妙見菩薩
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歴史概観〜千葉氏〜

●うみゅみゅ(^-^;)
妙見菩薩  え〜。この項目はムッチャむずかちいのれす。神仏習合や密教・真言密教・天台密教などなど、 関係項目が一杯あって調べ切れまへん(^^;

 というわけで、間違えの可能性が大ですが・・・え〜いと第一段いってみますか。

 この写真は、千葉城あった妙見さんと思われる石像です。 なぜ妙見さんかといいますと、第二の右手に弓を持ち、第二の左手で矢を持っていますでしょ。 そして剣を持っています。上部には日月があります。 ・・・でも、弓の上の丸の正体がわからないですね。

 通常説明書きが側面か裏面にあるのですが、神仏分離の影響でしょう、念入りにケズケズしてあって 見えない(^^;


●渡来人
 天体の中で動かないように見える北極星は、方向を指し示す事から世界中で神格化されて 来ました。

 北極星の化身としての妙見信仰が日本に渡来したのは紀元後500〜600年代とものの本には 書いてあります。伝来当初は渡来人の多い南河内など辺りでの信仰であったようですが、 次第に畿内などに広まって行ったようであります。

 しかし朝廷の統制下にない信仰であったため、延暦15年(796年)に妙見信仰最大の行事 「北辰祭(妙見祭)」を禁止しました。表だった理由は「風紀の乱れ」などであったようですが、 実際は大衆とともに多くの官吏が信仰していたため、色々と 政務に乱れを生じたためであるようです。

 さて妙見信仰として有名なのは千葉県の字にもなっている千葉氏でありますが、 妙見信仰が関東地方に伝わったのは、 天智天皇の666年から霊亀(716年)に近畿・駿河・甲斐・相模などに住んでいた 帰化人を関東地方に移住させたことで、文化の1つとして伝わったようであります。

 そしてこの妙見信仰と、もともとこの地にあった八幡信仰とか習合して、 千葉一族という武士団の守護神となっていったようなのであります。

●千葉県史
 え〜私め千葉県民でありまするが、千葉県はだいたいたいした歴史はないんですね(^^;
源頼朝が逃げてきたとか、南総里見八犬伝の里見氏がいたとか、飯岡助五郎っていうヤクザがいたとか・・・えっともうちょっとましなのないかな(^^;
 平将門の乱に少々かかわったのと、一番の有名どころでは、 平将門の乱の後の「平忠常の乱」でしょうね。

千葉城の写真  ま〜このように平家の系統の武士団があり、それは古代末期から戦国末期までその 武士団の1つ「千葉氏」が長い間勢力を保ってきたからなのですね。

 写真は千葉県千葉市にある「千葉城」の写真。中は千葉県の郷土史博物館に なっていまして、プラネなどもあります。日曜・祭日は休みなんですって。 あ〜ん。行ったらしまってた(T_T)

●千葉氏略歴1
 桓武(かんむ)天皇の曾孫(ひまご)の高望王が、朝廷が人で一杯で養えないので、 政情不安な関東に追い出されちゃったんですね。もともと朝廷の直轄地が多いので、 中央からの皇族血縁者として尊ばれました。これが桓武平家と呼ばれる所以(ゆえん)ですね。

 それから先ほどの「平将門の乱」「平忠常の乱」と言うこの時代の最大の反乱の後、 武士団が再統合されます。

 千葉県は昔は「上総」「下総」「安房」の3つの国に分かれていましたが、 千葉県北部と中部の「上総」「下総」の両総平氏の武士団・ 千葉県南部の「安房」の安西氏の武士団に勢力がわかれました。

 平安時代末期に両総平氏から分かれ新たな武士団を作ったのが千葉氏でありました。

●千葉氏略歴2
 さて平安末期から鎌倉時代前期にかけ源平の合戦・奥州の合戦などに参加し鎌倉幕府の 成立に貢献し上総下総を中心として、陸奥から薩摩にかけ全国20箇所に所領を獲得しました。

 その後陸奥・薩摩については所領を失い、蒙古襲来の際、憂いを抱く幕府から九州よりの帰国 を許されず分裂、残った千葉氏も室町時代には分立・独立が進み次第に衰退し、 関東管領上杉氏の内紛に巻き込まれ二分して戦う事になりました。

 戦国時代には後北条氏の一武将として活躍しますが、豊臣秀吉の小田原合戦で 後北条氏が降伏するとともに、千葉氏も所領を没収され、ここに滅亡します。

●妙見信仰
 さて妙見信仰は「密教としての流れ」と、「千葉氏の守護神として流れ」 の2系統があるように感じます。 ここではまず千葉氏の守護神としての妙見信仰を追って行く事に致します。

守護神として妙見信仰

●渡来前の妙見信仰
 アッシリアやバビロニアなどの砂漠の遊牧民族は、道を間違えれば死を意味しましたので、 磁石がなかった時代(結構100年前までらしい^^;)方角の分かる北極星はなくてならないものであり、 北極星は曇って見ない事もあったでしょうから、北極星を待ち望む気持ちが「神」としての 形をとったのでしょう。

 これが遊牧民経由でインドに伝わり、仏教では「七仏八菩薩諸説陀羅尼神呪経(妙見神呪経)」として 「大蔵経」の密教部に組み込まれ、これが古代中国に伝わり、 中国での道教・儒教・陰陽道などの星信仰とが習合し、帰化人の来邦と伴に日本に伝わったようで あります。

●古代の妙見信仰
 さて帰化人と伴に入ってきた妙見信仰は帰化人のいた南河内・京・畿内であることが、 北辰祭の禁止令(796年)が朝廷から出された事でわかります。

 それから天智天皇以降に帰化人を関東に強制的に移住させたことから、 妙見信仰が関東地方に入ってきたようであります。

 妙見信仰は当初、んっと9世紀以前は北極星との関係はあまりなく、 豊穣や御霊などに対する信仰であったようで、 院政が始まった頃に変化が起きるようであります。

 天慶8年(945年)に天台宗の義海(ぎかい)が始めて「尊星王法(そんじょうおうほう)」を となえ、「守護国土」を目的する信仰が強調され、朝廷・院政などにもとり入れられて、 公式に認められる信仰となったようであります。

●守護神
 さて武士団のもともとの守護神は、どうも産土神(うぶすながわ)の八幡神(はちまん)に、 神功皇后の妹の豊玉姫の「玉依姫命」が習合したものを信仰していたようです。 はっきりとは分からないのですが、平家の祖先神が八幡神であるようで、武士団の共同意識 を喚起するのに一役買っていたようです。

 ここが微妙なのですが上総か下総のどちらかで、八幡神ないし玉依姫命の信仰から 妙見信仰に変化をするようですが、鎌倉時代中期に尊光寺が千葉妙見宮の別当寺となったときに、 道教の武神「玄天上帝」と習合したようで、弓箭神として武士団の守護神となったようです。

●妙見説話
説話(平将門)
 常陸(茨城県)の蚕飼川(こかいがわ)で平将門と、叔父の常兼が戦ったときのことです。 妙見が現れ、蚕飼川を瀬踏みして危機を救い。再び合戦となったときに敵の矢を拾い、 敵に射掛けて勝利に導いた。

説話(源頼朝)
 頼朝が旗揚げをして1度破れ、房総(千葉県)に逃れてきた時、 千葉氏が出迎えましたが、その留守宅を襲撃された時に、無勢であったため下総の境「境河」 まで敗走したが、そこに童子が現れ、飛んでくる矢をみな受け取ってしまったので、 矢が当たることなく、そこへ上総から援軍が到着し大勝利を得た。

 このような説話が残っておりますが、妙見についての他の書物の話しとの 類似があり、どうもあとで作られた話しであるようです。例えば日本霊異記の 「漁師が嵐にあって溺れかけたところを、妙見の加護で、岸辺にたどり着けた」話しが ありますが、岸辺に向かうには方角を知る必要があります。説話(平将門)の瀬踏みに該当しますし、 何れの話しも岸辺など水辺であることなどがあります。 また「八幡縁起絵巻」には神功皇后が三韓征伐の時、龍王から貰った2つの玉を使い勝利し、 磯童が豊姫を竜宮まで案内したと言います。

 妙見が童子の姿で現れる話しは数が多く、最も古い例では「養老令」で、 他にも未だあるようですが、ナハハとっても調べきれない(^^;

 うみゅみゅ。こりゃ七夕のように大変だ(^-^;)

●総括
 と言う訳で、千葉氏と伴に信仰が広まった側面があり、また密教や陰陽として、 広まって行った側面があるようです。

 えっと、現段階では、わたくしめ、何がどうなっているのかサッパリわからないので、 書いてあることは多分に違う可能性があります。

 ん〜なんだか、大変そう(^^;

 例えば関東管領の争いに巻き込まれたとき、どうも妙見信仰についてのゴタゴタも 一因となって千葉氏が二分して戦った側面もあるようです。

派閥所属
関東管領派北極星十一面観音
関東公方派北斗七星七仏薬師

 こんな争いもあったようですし・・・真言宗からすると十一面観音って事らしいんですが、 七仏薬師に変わるらしくって、菩薩と観音ってちゃ〜うんじゃないの(^^;

 ようわからん(^-^;)


参考引用文献

★下総上総千葉一族/千葉市立郷土博物館館長・丸井敬司著/新人物往来社
★天部の仏像事典/錦織亮介著/東京美術
☆密教占星術/矢野道雄著/東京美術
☆道教の神々/窪徳忠著/講談社学術文庫

陰陽道の本/学研
真言密教の本/学研
天台密教の本/学研
密教の本/学研

続日本紀
日本霊異記


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