第12話 深層の森
エレベーターはかれこれ30分近くも下がり続けていた。別にエレベーターが故障しているわけでは無く、静かに機械が動く音は絶え間無く聞こえ、下がり続ける振動も体感していた。通常のエレベーターで感覚的に見積もるならとうに地下50、60階は到達しているだろう。しかしエレベーターが表示できる階はB1Fまでしかなく、それに向かって点滅し続けている事には変わりなかった。皮肉に考えるなら、よっぽど1階と地下1階との間には大きな床が存在するということになる。
みずきは不安が沸き上がる中で何度となく違う階のボタンや非常停止ボタンを押してみたが全く作動しなかった。緊急時の受話器を取りだそうとしたが、それを塞いでいるプレートは素手では全く動きそうも無い。エレベーター内の明かりがついている事は唯一の救いであり、これで真っ暗にでもなったら恐らくパニックに陥っていただろう。
みずきは以前見た映画で死に神に魂を売った男がエレベーターに乗ったまま地獄へ落ちていく話があるのを思い出した。絶望的な表情でいつまでもエレベーターで降り続けていく男の事を思い出すと背筋がぞくぞくし、泣きたい気持ちになった。
心細い状態が暫く続いた。
そして実際にエレベーターが止まったのは更に4、5分経過した後だった。立ったままでいる状態でいるのが若干辛くなり、少ししゃがみ加減でどうしたものかと思案している時に突然エレベーターは止り、扉は開いた。久々に外の様子がみずきの前に現れた。ただここまで来ると停止した喜びよりよく止まったという驚きの方が強かった。そして今までのエレベーター内での思いは、早く外に出たいという気持ちとこのまますぐに1階のボタンを押し1階へ戻りたいという気持ちをみずきの中に入り乱させた。
結果として、みずきは外へ出る方を選択した。これからまたすぐに30分以上もエレベーターの中で過ごす気分にはどうしてもなれなかったからだ。妹への気持ちも当然あった。
みずきは恐る恐るエレベータの外へ足を踏み出した。エレベーターからすぐ出た所は5メートルぐらいの幅の道だった。地面は凸凹がはげしく、小石がごろごろしていた。道は前後に真直ぐ伸び続け、先は全く見えないほど長かった。辺りは薄暗く数百メートル先は闇に包まれていた。左右は草や木に覆われ、その先はやはり闇に先住域になっていた。ここはまるで森の中にある1本の道という感じである。上はというとまるで天井がどこにあるのかというくらい果てしなく突き抜けていた。所々にこの地を照らす照明の光のようなものが確認されたが、天井は闇に包まれ全く確認できなかった。いずれにしてもこの広さはビルの大きさを遥かに凌ぐものであり、この町の地下を掘り返してもこんなになるかというくらいのものだった。こうなると何となくエレベーターで降り続けた時間も納得できるような気がする。
みずきは耳を澄ませた。あたりは非常に静まりかえっていた。まるでこの世界で生きているのは自分一人じゃ無いかという錯覚をしそうだった。
この広いどこかに妹のえるがいるといわれても、そう簡単には見つけられそうも無い。いったいこの広い世界のどこに妹がいるというのか。みずきはそんな思いにかられながら、一歩一歩ゆっくりとエレベーターから離れていった。
「よーっ、あんた。また会ったな。こんなとこで何してんだ?」
突然みずきを呼ぶ声が背後で聞こえ、びっくりして振り返った。声の主は右側の茂みの中にいた。白くて長い耳をピンと立て、鼻をひくひくさせながら赤く小さな目でこちらを見つめていた。それは以前みずきの実家の押し入れから現れた白いうさぎだった。うさぎはみずきが自分を発見した事を確認すると、ゆっくりと茂みの中から跳ね出てきた。
「HAHA!やっぱりあんたか。あの暗闇の襲来でてっきりやられちまったかと思ったがな。あんたもなかなか運が良いな。普通だったらとっくに闇に取り込まれてるぞ。おれみたいにこの世界に精通してて足が早いんなら別だけどな。それともあんたもこの世界のものだったって事かな?」
白うさぎはうかれたような声でみずきに話し掛け、更に近寄ってきた。
「この世界って、、、」
みずきにはまだ事態が良く飲み込めていなかった。みずきの認識の中ではここは妹のえるが閉じ込められているビルのB1Fのはずだった。しかしこの広さといい、うさぎの出現といい、どうも現状の認識を改めない限りみずきの頭は混乱を増していくばかりの様に思えた。明らかに普通に考えるところのビルのB1Fとは事態は異なっている。
「この世界って、、、何だ?」
白うさぎが不思議な顔つきで訊ね返した。
「この世界って、、、。ここのことだよ。ここはいったいどこなんだ。」
白うさぎの様子を伺うようにしてみずきは訊ねた。
「へっ!。」白うさぎは大きくて長い耳を前後にばたばたと折り畳み、呆れ返るように言葉を吐いた。「ここがいったいどこですかって?馬鹿にしてんのかい?あんた自分でどこに来るのかも知らないでここまで来たのか。」
みずきは白うさぎの顔つきに素直にうんと言えなかった。
「いや、そんな事はない。ぼくはここを「青少年能力開発センター」のB1Fのつもりでここに来ている。」
みずきはむきになって答えた。白うさぎは眉間にしわを寄せ、前歯をむき出しにするという不快な表情を示した。
「青少年能力、、、何だそれは?聞いた事がないな、、、まあいいだろう。その顔を見る限り、あんたがおれを馬鹿にしていないということは信じてやるよ。あんたにはおれにそんな事する理由もないし、何よりそんな事ができる程おつむが良いとも思えないしな。」
みずきも白うさぎの言葉に一瞬むっとしたが堪えた。
「あんた、いったいどうやってここへ来たんだい?」
「どうやってって、、あそこにあるエレベーターで。」
みずきはそういって振り向き、エレベーターのある所を指差した。 しかしそこにはエレベータは無かった。エレベーターはおろかそれを支えるための柱やケーブルなど一切が無かった。まるでこんなところにエレベーターが初めからあるわけが無いというくらいその場所には草木が生い茂っていた。
みずきは愕然とした。これで帰る術を失くしたことになる。
そんなみずきの気持ちを逆撫でするように白うさぎは笑い転げた。
「HAHA!そうかそうか。これであんたがおれの事を馬鹿にしていないという事とあんたのおつむが足らないって事がますます証明された訳だ。」
「嘘じゃ無い。ぼくは確かにエレベーターに乗ってここへ来たんだ。ちょっと前までここにエレベーターがあったんだ。、、、消えてしまったけど。」
みずきは真剣に主張した。白うさぎはみずきの指差す所まで跳ねていき、中を覗き込んだ。
「おれには草木しか見えないけどな、、、」
白うさぎの声はみずきの言っている事を信用している風ではなかった。
みずきは黙って白うさぎを見つめた。現事実としてここにエレベーターが無いのはみずきも認めざるを得ない事であり、これ以上主張しても無駄だと思ったからだ。一方の白うさぎの方もみずきの真剣な表情から、これ以上みずきをからかう気にはなれなかった。
「まあいいさ。あんたは自分で今の状態が良く分って無いらしいから、その話は止めにしようや。」
「教えてくれないか。僕にだってここが単なるビルの地下1階で無い事ぐらい分かる。ここはどこなんだ。」
「ここか、、、?」白うさぎは面倒臭そうに耳の後ろをぽりぽりと前足で掻いた。「ここはうさぎの穴だ。うさぎの穴といってもあんたが思ってるのと違う。兎の穴と呼ばれているところにすぎない。ここはある世界とある世界のあいだに存在している特別な空間だ、、、前にも言ったろ。」
「良く分からないな、、、どうして僕がそんな所にいるのか。僕は確かに、、、」
みずきはエレベーターにと言いそうになってあわてて口を閉じた。しかしその続きを白うさぎの方が引き継いだ。
「エレベーターに乗ってか、、、へっ、そのエレベーターとやらを作った人に聞くんだな。まあ、どうやって来たかはともかく、何しに来たんだよ。」
その質問はみずきにとっては願ったり叶ったりだった。以前この白うさぎと会った時に妹の事を知っているそぶりだった事を思い出した。その時は暗闇の襲来やら何やらで何も聞けずに終わってしまったが、今はそのチャンスが再来した事になる。
「僕は妹を連れ戻しにここまで来たんだ。君は以前に妹の事を知っている風だった。知っているなら、妹がどこにいるのか教えてくれ。」
「妹、、、?ああ、えるっていう女の子の事か?」
白うさぎは関心無さそうにつぶやいた。白うさぎの言葉にみずきは力強くうなずいた。
「あの女の子なら、猫が連れて行って、この先をずっと歩いていった所に閉じ込められているよ。どういった関係か知らないけど、あまり奴等には関わらない方が良いな。おれの感じる所では暗闇の来襲よかやっかいな連中に思えるからな。おれの言う事を聞いた方がいいぞ。」
「この先ってどのくらい先なんだ。」
「関わるなって言ったろ。」
白うさぎは憤慨して鼻をひくひくと動かした。
「教えてくれ!」みずきは怒鳴るように言った。白うさぎもみずきの態度に驚いて両耳をぴたりと閉じた。「僕の妹なんだ。ぼくは妹を連れ戻しに来たんだ。ここまで来て、はい、そうですかって黙って引込む訳には行かないんだ。」
(妹を連れ戻すのは良いけど、どうやって元に帰るつもりなんだ、、、)
白うさぎはそう言ってやりたかったが、みずきの勢いに押されてその言葉を飲み込んだ。
「まあまあ、そう気負うなって。教えてやるさ。教えてやるとも。、、、いいかここを真直ぐに歩いていくんだ。ひたすらどこまでもだ。どのくらいかって?そりゃひたすら歩くぐらいだよ。ひたすら歩いて、もうへとへとになって、これ以上歩けませんて気持ちになったら、そこに一件の小屋が見えるはずだ。妹はそこにいるはずだ。行くなら勝手に行きな。おれは面倒に関わりあうのはご免だ。おれは行かないよ。なあに道は一本しか無いから迷う事はないさ。」
「ありがとう。」
白うさぎが話しおえると、みずきはそう言って歩き出した。白うさぎとこれ以上かかわり合っている余裕はみずきには無かった。
白うさぎは暫くの間みずきのことを見送っていたが、みずきは一度も振り返ることなく歩き去っていった。
白うさぎが言う通り、道は果てしなく続き、行けども行けども目的の小屋は発見する事が出来なかった。左右の景色も進んでいる道と同様に草木が茂っているだけだった。何の変化も無い単調な景色を見ながら歩き続ける事は非常に疲れる事だった。
何十時間も経過した。
時折あの白うさぎに騙されたのではと思う事もあったが、ここまで来た以上もう引き返せなかった。
薄明かりは前へ前へと移動していくみずきを追い掛け、スポットライトのように照らし続けた。大した明るさでは無いのに非常に暑く感じた。
みずきは疲労と暑さで意識が朦朧としていた。そしてついにへとへとに疲れ果てこれ以上に歩けない状態になり、そのまま前のめりに倒れ込んでしまった。起き上がろうとしても体全体のどこにも力が残ってなく、うつぶせになったまま暫くじっとしているしかなかった。
(もう駄目だ)
みずきがそう思っていると、頭上からしわがれた声が聞こえてきた。
(みずきよ。起きるのだ。)
それは耳から聞こえると言うよりも頭に直接入ってくると言う感じだった。
(何だろう)
みずきは不思議に思い耳を澄ませた。いや、余計な考えは捨て、心を澄ませたといったほうが正しいかもしれない。
(起きるのだ。お前は達すべき所に来ている。)
(達している?)
声は消えた。
不思議な事にみずきの身体に疲労感は無くなっていた。
再びみずきを呼ぶ声が聞こえた。しかし今度はしわがれた声では無く、以前になじみのある声だった。
「おや、みずきさんじゃないですか。」
その声は猫のネロの声だった。みずきはその声を聞いて、跳ね上がるように飛び起きた。
「ネロ!」
みずきは思わず叫んだ。ネロはにこやかな表情でみずきのことを見つめていた。
「みずきさん。どうしたんですか?ずいぶんびっくりなさってますねえ。まあ、わたしもこんな所でみずきさんとお会いするとは思いませんでしたよ。」
ネロのことばや表情は穏やかなものがあった。それはみずきがネロと初めてあった時の雰囲気に近かった。その後にネロとは言葉をかわしたり、会ったりしているが、その度ごとに冷たい雰囲気に変わっていっていた。
「僕は妹を連れ戻すためにここまで来たんだ。君が妹をここまで連れて来たんだろ。色々と言いたいこともあるが今は良い。とにかく妹を返してくれ。妹はどこにいるんだ。」
「私が妹さんをですか。そうだったかなあ。」ネロは目を上目遣いにし、思い出すような仕草をした。その姿は純粋に思い出そうとしている姿のようであり、変にとぼけているような感じでは無かった。「申し訳ありませんが、私がここへ連れてきた記憶はないんですよ、、、。でも、妹さんは見ましたよ、。確かに誰かがここへ連れてきているのを。それよりみずきさん、この間の魚は良かったですねえ、よかったらまた連れていってくださいよ。いやあわたしはあれ以来はずっとこの頭の中であの魚の事を想像して暮らしてましたよ。私の頭の中ではね、、、」
「妹はどこにいるんだ。」みずきはネロの話を遮った。「何度でも言う。ぼくは妹を探しに来たんだ。君の弁解や話を聞く余裕は無い。妹に合わせてくれ。」
みずきの真剣な口調にネロはそれ以上自分の話を続ける事はできなかった。
「ええ、いいですとも。妹さんはここの茂みの奥へ行った所に連れていかれたと思いますよ。」
みずきはそれを聞くと何も言わずネロの言う茂みに入っていこうとした。そんなみずきをネロは呼び止めた。
「みずきさん、あなた影がありますね。いいですねえ、影があるなんて。うらやましい、、、私なんか影が無くなってしまったんですよ。」
ネロにそのように言われて、みずきはネロの姿を見た。上空からは二人を照らす照明が灯されていた。確かにネロには影が無かった。次に自分の足下を見た。みずきには黒くしっかりとした影が写っていた。そのことは確かにおかしな事であった。しかし今のみずきにはこのおかしな事が何を意味するのか理解できなかったし、妹を救出する事で頭がいっぱいだったため、それ以上ネロの言う事に関わっている気になれなかった。
みずきは黙って前を向き、茂みの中へ入っていった。
背後でネロがにゃおーんと寂しそうな声で鳴く声が聞こえた。
茂みを分け入ってしばらくすると、草木の生えていない広場に出た。
その中央に大きな切り株があり、そこに一匹の猫がいた。猫はみずきが来るのを待っていたかのように、じっとみずきの事を見つめていた。
みずきは猫の元へ歩いていった。猫はみずきが目の前まで歩いてくる間ずっと目をそらさなかった。体を丸くさせて切り株の上に座り、みずきの一歩一歩近づいてくるのを敏感に見つめていた。
「ネロだろう、、、」
みずきは躊躇することなくそう言った。なぜだか理由は分からないが、みずきは目の前にいる猫がネロであると確信していた。そして振り返り、今来た道の茂みの向こうを見つめた。そこにもやはり今まで話をしていた猫が座っていた。みずきはそれもネロだと確信していた。茂みの向こうのネロはこちらの様子など気にする風でも無く、うとうとと居眠りを始めている。
みずきは再び切り株のネロの方に顔を戻し、話し掛け始めた。
「ネロだろう。僕には分かるんだ。どういうことなんだ、これは。」
みずきの言葉にネロは気を悪くし、ふーっという声を出しながら全身の毛を逆立てた。全ての足を力一杯のばし体を大きくして飛びかかる姿勢をとった。
みずきは臆する事無く、臨戦体勢をとった。体の重心を低く保ち、いつ飛び掛かってきても殴り返せるような構えをして待ち受けた。ネロはみずきの思いもよらぬ対抗姿勢に戸惑いをみせ、うーっと唸ったままその場でじっとしている。
「何か言えよ。」
みずきの言葉にネロはついに言葉を吐いた。それは地の底を徘徊する死人のような低く冷たい声だった。
「ドッペルゲンガー。」
みずきは背筋に冷たいものがぞくぞくと走った。
突然ネロの目は真っ白になり、怪しい光を放ちはじめた。そしてその光は徐々に大きくなり、目を開けていられないほどになった。
みずきは手で目をかばい、光を直接見ないようにした。光は弧を描くようにして広がり、辺り一面を真っ白にしたかと思うと、すぐにその力は弱まり、何ごとも無かったかのように消えた。
恐る恐るかざしていた手を下し、ネロを見た。驚いた事にネロの座っていた場所には一人の老人が座っており、ネロはその老人の膝の上に座っていた。老人はやせ細った体に薄茶色のスーツを身につけていた。頭髪は銀色に輝き、口ひげをたくわえていた。見るからに優しそうな表情をしており、膝の上のネロを優しく撫でていた。ネロは気持ちよさそうに喉をごろごろと鳴らし、老人に撫でられるがままになっていた。
「君がみずき君かね。」
老人は優しい声で話し掛けてきた。
「え?ええ。」
みずきは突然の事に戸惑った。
「そうかそうか。」老人はうれしそうに頷いた。「よくぞここまで来れた。話には聞いていたが、君は我々の予想以上の存在であった様だな。それとも徐々に成長しているのかな。」
「、、、、」
「ほっほっほっ。まあ答えなくても良い。というよりも答えられぬと言う方が正しいかな。君はまだ自分がどういう存在であるかあまり理解できていないようだしな。まあ、今に分かる。今は分からない方がお互いにとって都合が良いのかもしれん。」
老人はみずきに理解出来ない事をぶつぶつと話し出した。
「そこまでの力があるのに例の魚を得る事が出来ないというのは、わたしには少し理解に苦しむ。持ってきさえすればもっと早く妹に会えたのにな。」
老人の言葉は続いた。みずきには老人の言葉に対してどう答えて良いのか分からなかったが、妹を連れ戻すという目的意識はしっかりしていた。
「僕はここへ妹を連れ戻しに来たんだ。あなたの話なんてどうでも良い。妹はどこにいるんだ。妹に合わせてくれ。」
「はーっは、は、は。」老人は周囲の木々が振動で揺れんばかりの大声で笑った。「これは大した勢いだ。その気力があればこそここまで来れたのかな?」
老人の言葉は半ばみずきをからかっているようだった。しかしその真意は読み取れなかった。
「よかろう。会わせるとしよう。私の後ろに扉が見えよう。そこに君の妹がいる。」
老人は後ろを振り向く事なく、そう言った。みずきは老人の言う通りに背後に注目すると、先程まで何もなかった広場に1つの大きな扉が立て掛けられているのを発見した。
みずきはいぶかし気な顔でその扉を眺めた。扉の周りには何もなかった。建物も何もなく、扉だけが立っているのだ。当然扉の向こうは周囲と同じ広場でしかなかった。
「行って、扉を開けてみるがよい。そこには部屋がある。」
老人は表情のない声でそう言った。
みずきは老人の言う通り、ゆっくりと扉に近づいていった。近くで見るとその扉はより一層大きく感じられた。古びた木で作られ、模様を施されたその様子はどことなく気品も漂わせていた。
扉の中心には真鍮で出来たノブが付けられている。恐る恐るそれを捻り引くと重い扉はぎぎぎと軋む音を立てながらゆっくりと開いていった。
中を覗いてみずきは驚いた。そこには広場とは別の空間が広がっていた。そこは確かに部屋のようになっていたが、部屋と広場の境が手の感覚では良く識別できなかった。
(この中に妹がいる。)
みずきの直感はそう語りかけていた。みずきはゆっくりと中へ入っていこうとした。心臓の音が恐ろしいくらいの大きさで高鳴っているのが良く分った。
「待ちたまえ。」
みずきが部屋に足を一歩踏み入れた時、老人に呼び止められた。みずきはぴたりと足を止め、老人の方を見た。
老人は真剣な表情でみずきに語りかけた。
「ブルーローズの御加護があることを。」
「ブルーローズの御加護があることを。」
老人に続いてネロもそう呟いた。
みずきは返す言葉を見つけられぬまま、再び勇気を出して部屋に入っていった。
背後で狂ったように笑う老人とネロの声が響いていた。