Washington, D. C. Washington Navy Yard. First Japanese treaty commission to the U. S., 1860
Library of Congress

 『維新前後の政争と小栗上野の死』

 前編 小栗上野の功業と其冤󠄀死

 餘 錄

 14-16頁
 (二)最初の遣米使節の寫眞に付て

 第一次遣米使節の寫眞は、今日にては日本にもあり、米國の日本大使館にも備へである。併し乍ら、明治の半ば以前迄は、何人も之れを知れるものはなかつた。此の寫眞は、小栗家の養嗣子小栗貞雄が、明治二十二年歐米遊學よりの歸途、米國華府の一歸屋に至り、『當時の寫眞はなきや』を尋ねられた所が、一老翁あり、古き種板の中より、親切にも此の寫眞原版を探し出して、小栗貞雄に示されたる故、小栗貞誰が誰れなるやを知らざりしも、之れを新に寫し取らせて、日本に持ち歸り、之れを本著者の母や其他親族のものに示して、中央の椅子に凭りて並びつゝある重なる數吊の中にて、孰れの人が新見村垣の正副使であり、孰れの人が小栗上野介なるかを、初めて知り得たものであつた。斯くして初めて、日本に小栗上野介の容貌風采は知られたのであつたが此の寫眞中、小栗上野介の態度は、一段優れたものがある。悠々として迫らず、然かも胸中深謀遠慮を藏するの趣が明かに窺ひ知られるのである。(右述べたる本著者の母と云ふは、小栗上野介の夫人道子の實妹であり、小栗夫人道子は播州林田の小さき大吊たりし建部内匠頭の第二女であつた)。
 余は一九一四年に學術研究の爲めに暫く米國に居りし折、當時の日本大使館を訪ひ、大使某氏に向つて、第一次遣米使節の寫眞の保存はなきやを問ひたりしに、同大便は「岩倉公一行の寫眞は知り居れども、幕府より派遣せられたる遣米使節の寫眞に付ては何等知る所なし」と答へられた。然るに間もなく、大使館の事務窒に至り見れば、遣米第一囘の使節の古き寫眞も掲げられて居たのであつた。蓋し明治時代の御役人なるものは、明治以來の事のみを尊重して、七百年來の國家の正當の制度たる舊幕府時代の事柄を輕視するの風ありて、斯かる我が外交史上重要の寫眞をも、恰も他國人の寫眞でもあるかの如くに輕視して、目に留めざるものなるかを推察し得た。維新の前と後とに由つて、日本と云ふ古き國家を、日本人としで輕重するのは、正しい國民觀念とは云ひ得ない。役人のみならず明冷以後の日本人に、此の訣點多きは、匡正せざる可からざる所である。人或は「奉行」と云ふ吊を輕視する人がある、其等の人は、「目付」を「スパイ」と譯する無學の連中と、全く同一型の人である。

引用・参照
『維新前後の政争と小栗上野の死』 蜷川新 著 (日本書院, 1928)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
『維新前後の政争と小栗上野の死』