第8話  西から来た諜報部員

   

 みずきは空き地の入り口で立ち止まった。

 いつも通りがかりに見るのとなんら変わりなく、その空き地はそこにあった。

 50、60平方メートル程のその敷地は古びた木の杭と錆び付いた有刺鉄線で囲まれていた。地面は特に鋪装されているわけでもなくでこぼこになっており、所々に形の悪い石が転がっていた。雑草も生えるがままにあちらこちらに茂っている。ぼんやりと歩いていようものなら、足の1つもくじきそうな感じだった。そしてみずきから向かって右奥の所には古いテレビドラマの空き地のシーンに出てきそうなコンクリートの土管とドラム缶が放置されていた。ドラマなら通常子供達がここで遊んでいたりする風景が見られたりするのだが、みずきはここでそれを見かけた事は無い。

 みずきがこの町に住み着いてから数年経つが、ずっとこの風景は変わらない。恐らくそのかなり前から変わっていないであろう。駐車場になるでもなく、マンションになるでもない。この先も何になるのか見当もつかない。恐らく永久にこのままなのでは、という予想が一番素直に受け入れられる。ここの持ち主の存在も不明である。

 この空き地の向い側に木の塀で囲まれた古い屋敷のようなものが見える。そこもこの空き地のように荒れ果てていた。日本式の平屋の建物なのだが、窓ガラスが所々で割れ、屋根瓦が抜け落ちたりしていた。窓から中に若干の家具は見受けられるが、人の住んでいる気配は無い。さながらお化け屋敷のようである。

 あの屋敷の主人がこの土地の所有者で何かの理由でここを離れているのかもと、かつてみずきはそんな事を考えた事があったのを思い出した。

 まあ、いずれにしても今はどうでも良い事である。

 今みずきがここに立っている目的は、ネロに会い、妹の行方を訊ねる事にある。ネロが妹を連れ去っているのなら、返すように話す事にある。

 みずきは、ドラム缶の方へ目をやった。そこにはいつも見かける猫が座っていた。みずきはそれを見て、昨日自分の家に訪ねてきたネロに違いないと思い、そちらへ向かって空き地の中へ一歩足を踏み入れた。

 と、同じタイミングで犬の遠ぼえにも似たウオォーンという吠える声を聞いた。

 みずきはびくりとして足をとめ、声のする方を見た。恐らくこの辺の近所で飼われている犬が吠えたのだろうが、どこにいるのか分からなかった。しばらく耳をすまし声がしたと思われる方を注目していたが、犬の吠える声は一度したきり再び聞こえてこなかった。おそらく臆病な犬が近くを通りがかった人を見て、威嚇のつもりで吠えたのだろうが、すぐに相手が姿を消したのでそれ以上吠えるのを止めたのだろう。

 みずきはふーっとため息をついた。そして知らず知らずのうちに自分が大変緊張している事に気がついた。

 気を取り直して再び歩き出そうとすると、今度は足下にまとわりつくものを感じ、下を見た。下には真っ白い子猫がいて、みずきのことを見上げていた。じっとみずきのことを見上げるその猫はにゃーんと一声鳴いた。みずきはそこへしゃがみ込み、子猫の額をなぜながら更に顔を覗き込んだ。子猫はにゃーんともうひとつ鳴いた。

(腹が減っているのだろうか)

 そう思った。しかし今は食べさせるものは持っていない。

「どうした?」

 みずきは話し掛けてみた。しかし子猫はにゃーんと鳴くばかりで何を望んでいるのか分からない。

(これが普通の猫だ)

 みずきはふと、そう感じた。そして普通でない猫がいることを再認識した。そしてそれが自分を苦しめている事を。 みずきはドラム缶の上の猫のことに気持ちを戻した。見た目も可愛らしいこの白い子猫を放っておくのも多少気掛かりではあったが、今はみずきとしてはあまり子猫の事を構ってやる余裕はなかった。

 みずきはそっと子猫を持ち上げ、自分の進路方向から少し離れたところで放してやった。そして再びドラム缶の上にいる猫のもとへ歩き出した。白い子猫の鳴き声が背中の方から聞こえてくるが、ついてくる様子は無かった。

 一方、ドラム缶の猫はじっとみずきのことを見つめていた。みずきも猫への視線をそらす事なくそのまま近づいていった。猫は全く逃げるそぶりをみせるどころか、まるで人形のようにぴくりともせずそこに座っていた。多少強く吹く風にヒゲだけがゆらゆらと揺れていた。

 みずきはドラム缶の上の猫から1メートル程離れたところで立ち止まり、もう一度その猫がネロである事を確認した。 みずきが見る限り、それはネロに間違いなかった。

 ネロはまばたきする事もなく、みずきの事を見つめている。しかし、言葉は発さなかった。みずきも内心ネロの方から言葉を発するのを期待しながらネロを見つめていた。

 なぜかみずきは自分からネロに話し掛けるのをためらっていた。心のどこかから自分から話し掛けてはいけないという思いが湧き出ていたからだ。しかし、みずきの期待も空しくネロは言葉を発さない。

 沈黙のままのにらみ合いが続き、じりじりと時は経過していった。

(なぜだ。なぜ話し掛けてこない。ネロに間違いないはずなのに、、、例の魚を持ってないからか?それでただの猫を決め込んでいるのか?)

 みずきは少しいらいらしてきた。自然と昨日のあの饒舌なネロの姿が思い出されてくる。思い出せば思い出す程、今のネロの姿はみずきをいらだたせる。ネロは相変わらずじっとみずきを見つめたままの状態だ。

 何かを狙っているのか、みずきの心を測っているのか、ネロの表情からは読み取れない。

 いらだちと共に、みずきの心にネロにこのまま普通の猫の状態で通されてしまったらどうしようという不安が生まれつつあった。それは昨日からみずきの身に起こっている事実への否定を意味し、妹の所在を探す手がかりを失う事を意味する。更に自分の精神状態すらも自信を持てなくなってくる。夢幻の為にこんなに苦労しているのかと。

 唯一の救いは、ネロが逃げ出してしまっていない事だろう。普通の猫ならば、知らない人間がこんなにも見つめていてもじっとしていることも少ないだろう。逃げ出してしまえば、手がかりを失う。

 15分程互いの見つめ合いは続いただろうか。

 とてつもなく長く感じる時間がみずきを苦しめていた。

 ネロの鼻の上にハエが一匹止まり、ネロの顔の上を我が物顔で歩き回っていた。しかしネロはまるで意に介さず、みずきを見つめていた。そして、その姿についにみずきは根負けした。

「どうして黙ってるんだ、何か話せよ。」

 みずきは半ば敗北感をもちながら、震える声でそう話し掛けた。その時のネロの目には一瞬勝利の笑みが浮かべられたように感じた。そして、その敗者のみずきに返す言葉は更なる屈辱を起こさせるものであった。

「にゃーん」

 ネロは一声そう鳴くとぺろぺろと顔を洗い出し、それが終わると居眠りをし始めてしまった。

 みずきは顔から皮を引き剥がされるように血が引いていくのを感じた。目の前にいるのはただの猫以外の何者でも無かった。

 みずきは我を忘れてネロにつかみかかろうとした。ネロの首根っこのあたりをつかみ、揺さぶり、妹の行方を問い詰めようとした。そうでもしなければ、みずきの中の事実認識ががらがらと壊れてしまうような気がした。

 「おい!」

 そう言って一歩足を進めたみずきを見るや、ネロは急に立ち上がりふーっと声を荒げ毛を逆立てた。足の先からは大きな爪を立てている。

 みずきに目に、ネロの足に相応しく無い異様に大きな爪が飛び込んできた。猛禽類のそれにも似た爪は色も毒々しい紫色をしており、みずきの恐怖心を煽るには十分だった。

(飛びつかれる)

 みずきはネロに飛びつかれるイメージに支配された。猫としては大きめのネロが全体重をかけてみずきに飛びつく。あの恐ろしく巨大な爪で容赦なく顔を掻きむしられ、血だらけになり頬骨まであらわれ、最後には両目も爪のえじきになってしまう。みずきは苦しみ、地面を転げ回って苦しむ。容赦の無いネロの攻撃。傷から流れ出る血液が口から鼻から流れ込み、のどを塞いでいく。やがて脳が麻痺し、体温が低下して体が動かなくなっていく、、、そんなイメージがものすごい勢いでみずきの脳裏を駆け巡った。そして恐ろしさからか、それともネロの力か、みずきは金縛りにあったように動けなくなった。

 ネロはみずきを時間をかけて威嚇していた。ちょうど捕らえたねずみを、あるいは昆虫を猫が痛ぶって遊ぶようにネロはみずきの恐怖を楽しんでいた。

 そして、ついに飛びかかった。

 みずきにはネロの飛び掛かる姿がコマ送りの写った。これから起こる恐怖もコマ送りのように進むのかと思うとたまらない気持ちになったが、体は動かない。叫びたい気持ちでいっぱいになったが、声は出ない。

 その時。

 パーンという火薬の破裂する音が聞こえた。

 ネロはみずきに飛びかかるどころかドラム缶から転げるようにして落ちてしまった。猫らしくなく着地に失敗し、顔から落ちたにもかかわらずネロは痛みを感じてる余裕も無く音の主を探し始めた。

 パーンと言う音はみずきのちょうど背後から聞こえた。

 ネロはその姿を確認すると、怒りをあらわにした顔でふぎゃーと一声鳴くと一目散に逃げ出した。

 みずきはネロの逃げる姿を見ると、すっと金縛りがとけた。

 体の力が抜けてふらふらとしていたが、へたり込まないようにして振り向くと一人の男がこちらに走り寄って来ていた。190センチはあろうかという長身の男はダークスーツを身にまとい、右手にまだ火薬の煙りが残る鉄砲を携えながらみずきのもとへと走っていた。頭には鍔の狭い白の帽子を深々とかぶっていたので顔ははっきりしなかった。日本人であることははっきりしないが東洋人であることは間違い無かった。

 男の走りは3段飛び選手のように大股で跳ねるようにしていたため、ほんの数歩でみずきの元へ到着した。男の体からは火薬とは違った香のようなにおいがぷーんと漂っていた。気になるのは男の走り去った後に残像のようなものが静電気のバチバチという音と共に残る事だった。そして一番最初に男が立っていた辺りにもう1つの残像が、、、

(あれは、、、)

 みずきがその姿を確認しようとするのを遮るかのように男は立ちはだかった。目の前に190センチの大男が立つと圧倒され他は全て見えなくなる。男は鉄砲を両手で握り締め温度を確かめると、ポケットにそれをしまった。みずきが見る限り、男の持っていた鉄砲は陸上競技などで使うおもちゃの鉄砲だった。

 みずきは男の顔を見上げた。そして、相手の男の素性を知ろうと話し掛けようとしたが、男はみずきの事などまるで構うそぶりなど見せず、ネロの座っていたドラム缶を数回色々な角度から眺めまわした挙げ句、いきなりドラム缶を蹴飛ばしてひっくり返した。

ドラム缶はがらんという大きな音を立てて倒れ、1メートル程転がった。

「あっ」

 みずきは大声で叫んだ。

 みずきのその声は男のドラム缶を蹴倒した行為に対して発せられたのでは無く、ドラム缶の中のものを見た時の驚きによるものだった。

 そのドラム缶の中には男の死体が入っていた。この暑い中、ほとんど腐敗していない以上まだ死んでから間も無いはずである。死体は両腕で膝を抱え、丸くなるようにしてみずきの足下へ転がり出た。死体はちょうどみずきと同じくらいの青年であった。ブルーのTシャツとジーンズを身に着けていた。体はドラム缶に入っていたせいか泥で汚れていたが、

外傷は見受けられなかった。男は顔は苦しんだ様子も無く、眠っている様であった。

 唯一みずきが気になったのはTシャツの胸の部分に書かれている「We're blue rose partner」という文字だった。それはピンク色で光沢のある素材で書かれていた。

「これはお前の知り合いか?」

 まるでここに死体がある事を予知していたかのように男は転がり出た死体を冷静に受け止め、全く表情を変える事なくみずきにそう訊ねた。男の日本語の話し方はどこかぎこちなく、やはり外国人であるのではと思わせた。みずきは口から言葉が出ず、首をいきおい良く左右にふりまわした。

 男はみずきの事を怪しむ様子も無く、次の質問をした。

「あの猫のことを、お前は知っているのか」

 今度は首を横には振らなかったものの、やはり言葉は出てこなかった。

「まあ良い」

 男は気短かげにそう言い放つとスーツの上着の内ポケットから携帯電話を取り出し、どこかへ電話を始めた。男の持っている携帯電話は緑色の細長い板状の形をしており、日本では見かけない型だった。通話できるようになると、どこの国かわからない言葉で相手と話を始めた。男の話す言語は少なくとも英語では無かった。韓国や中国のことばとも違うような気がしていた。

(いったい何者なんだろう)

 みずきはただぼっと立って、男のする事を見つめていた。

 男はみずきの事などいっさい構わず、一心に電話の男との話に集中していた。初めは大声で一方的に話していて、おそらく現状の報告をしているのだろうというふうに感じさせたが、やがて間隔をおいて話すようになり、声もどなり調子になったことから言い合いになったのだろうと窺えた。

 そのうち上着の内ポケットから細長い手帳と黄金色のペンを取り出し、何の枠もとられていない真っ白な用紙の部分にメモを取り出した。男は携帯電話を片方に持っているために非常に書きにくそうだった。

 みずきはそっと男のメモを覗き込んだ。男の書いている文字は象形文字と記号、みみずのような線がだらだらと書かれていた。

(こんな文字の国は見た事ない。いったいどこの国の人なんだ)

 みずきはいよいよ不思議に思い、男にも分かるような格好でメモを覗きだした。書かれているものを目で追いながらしきりにどこの国の文字か思い出そうと自分の知る限りの記憶を紐解いてみたが、全く思い当たらなかった。唯一近いなと思ったのは、高校生の時に読んだミステリー雑誌に載っていた FBI が保有している宇宙人からのメッセージだった。

 男はみずきに構わずメモを取り続けている。

 話が終わり、男はふんと鼻を鳴らしながら携帯を切り、もとあった内ポケットにしまった。結構大き目の携帯をしまったのにもかかわらず、上着の胸は膨らむ事が無かった。

 男は今まで何ごとも無かったかのようにみずきのほうを向くと、携帯の入っているポケットから今度はカードを取り出しみずきに見せた。それはうす緑色をした名刺のようなものだった。中央に7桁の数字と名前らしきものが書いてある。名前らしきものは漢字だった。

「私はとある西の国からとある目的の為に来た諜報部員である。名は明左月という。君には色々と聞きたい事がある。私といっしょに来て欲しい。」

 男は当然のことのように命令口調でみずきにそう言った。

 みずきはあっけにとられ何も言えなかった。

 

つづく

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