第14話 囚われの部屋(その1)
部屋の中は真っ暗だった。
音も全くしなかった。
部屋の広さも状況も感じる事が出来ない。足下はしっかりしているようには思えるが、平衡感覚や方向感覚が全く機能せず、何となくふらふらしているような気がしていた。
みずきはどちらへ向かって進めば良いのか分からず暫くじっとしていたが、それによって解決策が見い出されるわけもなく、勘を頼りに歩き出した。いつ何にぶつかるか分からない状況では緊張感は絶える事無く続き、足下は酔っ払いのように覚束なかった。手や足を前に出し、辺りを探るようにしていたが、一向に何かに当たる気配はなかった。まだそれほど歩いていないうちから、物凄く長く歩いているような錯覚が起きていた。
視覚も聴覚も機能しない世界では、ありとあらゆる事が信用できないという心理にさらされる。仮に方向が狂っていて同じ所をぐるぐると回っていたとしても全く気が付く術がない。一旦元の道へ戻ろうにも元に戻れるという保障はどこにもない。元がどこにあるのか全く分からないのだ。不安と恐怖の中でただひたすら歩き、何か手がかりになるようなものにぶつかるのを待つしかない。
暫く歩いているうちに、急に身体に、というか意識にぎこちなさを感じ、みずきは立ち止まった。歩きながら無意識のうちに色々な事を考えているのだが、知らないうちにそれが他人の考え事のように思えたり、他人から心境を聞かされているような気分になってきていた。あるいはこうして歩いているのが第三者で、自分は全く違う次元で傍観しているような気分になっていた。
(おかしいな。どうなってるんだ?)
みずきは気持ちを落ち着かせる事に集中させようとしたが、そうはならなかった。あいかわらず意識のぎこちなさは続き、やがてそれはそれで落ち着いてしまった。まるでそれは隣にみずきの事を非常に良く理解できる誰かがいるかのような気分だった。
(まあいいか)
みずきは気持ちの整理がつかぬまま、しびれを切らして再び歩き出した。
目が慣れてきたのか、それとも部屋に薄明かりが差され始めたのか、とにかく部屋の様子がうっすらと確認できるようになった。
そこは5、6人が入って話ができる程度のさほど大きくない部屋だった。
急にひんやりと肌寒さを感じ、コンクリートの匂いがした。おやっと思い、みずきが一歩後退しようとすると、冷たく固い壁にぶつかった。びっくりして振り向くとそこはコンクリートの壁だった。いつの間にか今まで歩いてきた所がコンクリートの壁に変わってしまっていた。まるでみずきが壁の中をすり抜けてきたかのようだった。
胸の辺りの壁に手を置き、ぐいと押してみたがびくともしない。
(まるで壁ぬけの術だな)
みずきは思った。もう一度振り返って部屋の中を見回した。部屋の中には中央に大きなベッドがある事を除いては何も無かった。この部屋の様子は前に一度見た事が合った。しかし、いったいどこで見たのかは思い出せないでいた。
それに前に見た時の光景と比較して足りないものがあった。それは妹のえるだった。今は妹のえるがいない。前に見た時には、この部屋の中央にあるベッドに座って、えるは助けを求めていた。
(いったいこの記憶は何なんだろう)
既視感というものだろうか、とみずきは思った。
みずきはゆっくりとベッドの方へ歩み寄り、その端に腰を下ろした。ぎぎっとスプリングの音がした。見た目よりも固めのベッドだった。
みずきは、撫でるようにしてベッドのシーツに手のひらを走らせてみた。
(暖かい)
何回か確かめてみたが、間違い無かった。
(間違い無くこの部屋の、そしてこのベッドに、そう時間が経っていない前に、誰かがいた)
その誰かが妹のえるに違いないとみずきは確信していた。
みずきは慌てるように部屋の中を隅々まで注意深く見回した。みずきはえるがこの部屋からどこかへ連れ去られたと判断していた。
中は薄暗く、注意深く見回すのにはかなり目を凝らさなければならなかった。しかしそうして探した結果、奥の方に細長い扉があるのを発見した。普通ではあまり目にする事のないようなとてつもなく細い扉だった。ちょっと見た限りでは壁の飾りや棚のようにも取れるようなものだった。
(あそこに違いない)
みずきはベッドの上を土足のまま上って反対側に降り、そのまま細長い扉の元へ走りよって行った。
気持ち強めに扉を押すと向こう側へ扉は動いた。カギはかかっていなかった。
みずきは勢い良く扉を開けた。
ぷーんと硫黄の匂いがした。そしてごおおっという激しい音。
みずきは恐る恐る部屋の中を覗き込んだ。部屋は、今いる部屋よりもはるかに明るかった。そして広かった。講演会や披露宴ぐらい出来そうな広さだった。天井には豪華なシャンデリアが下がり、部屋の四隅にスタンドが立ち、そこの上で炎が踊っている。ごおおっという音の主はこれのようだった。
部屋の中央には男が一人立っていた。白いシャツにグレイのスラックスを着た中年の男。髪は銀髪でその下の顔は痩せこけていた。目だけがぎらぎらと大きく輝いて、こちらを見つめている。身体も同様に恐ろしいくらい痩せこけていたが、背は2メートルはあろうかというほどの長身だった。まるで蛇か蜥蜴が2足立ちでいるかのようだった。
みずきは細長い扉に身体を擦らせながら隣の部屋に移った。銀髪の男がどう思うかとか攻撃してくるかとか考えている余裕はみずきにはなかった。
何とか扉をすり抜けると、みずきは銀髪の男の元へゆっくりと歩いて行った。男はにやにやと笑みを浮かべてみずきが近寄ってくるのを待ち構えていた。口元はだらしなく開き、白い歯をみせてにやけている男の顔は正気の物ではなかった。
ふと気が付くと、自分以外のもう1つの足音が背後から聞こえてくる。反応してみずきは振り返った。しかしそれは影のようにぼやけた存在であり、正体を確認する事は出来なかった。
みずきがぼやけた存在に躊躇して立ち止まっていると、それはするりとみずきのことを追い越して行き、銀髪の男の前で立ち止まった。銀髪の男が大きく腕を広げて迎え入れると、ぼやけた存在は再び前に進み、銀髪の男の中に消えた。銀髪の男はそれを受け入れ終わると、うおおっと狼のような声を上げて喜んだ。まるで何か力強いエネルギーを吸収したがごとく声に力がみなぎっていた。
男の顔は炎に照らされて赤くなっていた。白いシャツも炎に照らされて赤く染まっている。
みずきが再び歩き出し、銀髪の男の前で立ち止った。銀髪の男の真正面に立ち、戦いを挑むように目を向けた。
「何だ?お前は。」
「あおいみずきというものです。ここに妹を探しに来た。あなたは、、」
「フレディ、、、HA、お前の妹なんぞ知らんな。」
男はぐおぐおっと低い声を上げ、肩を上下に動かしながら呼吸をしていた。息は荒く、白かった。シャツや顔に付着しているものがはっきりと見え、鉄分のような匂いを感じた。
みずきは男の顔が赤いのは炎のせいではなく、見間違いである事がはっきりした。
赤い?炎?
(血?)
(血だ!)
みずきは凍りついた。部屋にある炎の暖かみなど全く感じられなくなった。
銀髪の男のシャツやスラックスは血だらけだった。男の右手には小さなナイフが握られており、そこからも血が滴り落ちていた。床に引かれた赤い絨毯は、色が同じため確認がしにくいが恐らくおびただしい量の血を吸っているに違いなかった。そしてこの惨劇の犠牲者は男の足下に無造作に転がっていた。
みずきはあまりにも銀髪の男に気を向ける余り、そして余りにも無造作に(まるで荷物か何かが放り出されているように)置かれているために、その存在に気が付かなかった。
みずきは余りの出来事に身動きが出来なかった。身動きどころか、思考回路や感情すら止まってしまい、ただ呆然とこの惨状をマネキン人形のように立って見つめているだけだった。
犠牲者は二人いた。一人は妹のえるであり、既に息絶えていた。苦しんでいる表情ではなく、眠るような顔つきだったが、腹部の辺りを複数回ナイフで刺されたらしく血だらけな上、服も乱雑に切り裂かれていた。顔や手も同様に真っ赤に染まっていたが、その肌は真っ白い紙のようだった。
もう一人は何とさやかだった。彼女も腹部を血だらけにして倒れていた。虫の息ではあるがまだ生きているようだった。目はほとんど焦点が定まらず空中を掻くようにして助けを求めていた。
「何だ、こいつらの知り合いか?」
フレディは嬉しそうに枯れた声で笑った。
「君は、、、」
さやかの存在に驚き、みずきはさやかに向かって声をかけようとした。その時突然銀髪の男はみずきの肩を掴み、もう1つのナイフを持った手でみずきの腹部を思いっきり刺した。ナイフはみずきの背中へと到達しようかというくらい奥深く突き刺さった。
「うううっ」
みずきは声にならないような声で呻くと力なく跪いた。みずきの腹部はまるで真っ赤に焼けた鉄棒を押し込まれたかのように熱かった。中で破裂した内蔵から大量の血液が軌道を外れて好き勝手な方向に流れて行くのが感じられた。 銀髪の男は勢い良くナイフを抜き、妹のえるの上に倒れるようにみずきを蹴飛ばした。抵抗する力もなくみずきは冷たくなったえるの上に倒れこんだ。
「える。」
力ない声でみずきは、えるに声をかけた。もちろんえるは返事をしない。腹部からどんどんと血が流れ出して行くとともに体温が下がって行くのがものすごくよく分った。
「える。」
みずきは繰り返した。言葉はそれしか思い浮かばなかった。
銀髪の男はみずきにとどめを刺すことはしなかった。ひどく嫌らしい顔でへらへらと笑いながらみずきの事を覗き込んだ。
「思わぬ客人だったな。どうだ、死の苦しみは?HAHAHA心配するな、お前の魂は俺が闇に 解放してやる。この二人といっしょにな。」
そして銀髪の男は、まもなくみずきが息絶えるであろうことを確認すると、さやかの両足を掴みずるずると引きずってみずきの視界から消えて行った。さやかは相変わらず意味なく両手で空中を掻いていた。みずきにはさやかを助ける力はもう残っていなかった。
みずきの身体は氷のように冷たくなってきていた。
(もうすぐ死ぬのか)
みずきは死を覚悟した。普段死について考える時、恐怖と不安に悩まされてきたが、不思議な事に今はまるで恐れるものはなかった。恐らく眠りにつくのと変わらないように死んで行くのだろう。
ふと気が付くとみずきの足下に一人の男が立っていた。よく見ると、それはみずき自身だった。もう一人のみずきが自分の足下の所に立って冷ややかな目でみずきの事を見下ろしていた。
こうしていると、冷ややかに見下ろしているみずきがまるで本体で、今にも死に行くみずきが影のように思えてくる。もし影が意識を持っているとしたら本体の事がこんなふうに見えるのかと、みずきはどうでもよい事を考えていた。しかしみずきはその考えに妙に惹かれるものがあった。
しかしそれもまもなく出来なくなってきた。意識が薄れてきた。
(終わりだ)
みずきは目を閉じた。