『春城談叢』市嶋春城著

 282-284頁
 小栗上野の事

 幕末維新ゴタゴタの際に惜むべき人を失つたことは愛惜に堪へない。就中小栗上野を殺したことは如何にも無殘であつた。自分はナゼ殺したかに從來解けざる擬ひがあつた。今度上野の首級を埋めた普門院の僧が、上野の傳を著しそれを海軍省で出版したものを讀み、初めて了解をを得た。此の著者は阿部道山と云ふて長らく上野の研究をした人で、其の傳中には上野を斬つた原保次郎翁(貴族院議員)を訪ふて其頃の事を尋ねもゐる。格別罪狀のあるのでなく、上野が舊領に引上げる時愛重した大砲を持こんだことが官軍の恐怖的誤解となり、罪滅しに罪狀を作つたものであるらしい。亦た其の大砲を覆ふて運搬したので、それが幕府の在金と誤解されて、こヽに金幣埋藏説が起り、著者はしばしば埋藏發掘の山河に接したことも書いてゐる。上野は勘定奉行で幕府の蔵相であつたから、斯樣の浮説も起る筈である。兎に角幕末達識の士と云へば、上野以上の人は少ない。早く外國に使して彼等の兵備を觀、幕末財政困難の時、衆議を排して横須賀に造船所を起し、海軍の礎をなした經歴は滅さんとして滅し得ざる功績である。上野は人に向つて幕府が潰れても土藏附の廢屋を渡したいと云ふたとあるが、國家の將來をも考へて此の事業を起したか、どうかは如らないが、兎に角幕府のため努力したことは確かである。幕徒で保身を得たものに勝海舟があり榎本式揚がある。其の保身を得た爲めに明治政府に重く用ひられたが武士道からすれば、臣節を全ふしたものでないと、當時福澤が正論を吐いてゐる。上野のごときは之れを豐公の石田三成に比すべきであつて。上野こそ臣節を全ふしたもので其の遺業は國家防衛の百年の計をなし、今日盛んに上野の死を惜むに至つたのは無理もない。
 上野が幕末の難局に當つて軍務と財務を處したことは、大隈候が維新當初の難局に方り外務財務を處したのと甚だよく似て居る。兎角達識でなければ群小等の異論を押し切ることが出來ない。敵の廟堂に多かつたことも上野と大隈は甚だ似て居る。その兩人が偶然親族關係を結ぶに至つたのも妙な縁因と云はざるを得ぬ。侯の夫人は小栗家の出であつて、前年越後に夫婦が遊ばれた時、新潟で曾つて奉行として來た、先代の墓を展し其寺にも参詣され、上野歿後その遺族を一時かくまつた新潟の藤井寅一郎を延いて當時の模樣を聞かれた時は、自分が其の紹介者で藤井は余が妻の姉の嫁した家であつた。其時上野の妻は懐妊中であつたが、追々隠匿が知れかヽつてくると、會津に遁れたが、生み落した女子は三井家の三野村に養育されて、矢野文雄の弟貞雄に嫁し其家を繼がしめたのは大隈夫婦である。傑士同士か斯く結びついたのも奇しき縁因と云ふべきで、大隈侯は常に小栗の惜しむべき政事家であつたことを賞揚された。
 自分は小栗の功績を發揚すべく、往年蜷川新博士が小栗の縁者であるのに思ひつき、薩長功罪論を執筆せしめて、其内に小栗を評論してはと思つたが、其際はまだ時期が早くつて、計畫遂行が出來なかつたが、普門院の僧道山が著したものを讀んで、大いに益を得た。道山は知らない人だが、一書を寄せて同感を表したのも自分の喜びの餘りであつた。

引用・参照・底本

『春城談叢』市嶋春城著 昭和十七年八月十日初版發行 千歳書房
(国立国会図書館デジタルコレクション)

参考:『明治維新の研究』津田左右吉著 55-71頁 第三刷発行 二〇二一年一一月一八日 毎日ワンズ