第6話 蛙の湖
気がついた時みずきが最初に感じたのは、柔らかいものへ横たわっている感触と草のにおいだった。
頬にかすかに感じる産毛のような肌触りに、いつまでもこうしていたいという思いと、今いる自分が
どういう状態にあるのかというのが気がかりとの葛藤の上、何とか前者に打ち勝ち、静かに目を開けた。
目の前にみえる緑の縁。円形の絨毯に横たわる自分。ゆっくりと体を起こし辺りを観察すると、それは大
きな蓮の葉であった。みずきは広大な湖の中で浮かぶ蓮の上に乗っている事に気がついた。その蓮は直径が
4、5メートルはあろうかというほどの大きなものであり、みずきを湖上へと十分に支えていた。その湖は
みずきの位置からは湖岸を確認することができないほど大きく、永久にこの水面が続いているような感じがした。
空はどんよりとした雲に覆われ、遠くの方は白い霧が立ち込めカーテンのように周囲からこの場所一帯を
隠しているかのようであった。みずきは辺りを見回すと共に耳を澄ませた。
音は何も聞こえなかった。風の音も。水の流れる音も。何かの動物の鳴く音も。静寂を通りこし、自分が耳が
聞こえなくなったのではないかと錯覚してしまうような感覚だった。
無音。無音もまた外部からの刺激という意味では一つの音として捉えられるかもしれない。人が音が聞こえな
くなった時に感じる不安、孤独感。海の底でたった一人で佇んでいるようなそんな気持ち。そして、蓮の上で
静かに漂う自分。
(人が死んで行くところとは、こんなところなのか)
(僕は死んでしまったのか)
今までの経緯を思い起こしつつ、漠然とみずきはそんなことを考えていた。しかし、悲しみや、後悔、焦りなど
は感じなかった。
無音は心の中に新たな音楽を生み出した。低く唸るような音。仏寺で修行僧が唱える読教のような響き。
彼岸を超えた先の世界で流れる自然音とはこういうものに違いないとみずきは感じていた。
ぼんやりと辺りを眺めているみずきの視界の中にかすかな水の流れが入って来、その流れの源を目で追うとそこ
には一匹の蛙が泳いでいた。それは、痩せ細った小さな雨蛙であった。蛙は音も無く水の中に小さな輪を作りな
がらみずきの方へ向かって泳いでいた。その
姿をじっと見ていると、特にみずきという存在には気づいている風ではないが、やがてみずきの乗っている蓮の元
に到着し、躊躇無くみずきの見ている方へ上りはじめた。喉をひくひくと動かしながら懸命に上ってくるその姿は、
何かを目指して上っていくという目的を持っているかのようだった。そしてその目的は、みずきであるかのように
上り切った蛙は他のどこを見るでもなく、まっすぐにみずきを見つめていた。
(鳴くか)
この世界で聞く初めての音をみずきは期待した。
果たして聞こえてきたのは、鳴き声ではなかった。
「おまえは、ここの世界のものではないな。」
蛙は口を開けたわけでもなく、喉をひくつかせながらみずきを見つめているだけであった。みずきは音声でなく、
心への語りかけとして蛙の意識を感じた。
「おまえは、なぜここにいる。」
「わからない。」みずきも心の中で念ずるように語り返した。「気がついたら、ここにいた。」
「ほう」蛙は、驚くでもなく、怒るでもなく、質問を続けた。「では、どこからきた。」
「たぶん、自分の家からだと思う。」
「家、、、。それは、いったいどこにある。」
「ここがどこで、どういう所かわからないと説明ができない。」
蛙はしばらくの間じっとみずきのことをみつめていたが、やがてゆっくりと話を進めだした。
「どういう説明でも構わない。此所に到る経緯を話してくれぬか。」
みずきは半ば信じてもらえることを期待せず、今まであったこと− ネロのこと、妹の誘拐のこと、金魚のことに
ついて話しはじめた。蛙は疑うでもなく、笑い飛ばすでもなく、真剣にみずきの話を聞き入っていた。
ものの数分の話が終わると蛙は納得したようにうなづいた。そして、湖のほうへ向きを変え、みずきに中を覗き込
むようにうながした。
「おまえがいう魚というのはあれのことか。」
覗き込むと、そこには金魚屋で見つけた例の黄色い金魚がたくさん泳いでいた。
「そうだ。まさしくあれだ。」
みずきの言葉に蛙は納得したようにうなづき、再びみずきの方へ顔を向けた。
「あれは、空動魚という。実体はあるようにみえるが実はない。よく見るがよい。」
蛙のいう通りじっくりと魚を見つめていると、確かに魚ははっきりと見え続けるわけではなく、見えたり消えたり
している。しかし、それは湖の表面の揺れや光の反射で見えなくなっているといってもおかしくはないような感じ
だった。
「あの魚は自然の中に自然と巻き起こる振動によって、半自然的に浮き出てくる振動物にすぎない。捕らえようとし
ても無駄だ。決して固定的に捕らえることはできない。それよりも何も普通のものには決して目に見えないものだ。
お前といい、そのネロとかいう猫といい、この世界の者でもお前のいた世界の者でも無いように思える。」
「では、僕はいったい何者なんだ。」
「さあ、、、」蛙は冷たい口調でつぶやくと湖の方へ向きを変えた。
「教えてくれ。ここはいったいどこなんだ。」
蛙はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと語りだした。
「ここは黄泉とと言われるようなところ。肉体を持つものにとっては、彼岸の世界にすぎない。」
「しかし、ぼくはここにいる。おまえもそこにいる。ぼくにはおまえが蛙にみえる。」
「確かにおまえのいうとおり、おまえには実体があるように見えるだろう。しかしそれは仮染めのものだ。ここで自分
以外のものと意識を交そうとするために作り出された幻影にすぎない。おまえにはわたしが蛙に見えたとしても、それ
はおまえが勝手に作り出したものであって、わたしは蛙ではない。ここは形という枠から解放されたものが漂う世界。
わたしはここを管理し、守るもの。それ以上もそれ以下も説明する形容はない。」
「ぼくは、、、死んでしまったのか。」
「確かに、ここにいる以上そう言えなくもない。しかし、この世界で幻影を作り出し、意識を交そうというものはいない。
ここでは形というものは意味をなさず、また形から解放されたものでなくては存在することができないからだ。しかし、
おまえはそれに当てはまらない。おまえの話のいきさつから考えるに、おまえは誤ってこの世界に入り込んでしまったに
違いない。決して肉体から解放されたものではない。」
「では、ぼくはもとの世界に戻れるのか。もしできるのなら、そうしてくれ。ぼくは妹を助けなくてはならないんだ」
「どうかな、、、いずれにしても、お前はこの世界にいるべきではない。」
蛙はそう言うと、水の中に跳び込んだ。
ポチャン、と音がした。
ここで聞く初めての音。
みずきは堪えられないような激しい頭痛を感じた。頭がの中が押しつぶされそうなほど圧縮されていくような感覚。
(肉体をもつものでしか感じられない痛み)
どこかでつぶやくような声が聞こえてきた。
みずきの意識は再び失われた。
挿入話には行かないので注意