

 背後ではさやかの泣き叫ぶ声が再び響き、続いてあの銀髪の男の笑い声が。

 みずきの頭は真っ白になり、判断能力を失いつつあった。

 ブラフマンの姿は消えた。

 再び激しい頭痛と意識を失いそうになるような光が目の前に放たれた。ブラフマンのメッセージは言葉を越えていた。

「える。」みずきは弾かれたようにえるの方を振り向いた。「帰るんだ」

 みずきはそう言うと、えるの方へ手をのばした。えるはみずきのその手を掴んだ。

 みずきがえるの手の感触を感じたとたん、みずきは気を失った。

「お兄ちゃん。」

 再びえるに呼ばれてみずきは我に帰った。

 みずきはダイニングの椅子に座り、頬杖をついてぼっとしていた。びっくりして前を見ると、母親とえるが不思議そうな顔でみずきのことを見つめていた。

「どうしたの?考え事なんてしちゃって?」

「いや、その、、、、これは、、、、?」

 みずきはまだ状況が理解できていなかった。目の前には食事の支度が整えられている。

「食事、、、してたんだっけ?」

「そうよ。大丈夫?」

 えるは覗き込むような感じでみずきの顔を見た。みずきは姿勢を正しながら、えるの方を見返した。

「大丈夫だよ。何でも無いよ。」

 みずきは素っ気無く言い返すと、食事を取り始めた。

「食事中にぼっとしてるのって変だよ。」

「そうよ、ちゃんと食べなさい。」

 えるの言葉に母親も同調して言い足した。みずきは何も答えず、食事を取り続けた。

 やがて母親とえるはみずきから関心を放し、二人で世話話しをしながら食事を続けた。みずきはそれには加わらず1人で黙々と食べ続けた。

(いったい今までの事はどこまでが本当なのだろう、、、それとも全て自分の妄想なのか)

 みずきは食べながら考え続けた。えるの顔をちらちらと見る限り、明るい表情で母親と話をしている。地下の部屋に閉じ込められ、恐ろしい思いをしたという記憶を共有しているようには見えなかった。訊いてみたいという気もあったが、それは突拍子も無い質問であることも自覚していた。もしも全くえるの知らない話だったらと考えると、みずきはためらった。

 食事を終えて、暫く居間でのんびりした後、みずきは自分のアパートに帰る支度をした。

 状況を整理する限り、実家の事が心配になってここに来た事は確かなようだった。その後何ごとも無く3人で夕食をとっていた時、長々とした妄想に入って行った事に、、、

 「玄関まで送るよ。」

 母親からお土産に持たされた袋を下げて、えるは玄関までついてきた。母親は台所で片つけをしているようだった。

「じゃあ、母さんよろしくな。」

「うん。」

 袋を渡しながらえるはうなずいた。

「じゃあ、また。」 

 そう言って、みずきが玄関を出ようとすると、えるが呼び止めた。

「ん?何?」

 みずきが振り向くと、えるは後ろ手にした形でみずきのことを見つめていた。目はいくらか真剣なまなざしに見えた。そして少し話しずらそうに口を開いた。

「私達、、、あの部屋からよく出られたね。」

 みずきの背筋に電流が走った。

「ええっ。それって、、、」

 みずきが何かを言おうとすると、えるはにこりと笑い「じゃあ。」と自分の部屋に駆け上がってしまった。 

 

第1部 完

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