母の部屋とは間続きになっているので、境界線をカーテンで仕切ってある。
その昔、母と妹がまだ別の場所に住んでいた時分に、自分の部屋の拡大という邪な心を抱いて壁をぶち抜いてしまったためだ。ちなみに実際にぶち抜いたのは父である。私は単にそうしたいという希望を述べただけで、ある日仕事から帰ってきたら壁が無くなっていた。しかも何ら後処理をせず(もちろん破片は片づけてあったが)、ぶち抜いたまんま。。。
ワトスンだけの時には、この2部屋は行き来が自由だった。幼少時代より、ワトスンは悪戯して良いものと悪いものの区別をつけるエライ子だったからだ。
2部屋を仕切るカーテンの両サイドにバリケードが築かれたのは、何でも手当たり次第のブレイズが来てから。かくしてそこは1年半に渡り通行不可と見なされていた。
最初にその不文律を破ったのはワトスンだった。
家人の留守中、ブレ&ホーコンビと同じ部屋に閉じ込められたことに憤りを感じたワトスンが、バリケードを乗り越えて母の部屋へと逃亡したのだ。そして一部始終を目撃していたブレイズとホームズに、そこが逃走経路になり得るとの認識をさせてしまったらしい。
そうと分かれば話は早い。2頭の悪ガキ連は申し訳ていどのバリケードを、衣装ケースクライミングで鍛えた足で乗り越えて母の部屋に侵入し、思うぞんぶん腕を振るったのだった。
そして新たなるバリケードが築かれた。茶箱の蓋を、仕切りのカーテンを押さえつけるようにして、母の部屋側に立てかけたのだ。
それが大惨事の幕開けとなろうとは、知る由もなく。。。
いつものように部屋のドアを開けると、ホームズの姿が見当たらない。無理やりバリケードを乗り越えて母の部屋へ行ったのは容易に想像がついたので、何をやらかしているのやらとビクビクしながら母の部屋へ様子を見に行く。
一瞬、何が起こったのか理解できなかった。母の部屋の床一面が赤い水玉模様と化しているではないか。まず頭に浮かんだのは、ホームズが母の口紅を悪戯したのではないかということ。しかしそれは絵の具、いや、赤インクに近い質感をしている。
血だと気づいたのは、ホームズの頬に赤い染みがべったりとついているのを見た時だった。「ホームズ、どうしたの!?」声がうわずった。その声の調子にいつもの“お仕置きコール”以上の何かを感じたのか、ホームズはお腹まる出しバンザイポーズのまま愛想笑いを浮かべている。降参している場合じゃないだろ〜!
調べてみると、怪我をしていたのは頬ではなく足だった。左後ろ足の肉球のすぐ上から、じわじわと血が染み出している。
時計に目をやると、時刻は2時半。病院の午後の診察は4時からだ。
どうしようかと迷った。大出血を起こしているわけではない。ゆっくりと点滴が落ちるほどの速度で、血が小さなしずくを形成していく。4時まで待とうか? いや、なにぶんにもホームズは身体が小さい。悠長なことをいっていて、ホームズが出血多量で死んでしまったらどうするのだ!(そんな事実はナイ)
結局、がっしとホームズを抱きかかえ、ティッシュで傷口を抑えながら病院へ駆け込む。
診察の結果(血は自然に止まるとは思いますが、と前置きされつつ)2針縫い、化膿止めの注射を打っていただく(病院中に絶叫が響き渡ったのは言うまでもない)。
そして帰宅後には母の部屋の掃除が待っていた。点々と続く血痕を雑巾で拭きながらたどっていくと、窓際へと続いている。血をだらだら流しながら、外の景色を眺めていたらしい。
そう、なぜ部屋中が赤い水玉になっていたかというと、ホームズは怪我をした足で遊びまわっていたのだ。恐ろしいヤツ…。
その時に調べてみてようやく気づいたのだが、茶箱の蓋に金具が飛び出している箇所があり、クライミング中にどうやらそこに足を引っ掛けたらしい。これ以上医療費で財布の中身を圧迫しないためにも、茶箱がすぐに撤去されたのは言うまでもない。
掃除が済むと、公休日のYOKOさんに連絡を入れた。この日、たまたまYOKOさんと妹が会うことになっていたので、きっと2人して盛り上がるんだろうなぁ〜と思いつつ。
夜になって帰ってきた妹、「聞いたよ〜」と。やはりその話題で盛り上がった模様。
「きっとこれで3日は騒いでいるだろうねぇ〜」とYOKOさんが言っていたそうな。
見抜かれている。。。
日ごとに部屋が崩壊していく。
ベッドのへりは化粧版が剥がされ、引き出しの取っ手は無くなった。本棚の最下段にしまわれている本も、続々と背表紙が剥ぎ取られていく。
そこで少しでも破壊活動の防止に役立てばと、木のオモチャを買ってきた。結果は大盛況。
気に入らないと無駄になるので試しに1本だけ買ったのだが、ブレイズとホームズで奪い合いになっている。
だが、思わぬところに落とし穴があった。小さな木のオモチャは、ブレイズの顎の力についていけなかったのだ。30分とたたないうちに、ものの見事に破壊される。計算が甘かった…。ホームズだけなら2日ぐらいはもったかもしれないけど。
またまたペットショップに物色に行く。陳列棚にはガムなどのカミカミ用品がいくつも並んでいるが、問題はそれらが全て嗜好性を考えて作られているということ。
結石体質のワトスンには食事制限があり、フードは病院から処方されたものを食べさせている。したがって、あまり頻繁には他のものを与えられない(本当は一切ダメということになっている)。だから嗜好性の強いガムなどを不用意に置いてはおけない。
そこでYOKOさんにアドバイスいただいて、候補にあがったのがブタの爪。自力行動範囲に唯一存在するペットショップにも置いてあった。
スモークしてあると書いてあったが、これならさほど味はなさそうだ。今度は取り合いにならないように、最初から2個購入する。
部屋でガサゴソ袋を開けていると、ブレイズとホームズの視線が「何〜?」とこちらに向けられた。スモークしてあめ色になったブタの爪を2頭の前に差し出す。するとクンクン匂いを嗅ぎ始めた。
ちゃんともう1個あるから今回は喧嘩しなくても大丈夫だよ〜、とこちらも余裕の笑み。
しかし、落とし穴はさらに深かった。2頭のテンションが低い。低すぎる!
ホームズは爪をしばらく舐めていたが、すぐに興味をなくしてしまった。ブレイズは申し訳ていどに2〜3度ガリガリ齧ったものの、やはり放り出してしまった。ガ〜〜ン!!
木のオモチャの時は、袋を開けるのも待ちきれずにフィーバーしてたじゃないのさ〜〜!
ブタの爪なんてちょっとブキミかなと思いながらも、キミたちのために買ってきたのに〜〜!
これから先、ブタの爪はずっと原形をとどめたまま部屋に転がっているのだろうか…。
その後の涙ぐましいデモンストレーションにより、ブレイズとホームズがブタの爪に興味を示し始めた。そして、ひとたびブタの爪が楽しい(おいしい?)ことに気づくと、前回のテンションの低さが嘘のように大盛況となった。
それぞれに1個ずつ爪を渡してやるのだが、ホームズにはブレイズの齧っている爪のほうが良く見えるらしい。すぐに自分のを放り出してブレイズのを欲しがる。
しかたなくブレイズは今まで齧っていた爪をホームズにあけ渡し、ホームズが放り出した爪を齧りだす。するとホームズはぶん取った爪を放り出して、またもやブレイズのほうに…。
最初は「しょうがないなぁ〜」という顔をしていたブレイズだが、しまいには癇癪を起こしてしまった。
ブタの爪だと思っていたのが、実は牛の爪だったことが判明。
牛と聞くと、近ごろ巷を騒がせている病気がある。牛の病気だから狂牛病だが、犬が罹ったら狂犬病なのか?でも、すでに狂犬病という病名は存在しているし…。いや、そんなくだらない事を考えている場合じゃない。
そして例によってYOKOさんにHELPメールを送る。
「牛の爪にプリオンは含まれていないとされているし、犬は大丈夫」とのご解答をいただき、ひと安心。
ブタの爪改め牛の爪は、もはやブレイズにとってイチ押しヒット商品となっていて、ひたすらしゃぶり続けるその姿には執念すら感じられる。そのため子供のゲーム遊びのように制限時間を設けることとなった。
さらにはホームズが近寄っていくと、取られまいとして本気で怒るようになってしまった。
ホームズは適度にふやけて噛みやすそうな牛の爪をなんとか奪取しようと試みるのだが、今度はブレイズも渡さない。ガーッと思い切り威嚇され、恨めしげに指をくわえているしかない。
別の爪を渡してやるのだが、まだまっさらに近いそれは傍目にもかなり硬そうに見える。
ホームズはしぶしぶと2〜3度カリカリ齧るものの、「いや〜ん、噛めな〜い」とすぐに放り出してしまう。
こうなると今度はホームズが可哀相になってくる。なんといっても破壊力はブレイズのほうが数段上。また新しいのを開拓しても良いじゃないか。そう考え、きれいな方の爪をブレイズに渡して、「これはホームズにあげなさい」と適度にふやけた爪をホームズに与えた。
しかしそう言われて納得できるくらいなら、とっくにホームズに譲っているはず。「え〜っ、私が頑張ってカミカミしたんだよ〜」とばかり、ふやけた爪を奪い返しに行く。ブレイズとしては当然の権利なのだから、これは責めるわけにはいかない。
そこで最後の手段を試みる。私が爪をカミカミしてふやかそうとしたのだ。
が、すぐに挫折。噛みやすくする前に、こっちの顎が外れてしまう。
さりとて柔らかくふやかすために、延々“牛の爪”をしゃぶる勇気までは到底なかった…。
川遊びの時に撮影を担当されていたカメラマンさんの写真展が、有楽町で開催された。
ぐうたら者には珍しく朝から仕度を整え、9時過ぎには家を出る。当日が最終日だったので、この日を逃すと後が無かったからだ。
写真展の開催されている有楽町までは、電車を乗り継いで約1時間半。地元密着型の人間にとっては、久しぶりの自力遠出だった。しかも記憶が正しければ、有楽町には初めて降りる。
前日に一応は路線図をチェックした…つもりだったが、東京で総武線を降りてはたと迷った。このあと何線に乗れば良いのだろうか。最寄り駅を確認しただけで、乗り継ぎを確認していなかった。
東西線か、丸の内か…。雰囲気的に丸の内だとアタリをつけ、丸の内の乗り場へと向かう。
しかし正解は山手線だった。ではいったい山手線のどちら側か。とりあえず上野方面の階段を上ってみる。しかし正解は新橋方面だった。
方向オンチに常識は通用しない。つまずきは東京駅を降りた時からすでに始まっていたのだ。
ようやく有楽町にたどり着き、会場のビルを探す。ここでもまた道に迷った。しかも田舎者と思われたくないという変な見栄が邪魔し、誰かに道を尋ねることもしなかったので、暑い街中をさ迷う
はめになった。
写真展を見に行くにあたり、川遊びの時にホー
ムズの写真も撮ってくださったお礼をかねて
(ギャラリーの連れていた犬たちまで撮ってくださり、後日それをいただいた)花を買っていこうと予定していたのだが、こうなると会場にたどり着くのが精一杯。とても花屋まで探す余裕など無くなってしまった。
なんとか会場のあるビルを探し当てた時には行
き倒れ寸前に…。
こんなことを書くとよほど複雑な場所に会場が
あったと思われるかも知れないが、実際には駅
の近くの超メジャーなデパートだったりする。
方向オンチここに極まれり、なのだ。
写真展は素晴らしかった。犬たちの姿が生き生き
とパネルにおさめられており、見覚えのある作品(写真集を持っているので)も何点か展示されていた。
写真展を見終わると、わき目もふらずに駅へと直行。東京砂漠をさすらってすっかり疲れてしまい、早く家でゆっくりしたかったからだ。
ところが改札はあれど、券売機が見当たらない。今度は牡丹灯篭のように「入りたいけど入れない〜」と駅の付近をうろうろする。
ようやく切符を買い、駅のホームにたどりついた時には「都会は恐ろしい〜。こったら所に長居は無用、早く田舎に帰りてぇだぁ〜」と、半ば朦朧とする意識の中で切に願っていた。
昔話に出てくる田舎のネズミの気持ちが痛いほど良く分かった1日だった。
シャーロック・ホームズの熱烈なファンをシャーロキアンという。(ちなみにワトスンのファンはワトソニアン)
シャーロキアンにとって『ホームズ』という名は、まさにとっておきの名前だ。
先日、散歩の途中で犬たちに声をかけてくださった年輩のご婦人がいらした。
大の犬好きでもない限り、イタリアン・グレーハウンドという犬種名を耳で聞いて即座に記憶できるかたは少ない。別名「年金区域」とも言われている我が家の周辺ならば、なおさらだ。「グレートハウンドドック?」と訊き返されるのは、まだましなほう。イタリアンと言っているのに「どこの国の犬?」と尋ねられたこともあった。「イタリアン」はドレッシングの名前じゃありませんよ〜。
ちなみに某動物病院の院長先生は「これはラッキョっていうんです」とのジョークを飛ばし、担がれていることに気づかなかったあるかたは、本気でラッキョという犬種だとしばらく信じていた(まさかプロが嘘教えるとはゆめゆめ思わなかったらしい)。
しかしその年輩のご婦人は、犬種ではなく名前のほうを訊いてこられた。
「これがワトです」
「あ〜、ワトちゃん」
「ブレです」
「グレちゃんね」(このあたりからすでに怪しい)
「ホームズです」
「ホ…ホームレス?」
さすがにそのご婦人も聞き間違いだとは思ったらしい。声の響きが「じゃないわよね…?」という感じだったので。
ご本人は大真面目だったので申し訳ないが、思わず目線を落として笑いをこらえてしまった。
1週間ほど前から、お勝手にやたらとハエが出没するようになった。しかも小さなショウジョウバエではなく、丸々太った大きな黒いハエ。
1日に最低でも1匹、多いときには3〜4匹。まだハエが飛んでいてもおかしくはない季節だが、これはちょっと異常ではないだろうか。
そして、この異常事態に神経を細らせている奴がいた。
ワトスンはハエが大嫌い。ハエの羽音を耳にするだけで、オドオドと部屋から逃げ出してしまうほどだ。
若い頃のワトスンはハエを見つけると、捕まえようと追いかけ回していた。それがなぜ怖がるようになったか。どうやら原因は私にあるようだ。
ワトスンが我が家に来てからというもの、死ぬほど大嫌いなゴキブリ以外には殺虫剤を使わなくなった。薬のかかってしまった所をうっかりワトスンが触れたり舐めたりしてしまうと危険だと考えたからだ。
殺虫剤を使わなくなった結果、ハエを退治する際に用いたのはハエ叩きや丸めた新聞紙。
しかし反射神経の悪さゆえに一発では仕留められず、あっちでバンバン、こっちでゴンゴンと打楽器の演奏会なみに派手な音をたてながらハエを追いまわしていた。ワトスンがその音に怯えていたとも知らずに…。
そしてワトスンの頭の中で『ハエ→壁やテーブルを叩く音→何だか分からないが飼い主が怒っている→怖い』という一連の図式ができあがってしまったらしい。配慮したつもりが、その実まったくの裏目にでていたわけだ。
以来、なるべくワトスンを刺激しないように気を遣いながら、最少量の殺虫剤でハエを退治すべく奮闘している。退治するまでは部屋を封鎖し、何十分でも粘り続ける。ハエがいる限り、ワトスンの心は休まらない。玄関に下りてフルフル震えているからだ。
それがここへきて連日ともなれば、ワトスンも可哀相だが退治するほうも結構しんどい。
これだけお勝手に限って大量に入り込むということは、付近に発生源があるに違いない。
しかしその発生源とは何か? 知る勇気の無い日々であった。
※後日、うちの父が流しの下にネズミ捕りを仕掛けて、そのまま忘れていたことが発覚。
もちろん発生源は責任をもって始末してもらった。
ホームズの狂犬病予防注射をしに行った。
ブルブルのビビリンチョになっているホームズを脇に抱えて受付を済ませながら、ふと診察室に目をやると見覚えのある小さな顔が…。サナちゃんだった。なんという偶然!
そして診察室から出てきたサナちゃんを見たとたん、ホームズの態度がガラリと変わった。
つい今しがたまで震えていたのが嘘のように、『超』がつくほど嬉しそうに再会の喜び身体中で表現し始める。両手でしっかり抱えていないと、床に落としてしまいかねない。活きのいいサケかマグロでも抱えているかのような威勢の良さ。
しかしここは病院、どんなに再会が嬉しかろうが思い通りにさせてやるわけにはいかない。
というわけで、サナちゃんとホームズは互いに抱えられたまま、上半身でのボディランゲージのみを許された。そして待合の椅子に腰掛けるサナっちさんと私の膝の上、再会を喜ぶ2頭の殴り合いが始まった。
常々思うのだが、イタグレの前脚の動かし方はカマキリに似ている。そう、彼女たちは蟷螂手の使い手なのだ。そして抱えらているとはいえ、時々蹴りも入る。
このなかなかオモロイ光景に、待合中の人々の視線が釘付けとなった。
しかし、またまた楽しい時間はあっという間に過ぎてサナちゃんは帰っていき、ホームズには本日のメインイベントが残されていた。今回のB・G・Mは、やはり『天国と地獄』だろう。
黙って注射されなかったのは言うまでもない。