第5話  うさぎの穴

  放心状態の母親を休ませようと、みずきは母親を連れ寝室へと向った。母親は無言でみずきにひかれるまま連れて行

  かれた。母親の寝室は小奇麗に片付けられており、寝る支度をするのにはさほど手間がかからなかった。みずきは押

  し入れから布団を取り出し、畳の上に敷き始めた。母親の布団はまるで新品のようにきれいでふっくらとしていた。

  みずきがせっせと支度をしている間、母親はまるで旅館の女中さんが支度をしているのを見ているかのようにじっと

  表情のないままみずきのことを見つめていた。もし第3者がこの光景を見ていたら、誰もこの2人が親子だとは思わな

  いだろう。

   最後に枕を取りだそうと押し入れを見た時、押し入れの奥の壁にぽっかりと穴が空いていることに気がついた。直

  径50センチ程度の穴で、機械か何かで開けられたかのようにきれいにくりぬかれていた。そして、その先はちょっ

  と見た感じではわからないくらいに真っ暗だった。通常の家がそうであるように、この家の押し入れにはもともとこ

  のような穴は空いていなかった。みずきも数年前までこの家に住んでおり、こんな所に穴など空いていなかったこと

  は十分に知っていた。

  (いったい何時の間にこんな穴が。)

   覗き込んで様子を覗ってみると中は相当深いものであることがわかった。手を伸ばしてあたりを探ってみてもいっこ

  うに手に当たるものはなく、たまたまポケットに入っていた小銭を落としてみたがいつまで経っても下に到達したよ

  うな音はしなかった。

  しばらく耳を澄ませていると、穴の中から声が聞こえてきた。

 「大変だ。大変だ。」

  穴の主は何か慌てているようだった。そしてその声は上からしたり下からしたりで所在がはっきりしなかった。

 「おーい。どうしたんだ。」

   みずきは中の者に呼びかけてみた。しかし、相変わらず、「大変だ。大変だ。」という声しか聞こえてこない。みず

  きも負けじと何回も呼びかけてみた。

  しばらく接点のない呼びかけを繰り返していたが、一向に返事がないのでみずきはそのうち根負けして黙り込み、

  じっと 相手の様子を伺うことにした。相手の声は相変わらずぐるぐると所在なくあちこちから聞こえてきていたが

  やがて遠くへ行ってしまうかのように小さく弱々しくなっていった。

 「行ってしまうか」みずきは穴の縁に腕を置き寄りかかりながらつぶやいた。「まったく、、、どうなってるんだ。」

  すると突然、みずきのことを驚かすかのように先程の声の主が穴の縁に顔を突き出した。

 「どうしたもこうしたもないよ。知りたきゃここまで降りてきな。」

  突然顔を出されてみずきは驚いた。加えて、その声の主は真っ白いうさぎだった。白うさぎはいたずらっぽく輝く

  赤い瞳でみずきを見つめ、鼻をひくひくと動かしていた。

 「おれは忙しいんだよ。おまえ、こんなとこに穴なんか開けておれに呼びかけるなんてどういうつもりだ。」

  白うさぎはそういうと再び「大変だ大変だ」を繰り返して、穴のなかに消えて行った。

 「違うんだ。ここはぼくの知らない間に開いていたんだ。それに、、、あんたとこの穴のなかも、、、。教えてく

  れ。」

 「知りたきゃ。降りてきな。」白うさぎからはそっけない返事しか返ってこない。

 「しかし、、、。」

  みずきは降りて行くのをためらった。全く深さも奥行きもわからないこの穴のなかに降りて行く勇気はなかった。

 「大変だ。大変だ。穴の中は大変でいっぱいだ。なぜ大変かって?それは穴が秘密を保有するところだからだよ。穴に

  は秘密がいっぱい。秘密が明かされるのも穴の中。」

  うさぎは、歌うようにつぶやいた。

 「大丈夫さ。別にこの穴には上も下も奥も手前もない。飛び込めばもうこの世界さ。危険はない。」

 「しかし、、、。」

 「大丈夫さ。落ちて怪我なんかしないから。」

  白うさぎはみずきに誘いかける。そしてその呟きにみずきは知らず知らずと引き込まれっていった。

 「いったい、そこには何があるんだ。あんたはそこで何をしているんだ。」

  みずきの質問にもからかうような答えしか返さない。

 「知りたきゃ。降りてきな。飛び降りちゃえよ。」

 「何があるかわからなきゃ。降りるわけにはいかない。」

 「そうか。」

  つぶやくようにそう答えたきり、穴からは声が聞こえなくなった。

 「おおい。どうした。」

   呼んでも返事が無い。

  みずきは迷った。彼の心には白うさぎの誘惑の言葉のみが残っていた。そしていままでの出来事とこの穴が関連し

  ているだろうという予感。

 (どうしようか。)

  迷いの中、思い出したようにみずきは後ろを振り返った。母親はまだぼんやりと立ちつくし、真っ白な布団を眺めて

  いた。みずきは自分の足元にある枕を一つ取り、母親の元へいくと彼女を寝かしつけた。母親は言われるままに横に

  なり、そして昏昏と眠り込んだ。そしてみずきは、その間に穴の中に入って見ようという意思を固めていた。

  部屋の明りを薄暗くし、みずきは再び押入の中へ入っていった。

  穴からはもうなにも聞こえては来ない。

 「よし。」

  みずきは意を決する声を出し、穴の縁へ足をかけた。

  まだ多少の迷いはあった。白うさぎはじっとこちらの様子を息をひそめて見つめているのか。これは彼の罠で、

  やはり落ちれば怪我をするのか。あるいは死ぬのか。しかし、その迷いに対する回答はどこからも得られなかった。

 (どうにでもなれ。)

  みずきは飛び降りた。

  辺りは、薄暗かった。どこから光がさすわけでもないのに薄ぼんやりと辺りを確認することができた。そこは、地

  下に堀通したトンネルのような横穴だった。みずきは落下した感覚もなく、いつのまにかそこに立尽くしていた。上

  のほうは真っ暗でどの位広がっているのか、どの位の高さ(あるいは深さなのか)見当もつかなかった。しかし、下

  は土の感触があり、横も5メートル位の幅で土の壁となっていた。前後は長い道になっていて、その先がどこまで続い

  ているのかは暗さもあってこれも見当がつかなかった。

 「怪我なんかしなかったろう。」

  突然の声に、その声のする足元を見た。先ほどの白うさぎがこちらを見つめていた。

 「ただし、、、。おまえはもうあの穴へは戻れない。」

  白うさぎは意地悪く笑った。ある程度の事を覚悟してきたみずきは、それ程ショックは受けていなかった。それよ

  りもみずきはこの白うさぎに聞きたいことが山ほどあった。

 「そんなことはどうでもいい。教えてくれ。ここはいったいどこなんだ。」

 「うさぎの穴だ。」白うさぎは無愛想に答えた。

 「この穴はどこへ続いてるんだ。いったい何が大変なんだ。あんたは僕の妹を知っているのか。」

  みずきの立て続けの質問に、たまらんとばかりに白うさぎは耳を閉じるように寝かせた。そしてみずきが喋り終わ

  るのを、嵐が通り過ぎるのを待つようにじっとして待っていた。

 「たのむ。教えてくれ。」

  みずきが喋り終えたのをじっくりと確認するかのように、白うさぎはゆっくりと目をあけ閉じていた耳を上に延ば

  した。

 「あんた。サルードに口を診てもらったほうがいいな。」と意味不明な前置きをした後で、辺りを気にするように耳を

  ピンと張り前後に動かしながら話始めた。「まあ、約束だから、知ってることは教えてやるさ。ただし、ゆっくりは

  してられない。もうじきここは消えてなくなる。すぐに逃げなきゃな。でだ。ここはうさぎの穴だ。うさぎの穴と

  いってもあんたが思ってるのと違う。兎の穴と呼ばれているところにすぎない。ここはある世界とある世界のあいだ

  に存在している特別な空間てとこかな。まあ、なんであるのかは聞かないでくれ。あんただってなんであんたの世界

  があるか知らんだろう。それから、ここがどこへ続いてるかってことだか。どこにも続いてない、といえば続いてい

  ない。続いてる、っていえば続いてる。でもどこって特定できない。誰もが同じ結果を得るような所じゃない。、、

  まあ、何か出口のように開いてる穴があれば、飛び込んで見るんだな。それがそいつにとっての出口だ。何を大変そ

  うにしているか。これが、今一番重要なことさ。もうじきここは闇に犯される。うかうかしちゃいられない。闇はす

  べてを包んで突き進む。取り込まれたものは闇の中。それでお終い。」

  白うさぎの耳が急に早く動き出した。

 「こりゃいかん。そこまで来た。」

  そう言うや否や、うさぎは走り出した。

 「おおい。待ってくれ。」

 「待ってられるか。後は知らん。うまく逃げてくれ。」

  そういうとみずきを残してものすごい勢いで走り去ってしまった。

 「待ってくれ。ぼくはまだ聞きたいことがあるんだ。」

  白うさぎに追いつこうと必死に後を追って走った。かすかにうさぎの走る音が聞こえていた。

 「あんたは妹のことを知っているのか。」

 「妹。、、、えるのことか?えるは、、、」

  白うさぎの言葉を聞き終える間もなく、トンネルから電車が出てくるようなごおーという音が背後から急接近して

  きた。うさぎの虫がささやくような声はもう聞きとれない。それどころかあっというまに音は大きくなり、もし電車

  が来ているのなら数百メートルと離れていないような距離に感じられた。

 「うわあ。」

  みずきは必死に走った。逃げ道は無い。背後からものすごい風が吹き付ける。その風は足元に絡み付くように、み

  ずきを転倒させ、自らの中に取り込んでしまおうとするように吹き付けてくる。それらに負けじと必死に走り続け

  るみずきだが、所詮人間と電車の追いかけっこで人間が勝てるわけがない。

  今までに無いものすごい勢いの風に飛ばされひっくり返ったみずきが背後に見たのはどす黒い霧のようなものだっ

  た。それがまるで生き物であるかのようにぐんぐんとこちらへ近づいてくる。もう立上がって逃げる余裕はなかっ

  た。

 「もう駄目だ。」

  みずきはあきらめ、頭を抱えるようにして穴の端へと転がった。

  偶然というべきか。この世界では必然というべきか。みずきの転がった先には大きな穴が開いており、闇が通り過

  ぎていく直前にみずきはその中へ落ちていった。

 

つづく

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