金襴について


おもに、金糸金箔を使用し、その他、色糸等で
紋様を顕わした布地を金襴と称す


技 術 用 途


中国
中国では、紀元前2000年以前から絹が素材として使われ始め、周から春秋戦国時代にかけて養蚕と絹織りの技術が発展した。漢代には宮室での織物需要や、朝貢する外国への賜与、庶民の絹織物への指向が高まり以後、様々の技術が発展した。

金の織物への使用は、西域において金の薄板または薄片を生地に縫いつけるか、貼り付けたりしたものが多く見られ、金を糸として織物自体に織りこんだものはなかった。
しかし、2世紀ごろのシリアには金を薄く伸ばし細く切ったものを糸に交えて織り込んだ物があり、それが中国へ刺繍用としてもたらされた。
後、中国では布に織りこむため、しなやかさと、ある程度の強度を保つため紙に金箔を貼り付け糸にする方法が編み出された。

隋唐時代に綴れ織りや刺繍に部分的に使われていた金糸は次第に使用範囲が広まり、宋代には金箔糸で全体の文様を表したような織金(金襴)へと発展した。

伝来
日本での養蚕は中国から直接養蚕技術が伝えられ、紀元前100年ごろ弥生時代前期末以後に始まったが、錦などの文様をあらわした織り技術の伝来は5世紀後半、技術者の渡来を待つことになる。
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技術
地組織
平地の金襴
最も簡単な織り組織で経糸と緯糸1本づつを交互に織ったもの。金糸を織りこんだものでは、単純な平地を金地金襴、紗地のものは紗金または金紗、絽地、羅地のものはあわせて絽金とよばれる。



平地の織物


綾地の金襴
経糸と緯糸の組織点が斜めに連なり経糸が多く表面に出て平織りよりも光沢がある生地になる。
綾では3枚綾、4枚綾が代表的なものである。


綾地の織物(三枚綾)



繻子地の金襴
繻子地は経(たて)込みが密で大部分が表面に出るため、綾地よりも更に光沢があり滑らかな風合いの織物になる。繻子地のものが現れるのは、明代中期以降になってからでないかと思われるが、日本には1600年ごろに手法が伝えられた。
繻子地には5枚繻子が代表的なものとしてあり、例として、大内桐金襴、大内菱金襴、金春金襴、江戸和久田金襴、高木金襴等がある。
繻子の織物(五枚繻子)



経錦(けいきん) 
経錦は、文様を経糸で顕した錦で、2色以上の縦糸を1組とし2種類の緯糸(母糸と呼ぶ地組織用の糸と陰緯と呼ぶ文様を顕すための糸)で織りあげる。

緯錦(いきん)
それまで中国にはなかった緯糸で文様を顕す緯錦がペルシャからもたらされた。しかし西方では、毛織による織物で中国では絹織りが発達したため、絹織りに適した独自の製織法が考え出されたと思われる。緯錦の綜絖(そうこう)は経錦のそれよりも複雑になり文様を顕す部分の経だけを選んで開口をするなど手間がかかる。緯錦の技術の日本への伝来は700年ごろには既にあったようだ。

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用途
名物裂(めいぶつきれ)
名物裂は中世から近世にかけて日本へ舶載された染織品のうち茶の湯で使われた名品の表装(ひょうそう)や仕覆(しふく)などになりそれ自体が鑑賞の対象となった
中国の宋、元、明時代の金襴、印金、緞子(どんす)、間道(かんどう)、やインド、東南アジアの染織品も含まれた。

袈裟(けさ)
袈裟はもともと、物欲を生じさせないボロ布を張り合わせて作った物であったが、後には、儀式などに使われるようになり次第に華美なものになった。
宋代、鎌倉時代にはいると禅宗が伝わり弟子へ袈裟が伝えられたことから、中国から様々な技法で織られた織物が多数伝えられ現在も残されている。
高僧の袈裟は高貴性が求められ、文様を金色で顕すことが多くなった。その手法としては最初は印金の手法で描かれ、元から明代には金襴の袈裟が見られるようになる。
印金の袈裟に対し金襴の袈裟では中国元代から明代にかけての輸入品が圧倒的に多い.。明代に入ると文様も華やかなものになり複雑な文様が現れる。
金襴は国内では桃山時代になって生産されるようになり、まもなく京都西陣で生産されるようになった。

能衣装
能楽は室町時代に世阿弥が作り出したものでそれまでの芝居とは違い観念的な表現で幽玄の美を表したものであった。そのため衣装も性格を簡潔に象徴したものなり、それなりの意味を持つようになった。
室町時代、日本製の色糸を多用した高級織物を唐織(からおり)と称し、将軍やその側近の有力武家のみ所有を許された着物を能楽の衣装として与えられ、使用するようになった。
しかし、それらが様式として整うのは桃山時代に入ってからのことである。桃山時代には小袖として唐織が多くなり、色糸の数も多くなり更に、金糸や金箔も織りこんだ豪華なものも多くなった。

表装(ひょうそう)
鎌倉時代から禅宗の書画の掛軸が広まり表具の形態が完成し、室町時代、茶の湯の興隆により、墨跡、文人画などを茶室に掲げるようになり庶民にも広まった。最初は金襴の法衣(袈裟)や衣装を解いて使用していたが、近世以降は表装用に生地が製作されるようになり、名物裂と共有する特徴が多い。
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