『新聞記者の表裏』齋木烏村著

 本邦新聞紙の變遷

 (百二十二-百二十四頁)
 () 維新前の新聞

  新聞紙の濫觴

今日の如き新聞にはないが、社會の出來事を報道する機關は、既に早くから具備して居た、我が國の新聞紙の元祖に今昔物語又は宇治拾遺を上げて居るものがある、成程都端れの所に異樣な家を構へ往來の人を呼び止め、諧國の奇事珍談を集めて書物として公にした點から云へば新聞紙と見へるかも知れぬ、又大阪陣の時徳川勢の方で味方の武勲あるものゝ名を摺物にして士氣を勵ました事もある、其後徳川が天下を一統してから今の官報の如きもので殿中御沙汰書(幕府の發布、布告、告示、任免等)封廻狀(犯罪責罰を重職に告知するもの)秘密公文書、外國事情(外國事情の翻譯あり)等のものがあつた、また民間にありても元祿の頃に、物見高い市民は、社會の出來事を、一刻も早く知らうと云ふ必要から、一種の賤業者が石版にして之れを讀賣した、赤穂義士の仇打の時など、義士が泉岳寺に引上ぐる前、己に其姓名年齡迄詳細に取調べて讀賣した、鈴木主水とか浪花五人男とか、お千代半兵衛の情死とか云ふもの等、上は國老參政の事から下は一平民に至る迄の事變は細大洩さず報道せられた。

  新聞らしい新聞

新聞らしい新聞の出たのは文久三年で横濱在住の英人が横濱英字新聞を發行し次で同年の秋「ばたびや新聞」及び「六合叢談」と云ふ新聞が發行せられた、何れも「ばたびや」とか支那とかの飜譯に過ぎなかつた、其後元治元年岸田吟香氏の外人と協力して毎月三回の新聞紙を發刊した、是れが恐らく我が國で新聞の形體を具へた第一と云つて善い、慶應元年に尾張人柳川春三が「中外雜誌」を公にし、又同三年には横濱の外人ぺーリーと云ふが萬國新聞と云ふ宗教の新聞を公にした。

  幕吏の新聞計畫

茲に特筆を要する事は、幕吏小栗上野介が米國に行はれて居る新聞を實見し、官民双方の利益と云ふ事を了知し福澤論吉氏をして新聞を起さしめやうとした事である、されど當時幕府には人物なく、同僚中これに賛成するものは一人もなかつたので、遂に中止するの止むなきに至つた、されど小栗は尚これに屈せず、機に觸れては此議を提出したが、幾度提出しても容れられず、其内に幕府が倒るゝに至つたので、小累上野介は、全く我が議を容れて新聞を作らなかつた爲めであると痛恨久しかつたと云ふ事だ、當時特に此の如き人物のあつたのである。

引用・參照・底本

『新聞記者の表裏』齋木烏村著 大正三年三月十日發行 中京通信社

(国立国会図書館デジタルコレクション)