『明治百話』(上) 篠田鉱造著

 147-150頁
 小栗上野介の西洋館

 雁来紅を盆栽仕立に

 明治の十五、六年頃、縁日の植木と、今でこそケナすが、ソノ頃の「縁日の植木」は、山出し物があったせいか、我々素人が買ってもなかなか掘出物かあって、二、三円のものを奮発して、木振枝振見所のあるのを、買込んで来ては、香樹園(両国)へ預け置いて、時に三、四十円になったことがあるんで、私は学生時代から植木好で、よくこうした掘出物をやった。ソレからこの頃また流行り出して来たようだが、豆盆栽か好きで、アレを買って来ては、書物棚の上へ飾って楽しんでいた。
 この趣味性から植木好となって、いろいろ盆栽を什立て、ことに秋草が好きで、自然の花を好んだ、向島の百花園か好きで、ヨク菊塢へ出懸けたものだが、後年小田原へ住むに及んで、花ものに趣味性を発揮した。後ち国府津へ住んだが、最初は小田原の玉田寺の山を借込んで、崖を削って三間の路をこしらえ、その坂道へ秋草をうんと植えた。桔梗、かるかや、おみなえし、コレが秋へかけて花野の如く咲き出て、北原君(白秋) の如き「おみなえしを、こんなに見たことは始めてだ」といっていた。雁来紅が好きな私は、アレを盆栽仕立てにして、朝顔も懸岸に造ったりした。花台の上へ載せて眺めていたが。面白いもので、いろいろ花は手入しだいで言うことを聞いてくれる。

 全く松竹梅の景色で

 ソレに玉田寺の梅林が、小田原梅干のとれる、第二番目の場所であって、春はコノ梅林を上から眺める。高台の崖上から眺めるのであるから、まず十二月から三月へかけて、一帯の梅花の白雲がかかって、その間に二、三十本の紅梅が交っている風情は、訪い来る人々、高川早苗君、村井弦斎君達が「コノ景を見なければ、梅花の絶景を知ることは出来ない」といい、『梅花無尽蔵』と称してくれた。いずれも大きな古梅で、松林竹林か背景となっている梅林だから、全く松竹梅の景色であった。コノ林間の一面に、真鶴岬を湖水の築山の如く、見渡し得るものでした。西南には西陽除けに、梧桐を植えて置いたが、後ちに室田義文君が移り住んで、伐り払ってしまったというが、趣味性の相違は是非かない。
 ここヘ土方伯を招いたことかある。同伯が茅ヶ崎の別荘に居られた頃で、宮内大臣の栄位に居られた人だが、昔が昔だから、官僚式といっても、気の置けない、なかなかチョクな人間で、故友加治君が案内して来た。コレについては理由があるんで、土方伯と小栗上野介との関係は、伯が官軍で江戸へ乗込んだ時に、神田駿河台の小栗の邸宅を本陣とした。

 小栗家の者の西洋館

 その後小栗邸が払い下げとなっのを、こうした縁故で伯爵が購い、それを小石川の自邸へ移築せられた。維新関係の記念という心であった。ソレを一部の人々は、土方伯が横領したように言うのはソレは違った事実であって、全く土方伯が、払下げと聞いて、一時でも本陣とした関係や、建築が全く小栗上野介ソノ人の考えから出来ているのを知って購い取られたのであった。ソコで一度是非招待したいとあって、小石川の土方邸へ、私夫婦か案内を受け、小栗家の『石の西洋館』を見せてもらった。俗には石蔵といった風のもので、駿河台の小栗御殿が、小石川へ移っていた訳であった。ソノ大広間は、九尺ごとに柱があった。コレは安政の大地震で、上野さんか考えついたものであった。一体ナゲシは、士分の家より許きれなかったのを、平民にも許したのは、安政大地震からで、ナゲシは地震を支えたものと見える。こうした招待の御礼に、茅屋ではあるが、梅花無尽蔵を観ていただきたいと小田原から申込んだら、快よく土方伯夫妻と、相続人の未亡人が見えたものだ。マア打寛いでいろンな話を交換したが、コノ時おかしかったのは、加治君に探偵かくっついている事で、加治君か案内して茅ヶ崎から来ると、同君は主義上探偵がくっついて来た。ソコで私はソノ探偵に向い「今日は土方宮内大臣の微行で加治君はその案内役であるのだから、君達はくっついていなくってもよかりそうなものだ、馬鹿々々しいではないか」といったら、探偵達は「実際馬鹿々々しいンですが、役目ですから仕方ありません」といっていた、その土方伯も加治君も、今は亡き人の数である。

引用・参照・底本

『明治百話』(上) 篠田鉱造著 1996年7月16日第1冊発行 岩波書店