日本の改暦は実際の天体の運行を出来るだけ正確に表そうとするよりも、 高度な政治判断として扱われて来た歴史があるようです。 以下、チョットあやふやな項目が多いので下の参考文献をご覧になった方が宜しいと思います。 ここでは概要をお話いたします。
日本で「天文」という言葉が最初に文献に記されたのは 「日本書紀」に602年「百済の僧、観勒が来朝して暦・天文・地理・遁甲・方術の書を伝えた」 と見えます。
この場合の「天文」とは、天にあらわれる日蝕・月蝕・彗星・超新星などを観測して、 それら天上世界の異変が地上世界に与える影響を論じるための占星の術であったようであります。
天文のための難しい基礎理論は中国本土で中国人が研究してくれますので、 日本では中国で制定された改暦をいつ実行するか決定さえすれば良い状況でありました。 日本の暦算天文家はそろそろ改暦をしないと合わなくなると報告するだけで、 改暦は支配者の極上層部の決定事項でありました。当時の中国王朝の首都が陰暦の基準点であると思いましたが、 日本ではその中国暦をどのように置き換えて計算するが分らないので、 そのまま中国暦を使っておりました。 従って中国で改暦があると日本でもと云うパターンが多かったように思います。
ただし中国の暦は実際の星の運行を計算すると云うよりも、 統計的に予測があたるかあたらないかに重点が置かれておりました。
暦が正しいがどうかは「日蝕」「月食」の予測により確認をしておりました。 奈良や平安時代などでは、日蝕の予報がでますと悪いことが起こらぬよう祈祷をしていたようです。 予報が外れたときは祈祷が実って日蝕が避けられたとされ、 予想の食い違いは問題になりませんでした。 当たれば当たったで計算の正しさが証明されたわけですね(^^;最悪のケースは予報をしないで日蝕が起きてしまったときで、 天子の権威はガタ落ちで、逆鱗触れたこともあったようです。 ですから日蝕予測はたとえ外れても、しないよりは良いので乱発されたようです。
天文博士の主な仕事は、占星台で天変を観測・記録して、 陰陽寮でその記録を密封し、天子の内覧を経て、中務省に送り、 国史に記入するといったものでありました。もう1つの仕事は正月朔日に日蝕予報を出し、陰陽寮に申し出てました。 日蝕の八日前に陰陽寮から中務省に報告して、その日は廃朝となりました。 官庁では御殿を筵(むしろ)で包んで、僧侶により厄除けをさせたそうです。
本 能寺の変の前の日は部分日蝕だったのです。ただし曇りで見えませんでした。 誰かが計算していたと思うのですが、信長には知らせなかったのでしょうかね?
西洋の天文をもたらしたのが宣教師たちで、江戸時代に入りますと計算精度がグーンと上がりました。 但し非常な努力にもかかわらず、ニュートン力学をものにすることは出来ませんでした。 「粒子」「質点」などの考え方や 二重楕円軌道を計算(例えば太陽を楕円で巡る地球から、やはり楕円で巡る木星を地動説で計算) するための微積分がわからなかったようです。日月蝕は各藩で独自に計算していたようで、 計算精度が上がったと云っても起きる時間が合わなかったり、 皆既だと思っていたら部分日蝕だったり、京都では計算があっていたけれど、 会津藩の計算が合わなかったと、何だかガタガタやっていたようですね。
土御門家は暦算と陰陽道の家系でしたが、江戸時代ともなりますと暦算は幕府の直轄となり、 陰陽道の方で権勢を誇っていたようです。 しかし維新となり土御門家は戦火からの避難に伴い本を大量に紛失したようです。維新の時には、和算家や漢方医は民間でも職業として成り立ちましたが、 暦算天文学は、幕府と伴に駿府へ移ったり、榎本武揚と伴に蝦夷地へ移ったりしたそうで、 その時に観測資料などが多量に持ち出されたようです。
明治になり当面暦算は大学(現在の文部省)に一局設けて土御門家に任されますが、 明治3年8月7日に星学局になり、 同12月9日御用罷免となり暦算から離れて子爵を送られたそうです。
太陰太陽暦から太陽暦への変更は評判が良くなかったと記憶しています。 改暦の最大理由は外国との交渉に不便であるからであったと思います。 それに太陰太陽暦の計算は複雑を極めます。ひと月が単に28日では無いですし・・・。例えば月が地球の回りを1周する間に、 地球が公転しています。月と太陽との黄経の差が360度変化する「朔望月」は平均29.5日です。
これを始終観測していないとならないのです。
月の軌道はまんまるではない(互いの共通重心を回ります)ためです。なんだか、 すごく分かりにく〜い説明で申し訳ないです(^^;
旧暦は年によって13月があります。すると月給を採用した明治政府は1カ月分給料を 多く支払わないといけません。 新暦にすればかなり財政節約になりました。 この大隈重信の処置が改暦の理由であると云う方もおられます。
「改暦弁」と言う本があるそうで、以下月刊天文Vol.62より引用「日本国中の人民、此改暦を怪しむものは必ず無学文盲の馬鹿者なり、 これを怪しまざるものは必ず平生学問の心掛けのある知者なり。 さればこの度の一条は、日本国中の知者と馬鹿者とを区別する吟味の問題といふも可なり」 引用ここまで
福沢先生ともあろうお方が、なんと思い切った御発言(^^;
明治の改暦は私の印象では、明治政府のごり押しと、舶来品信仰とでも言いましょうか、 古いものはみんな駄目と言う風潮があったような気がしますね。 おかげさまで未だに庶民は結局どっちつかずで、行事を新暦で行ったり、 旧暦で行ったり、はっきりしていない印象がありますね。
●日本の天文学−西洋認識の尖兵、中山繁著、岩波新書g62
陰陽道の話などを加えて再編するつもりでおりますが、いつのことになりますやら(^^;)