子分肌の国民 - 2005/10/31 14:41

 親分肌という言葉はある。が、子分肌という言葉はもちろん無い。でもこの国民のあり方を、というか生活の仕方を観察していると、特に政治面の表現では、子分肌という性格を呈していると思う。
 例えば選挙で、XXに投票だ!と会社親分が一声発すると、そのまま投票所にいってXXと記入する。面従後言、面従腹背もせずに堅く口を閉ざし親分の言い付けを厳守する。あたかも一宿一飯の恩義に応ずるように振舞ってしまう。
 その世界では憲法という掟は機能せず、▲▲組織の習俗が支配ルールとなり、個人の生活までを律する。かくして、他の組織員とは一線を画して家族まで含めて親分に仕えることになる。
 肝心の親分肌だが、広辞苑によれば「親分のように、面倒見ががよくて人から頼られる気質」とある。この通りなら誉められたものであるが、昨今のリストラ状況では、子分も使い捨ての様である。
 では子分肌を広辞苑流に書いてみると、「子分のように、言い付けを守り親分からいいように扱き使われ、最後は捨てられる気質」とでもいうのだろうか。
 ああ、日本の夜明けは未だし。


 人間の誇り - 2005/10/30 10:40

 天変地異に恐れ戦きながら、僅かに揺れ燃える炎を凝視し、洞窟の中で眠れぬ夜を過ごす原始の人。外は唸り、咆え狂い、渦巻く風と小石を叩きつける様な雨。闇を裂く青光りの閃光が獰猛さを更に付け加える。奥深い洞窟に混乱した轟音がいまにも獲物に掴みかかろうとする魔物のごとく、傾れ込む。僅かな炎が掻き消され浮遊感を漂わせる真の闇が窟内を支配する。
 そこには赤裸にされた何の施しも無い人の姿があるだけだ。戦く自己を癒すものも庇護するものもない。日頃食べ物を与えてくれた穏やかな原野が加担し荒れ狂っているのだ。心いやす慰めの言葉も皆無だ。一筋の流す涙の温もりも無い。昨日まで身体寄せ合い暖を取り合った一人の連れは、寄せ合えば冷たさを増す骸となった。
 終わることの無い遍満の時があるのみだ。
 突如、人は立ち上がり、闇の宇宙に向かって叫び、両手の拳を突き上げた。


 花鯉 - 2005/10/29 12:35

 小雨降る朝の散歩。川の中ほどの浅瀬に鯉が横たわっていた。排水溝と化した川の所々にできた窪みに泳ぐ鯉だった。川沿いの散歩人を楽しませたその鯉は、今、体長50cmほどの半身を水面に出してその命を終えていた。
 時折り私のカメラのモデル(被写体)にもなった。天空を映した川面に泳ぐその鯉は美しかった。あたかも蒼穹に舞う如くであった。悠然として流れを受け、幽邃の波を立てた。
 素足になり私は鯉に寄って行った。ずしりとした重さを腕に感じた。妻がまだ鮮やかさをとどめる有終の姿を撮った。流れ沿いにできた砂地に埋め、傍に生えていた何本かの草花を植え替えて、蓋った。
 さらば、一度限りの命よ。


 もう一つのブラックユーモア - 2005/10/28 14:37

 『ともにつくる元気あふれる公園都市』を謳い、『みんなで支え合う健康のまちづくり』を勧めている市長の母君所有の造成土地(約五千平方メートル)に、土壌埋め戻し材フェロシルトが使われていた。燈台は下を照らさないものだ。
 さて自分の頭のハエでも追うか。

引用・参照

中日新聞 なごや東版 2005-10-28


 国民保護計画はブラックユーモアか - 2005/10/28 12:50

 ある日どこかの国が、日本を核・生物・化学(NBC)等で攻撃を仕掛けて来た時、常に無傷の行政(政府)組織が国民を救い支援をしてくれるという想定が、国民保護計画である。まるで、ウルトラマンか何かの劇画の世界である。国民は常に無防備の世界にうろうろしていて庇護されるべき対象であり、親気取りの政府組織は破壊されないで助けてくれるというのだ。そんな保障はどこにあるのだろうか。そんな暢気な事態でないのが、武力攻撃事態の発生ではないのか。空想の世界である。
 生活用水が汚染されたら給水制限するというのに、備蓄食糧(米・小麦・大豆などの)は十分に確保し国民に供給するという、がその備蓄食料は汚染されていないのか。先ず日本は、数発の核爆弾で万事限りである。みんなで死ねば怖くないか。
 さて、でもどこに避難しようか。この狭い収容所なみの島国で。


 大悲 - 2005/10/27 10:36

 人は最愛のものを失くし悲しむ。その悲しみが大きくそして深いほど、真なる存在の傍にある。この言葉を「大いなる悲しみ」と読みたい。
 悲しみとは、生あるものの根源を知ることであり、そこから更に戻る事である。その悲しみは大いなる憤怒と一体である。ただその怒りには涙も溢れている。
 悲しみを知ったものだけが救うものになれる。


 地球は? - 2005/10/26 19:50

 地球上の人口を現在64億とすると、これから100有余年の後にはこの膨大な人々は総て、この瞬間おぎゃーと産声をあげたばかりの赤ちゃんも含めて、この世には存在しない筈である。
 日常の世界は連綿としているために、絶対数の死を立ち止まって思うことが無い。生と死の目まぐるしく繰り返す中で、64億の死を思うことは無い。そこには我らと共に生きている動物の死もあるのだ。
 この地球は自給自足の生命体なのか。不気味でもある。


 二極化の進む中で - 2005/10/25 09:40

 この国にも貧と富、無知と有知などの二極化が確実に進んできていることが実感できる。
 一時騒がれた情報格差(デジタル・ディバイド)も決して無くなったわけではないだろう。ワープロやメール・インターネットが出来たからといって、それだけで格差がなくなったことにはならない。むしろその出来ることが、単にデータの入力者としての役割のみに堕ちているのかも知れない。有るか無いかの二値論の中で、それは無いの世界にあてはまる。
 情報格差とは、複雑な知識体系の中で、世の中の現象をどう自分のこととして捉えて、検討を加え、普遍性を持たせて他に発信(表現)するかの能力差である。


 記憶に残る文章 - 2005/10/24 10:00

 「晩年のモネが、パリ郊外のジヴェルニーの邸で、庭の睡蓮の池のなかに、彼ひとりだけの豊麗な光の世界を求め続けたことは、人のよく知るところであろう。」 (引用:『続名画を見る眼』高階秀爾著 岩波新書 1988年3月10日第21刷発行 12ぺージ)
 モネを表現したこの末尾の文章が二十年の歳月を経てもイメージと共に残っている。


 無いものねだりの悲哀 - 2005/10/23 13:12

 人の一番の悲しみは、無いものをねだっていることではないか。その最たるものは絶対者を希求することである、と思う。
 若し絶対者が存在すれば人はどれ程に気楽で平和に生きられることか。すべての悩みは雲散霧消し、自ら判断することも無いし、相手に任せて極楽蜻蛉の様に生きていればよいのである、と思うからである。
 が、非存在であることを知るゆえに、その希望は叶わず、悩み傷つき戦うのである。存在が非存在を求め、その非存在によってさらに傷つく循環から抜けられないのである。
 自ら判断しこの無いものねだりの呪縛から逃れられない限り、悩み多き人の世を送らなければならない。


 時折に - 2005/10/22 11:51

 何の脈絡も無く以前に読んだ書物の内容が浮かんでくることがある。多分読んだときに印象深いものがあったのだろう。法華経の薬草喩品の箇所や旧約聖書のルツ記などがそうである。コーランにいう天国は確か、潺潺と流れる川を描写してはいなかっただろうか。
 時折の記憶の蘇りは、遠い時空からの通信の様でもある。どのように解するかは受信者の感性による。


  禁酒か? - 2005/08/20 19:21

 夏の風呂上りには冷えたビールがいい、秋深まる時季には熱燗で一杯だなと、飲兵衛にはいつでも言い訳がある。それこそ一月から十二月迄飲む理由には事欠かない。私もそうであった。
 が、一杯のビールも飲まずに夏も過ぎ、熱燗の頃になっても盃も傾けていない。身体の調子は日課のトレーニングで先ず先ずである。
 理由はいたって簡単である。酔うた時間がもったいないと感じたのだ。人生の深い味わいは、酒によってでは到達しないから。


 万博が終了したら - 2005/10/19 09:58

 万博が終わった途端、この開催地方では「フェロシルト」の問題が新聞を賑わし始めた。まるで解禁された如くに。万博開催中にだってこの問題は存在していただろうに。むしろ開催中のが、物事の関心解決には打って付けだったと考えるが。手遅れだ。
 臭いものに蓋をする、か。


 何をそんなに - 2005/10/18 08:52

 何をそんなに悲壮がっているのだろう。公私混同を繰り返すこの国の首相。場当たりの発言を持って説明したとするが、全体の整合性に乏しく支離滅裂である。まるで幼児である。自己の欲望のみを主張し、周りのことはまるで眼中に無いのである。
 そのような行動振りを好しとし、喝采する人もいる。いつか大きくなった駄駄っ児に首筋を掴まれて、崖っ縁に追い詰められているかも知れない。そんな日が来ないことを祈る。
 憲法 第十二条の前段に「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」とある。


 朝寝坊の雨蛙 - 2005/10/16 08:55

 夜来の雨も上がった朝、枯れたリラの葉に雨蛙がいた。よく見るとぐっすりと寝込んでいる。見慣れた緑色では無く、乗っている虫食いの葉の状態に体色を合わせている。最初は干からびて死んでいるのかと思った。うまく隠蔽したものだ。
 葉を落とすために、寝ているいるところ起こすようだが、手のひらに乗ってもらった。やっと目が覚めて椿の葉に飛んだ。
 椿の葉は緑色である。


 ボランティア精神 - 2005/10/15 20:47

 こんなことを言うと袋叩きものかも知れない。つまり、ボランティア活動に邁進している人達は、ある意味では政府・自治体・企業等の後始末をさせられている、ということである。政策の貧困、小回りのきかない身近な政府である自治体、結果を省えりみないやり放題の営利企業などにである。うまく取り込まれて使われているのである。
 まるで道楽息子の面倒を見ているの図である。それもその息子の甘えを真に受けて、親心をくすぐられているのである。
 と、そんな気がする時もある。まぁ、それも自由意志であるが。


 知らぬが仏 - 2005/10/14 22:08

 今の世の中、一歩踏み込んで考えた場合、薄氷を履む思いがする。何一つ確かなものは無く、日々奇跡が起きている状態である。ただ、その奇跡が連続しているために、当然のこととして過ごし思考と判断を停止しているから、奇跡が奇跡であることを失念してしまう。
 身の回りのこと一つ一つ点検しても奇跡であることがわかる。心配しても始まらない、と言っている場合ではない。「知らぬが仏」の状況におく訳にもいかないし、「知らぬ顔の半兵衛」でいる場合でもない。
 世の中は無常迅速である。よく聴き、よく見よう。そうすれば何をすべきか解る。


 福祉するにも - 2005/10/12 161:10

 個人情報の保護に関する法律(平成十五年五月三十日法律第五十七号)は地域活動にも影を落とし始めている。
 災害などの緊急避難時の為に、家族構成はどうなっているか、例えばその構成人員の中に身体の不自由な方はいないのかなど、特定しなければならない。これらの情報に他のボランティア団体等が触れる場合には、個人の権利利益の保護との権衡が考慮されなければならないであろう。
 圧倒的に平時の時間の多い生活の中、天変地異に備えるには常の活動が効果を上げるのであるが、他人のプライバシーへ普段から接触することでもある。ではどうしたらよいのであろうか。福祉とはある意味で、身勝手をどこまで許容するかというバランス上の課題でもあるから。
 一つの案としては、情報を管理するのではなく、その場処理で消費してしまうことである。つまり、相手から情報を発信してもらい即対応して完了するのである。今時のコンピュータのプログラミング手法でいう、オブジェクト指向で災害や福祉に対処するのである。いつか詳細に検討してみたい。


 筋トレ - 2005/10/11 12:12

 5km程の駆け回りに続いて、自家製のメニューをこなす約2時間の運動が日課になっている。メニューには、腕立て伏せ・腹筋・ダンベルでの筋トレ・鉄棒での素振り等がある。
 雨が二日も続いたりすると、身体がふやけたようになり気持ちが悪い。そこで雨の日は、妻に頼み背中に乗ってもらい、50回の連続スクワットを実施する。これは足腰の鍛錬には持って来いである。そもそも緊急避難時など、妻ぐらい背負って運べなくては、との思いもあるので一挙両得である。その上、互いの体調もわかる。
 この頃、行政も筋トレなどと言い始めた。貧すれば筋(金)トレ、ですか。福祉も儘ならぬ世の中、個人も防衛する必要がある。
 以前、トレーニングしていたら、通り掛りの人に、自衛隊の方ですか、と訊かれたことがある。

引用・参照

健康増進法 (平成十四年八月二日法律第百三号)
(国民の責務)
第二条  国民は、健康な生活習慣の重要性に対する関心と理解を深め、生涯にわたって、自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努めなければならない。


  一生の仕事 - 2005/10/09 08:57

 確かお釈迦様だと思うが、男子一生の仕事は自分を知ることだ、と言った。つまり、人間として生涯やり続けなければならいことは己が何ものかを究めることなのだ。これこそが本来の仕事なのだ。働いて幾ばくかの金銭を得ることも必要ではあるが、それを本来の仕事としてはならない。
 そう考えると、目標を、生き甲斐を喪失することもあるまい。すべてがその一点に向かうことになるのだから。道を求める者には醍醐味が待っている。


 秋空 - 2005/10/08 10:45

 朝方それこそ天高く晴れて、爽やかな風が頬をかすめてゆくと、旅心をそそられる。ドライブには絶好の季節が到来した。妻を誘う。海を見に行こうか、と。人気のない秋の海は、また格別の味わいがある。海も一夏の多忙から抜けて、じっくりと話し相手になってくれるからだ。
 が、朝方の天気は長続きせずに、予報のどおり雨がしょぼついて来た。どうやらこの地方は連休も雨らしい。


 模擬裁判 - 2005/10/07 11:08

 地裁で開かれた裁判員制度の理解を深めるための模擬裁判で、傍聴をしながら自分なりに判決を出してみた。模範事件例では、図らずも、裁判長と同じ結果になった。
 印象としては、勿論この例だけでは言えない事だが、ひよっとして、本職の裁判官よりも、厳しい判断を裁判員は評議で出すのではないだろうか、との印象を持った。民と官のおかれている厳しい生活環境の差がそうさせるのだろうか。
 甘くない裁判員の判断は裁判に関わる者にどう変化を与えていくのであろうか。


 裁判員制度 - 2005/10/02 14:14

 地方裁判所で「模擬裁判」があるので傍聴することになった。裁判員制度に関わるものである。
 「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」の公布の日(平成16年5月28日公布)から5年以内の実施となっているので、万が一にも備えて早めの心の準備をしておく必要がある。しかし、人を裁く、それも重大事件を裁くとなると、手馴れた職業(裁判官など)の人は別としても、普段あまり物事を論理的に考える習慣がない場合、困難を予想される。まさか付和雷同という訳にもいくまい。先ず、自分自身を納得させる判断をもたなければならいのだから。


 国民保護計画 - 2005/09/26 21:47

 各県にて作成されている国民保護計画は、はっきりと言って、戦争そのものの状態を想定している。なのに国民は平然としている。何故なのか。相変わらずお上が何でもやってくれるとでも考えて、お任せしているのだろうか。
 頭上にミサイルが落ちてくることを仮定しているのに、「なぜ、そんな状態が起きるのか、なぜそう考えるのか、なぜ回避できるように平和外交を展開できないのか」とか、疑問に思わないのだろうか。それとも、そんなことありえないと、高を括っているのだろうか。あるいは全く関心が無いのだろうか。それとも積極的に「然り」として、受け止めているのだろうか。


 独り言 - 2005/09/23 17:33

 急いでも誰に追いつくわけでもない
  ゆっくりしても誰に追いつかれるわけでもない
   おのれの歩みを知り絶えず歩け
    それが一人歩きの人生というものだ


 椋の花 - 20005/09/18 19:44

 庭の椋が純白の花を美しくそして艶やかに咲かせている。しかし近づけば、咲く花の陰に同時に多くの凋落した栄華のあとがある。
 人の生命にも比することができようか。いのちを全うするためには、夾雑物を捨て去り、捨て去り、捨て去って生きることが、真にいのちの花を咲かせることに繋がるのであろう。


 脳への栄養 - 2005/09/17 18:48

 身体が食物を摂取する様に、脳が盛んに本を読むことを欲している。そのため、近頃富に読書の時間が増える。別に「読書の秋」という訳からでもないが、活字を追うことが多くなった。
 私の場合は、本を読みながら、気になると、即辞書を引くことが習慣になっている。家に居るときは『広辞苑』に依る。この読書の仕方を大いに助けてくれるのが、電子辞書である。これは便利である。手のひらサイズに広辞苑が入っているのであるから、外出先のちょっとした場所でも安心して本を読むことかできる。