さて、すべての手続きが完了した時点で、新たに3つの問題が浮上してきた。 ひとつは、アパートを会社の事務所として使用することを前提に考えていたのに、それが駄目になったことだ。コンドミニアムという所有形態であれば、どういう使い方をしても問題はないのに、コープ形式では管理組合の決裁が必要になるという。基本的には住居としての使用に限られるということで、事務所使用はあきらめざるを得なくなった。となると、事務所をどこかに確保しなければならない。これについては、このアパートの購入資金調達の際にニューヨークの銀行に紹介の労をとってくれた不動産管理会社の社長の好意で、彼のオフィスの一角に机をひとつ借りることにして、一応の決着をみた。 こうなってくると、次の問題としてこのアパートの部屋をどう利用するのかということになってきた。住むためということになると、私自身が常時ニューヨークに居るというわけにもいかず、かといって、ビザの関係で経済活動をするわけにもいかず、空いた状態のままにするのも勿体ない。 考えたあげく、銀行への返済も結構重荷になってくることから、しぶしぶリースをすることにした。日本流にいえば大家さんとして部屋を貸すことにしたわけである。家具付きで貸すのか、家具無しで貸すのかと管理会社から問われて、なるほど、ニューヨークでは家具一式をレンタルする業者がいるのも、こういうことなのかと妙に納得した覚えがある。また、家具付きのほうが家賃が高く設定できるという話でもあったが、私の場合は「家具無し」でいくことにした。
ここで、またまた、アメリカの契約社会を垣間見ることになった。賃貸契約書は形式的なものではなく、取り決めの細かさには驚いた。 家賃は、1989年当時、月1400ドルで、2年毎に6%アップするという条件であった。その後、何人かのテナントの出入りがあったが、1997年には月2045ドルという家賃をいただいていたわけだから、マンハッタンの家賃の高騰ぶりには驚いた。 それから1年を経過する頃になると、米国連邦およびニューヨーク州・ニューヨーク市法人税の申告書が仮の事務所に届き始めた。果てさて、どうしたものかと途方にくれているときに、悪いときには悪いことが重なるものである。バブルの弾ける音が、耳元で聞こえた。今回のアパートを建設したニューヨークの不動産会社が倒産、続いて日本の仲介業者が、突然に会社を整理・清算をしてしまったのだ。 |
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