『江戸時代頽唐期』坪内逍遥監修 高須梅溪著

 第五章 開國思想と鎖攘思想の接近

 275-285頁
 第三節 對馬占領問題と開市延期問題

 對馬占領事件の起因

 當時、外交問題についての重要なる案件が引續いて當局者を苦めた。其中重なものは(一)露艦の對馬占領に對する談判、(ニ)ニ港開市延期の交渉などであつた。元來、露國は南下の勢を張つて、日本の領土に深い野心を抱いてゐた所から、兎角東洋方面に於て英國と勢力を爭ひ、事毎に英國に打勝たうとして居た。それで萬延元年(西暦千八百六十年)の初めに、露國が對馬を占領しようとする企てあるを聞いて、それに對抗すべき必要を感じた。英國の對馬占領の意圖は、全く影も形もないことではなかつた。

 ホッヂソン

 英國領事として我國に來任してゐたホッヂソン(C.Pemberton Hodgson)は『長崎箱館の二年間』に於て、對馬が最上の港たるべきことを説いて、其占領の必要あることを述べたことがあつた。英公使アルコックも露人が日本の内訌あるに附け込んで、對馬を占領するかも知れないと察して、幕府の要路に向つて對馬の一港を開くべきことを勸説した。

 アルコックの『囘想記』

 アルコックは此事について、其著『囘想記』の中に、對馬の問題に言及して「露國は一方に於て支那滿洲の沿岸に勢力を築き他方に於て日本及び米國の間に於て、勢力」をゑ付けつゝある(中略)。若し朝鮮及び日本、又は他の一部が露人の侵略するところとなるとしたら、露國はそれによつて、石炭、貴金屬、鉛、鐵、硫黄などを手に入れるのみならず、安全な碇泊所、避難所を得るであらう。また木材や、強健な勞働者、水夫等をも得るであらう。若し露國が濠洲の沿岸から米國の沿岸に至るまで、我英國の貿易を妨げようと思ふなら、右の地方を利用してどんなことでも出來よう。事ここに至らば、英國に取つて大問題である。何となれば、日本海は世界を一周すべき我英國の最後の一鏈環だから苟も海洋に於ける此部分が他國の支配下に入るなら、その爲め我世界經營の仕事は直ぐに大きい障碍を輿へらるゝからである」と述べてゐるのを見ても、如何に對馬を重大視して居たかが分るのである。

 露英二國の睨み合ひ

 かうした事情があつたので、一千八百六十年の始めに、露國海軍大佐リッハチョフが政府の命令を受けて、支那方面へ一艦隊を率ゐてゆく途中、英國の對馬占領の計畫あることを探知したのは、全く見當違ひではなく、相當に根據のあることであつた。勿論、英國は對馬を占領しようとはしなかつたけれども、露國が對馬に垂涎してゐることを知つて、其侵略の毒手に罹らない中に、英國自身の爲め、又日本の爲め、適當の處置を執らうと考へたことは事實であつた。畢竟、英露の二國は、露土戰爭以來、仇敵のやうに間柄となつて、東亞に於ても互に勢力を爭うた結果、其焦點を對馬に置くこととなつたのである。

 對馬占領を海軍省の問題とす

 さてリッハチョフは、英國が對馬占領の意圖あることを、海軍大將コンスタンチン・ニコライエウィッチに急報して、「當時、英清戰爭の爲め、英國が其方へ氣を取られてゐるに乘じて、對馬を占領してはどうであらう」と、云ふ意味のことを述べて、訓令の來るのを待つた。其返事は西伯利の郵便制度が不完全な爲非常に遅れてリッハチョフの許に届いた。それによると「露國政府は、日本人と衝突することを好まないので、此問題を外交方面のものとしないで、單に海軍省の問題として取扱ふやうにしたい」と云ふ意嚮であつた。

 ゴスケウィッチ

 それで此事について、露國政府に於ては、箱館駐在の露國領事ゴスケウィッチに訓令發して事件の眞相を探究するやうにした。ゴスケウィッチは、軍艦に乘つて、長崎へ急行して、英國が窃かに對馬沿岸を測量したことを確めて、箱館へ歸る途中、江戸に立ち寄つて、幕府に英國が野心を日本に對して抱いて居ることを告げ、對馬の沿岸防備を嚴重にせねばならぬことを勸告した。

 露國特有の侵略主義

 ところが、リッハチョフは、それとなく全く別な方向を執つて、露國特有の侵略主義を以て對馬に臨まうと決心した。彼れは萬延元年(西暦千八百六十年)の暮に、其の屬艦「ポサードニック」の艦長ビリレフに訓令を輿へて、「今から直ぐ對馬に赴いて、領主宗對馬守に其土地の一部を海軍根據地として租借するやう談判して貰ひたい」と云つた。それで、ビリレフは快く領承して、文久元年(西暦千八百六十一年)二月、對馬の淺海尾崎浦に入つて、水路を測量し、翌月、内海に入り、芋崎浦古里に碇泊した。

 ビリレフの態度

 ビリレフは對馬占領の野心を抱いたリッハチョフの命令を受けてゐるので、最初から武力的壓迫を以て其野心を遂げようとして居た。それで彼れの態度は殆ど傍若無人の有樣だつた。彼れは、船舶修理を口實にして、芋崎へ上陸しようとした。ところが宗對馬守は、芋崎が重要な地點で、萬一彼れがそこに根據を据ゑる時は、それを攻めるのに骨が折れるのを知つて、上陸を許さなかつた。

 ビリレフ芋崎に上陸す

 ビリレフは許可を得ないのにも關らず、勝手に部下と共に芋崎へ上陸して、伐木を始めたり、色々の家屋を建てたり、食料品を求めたりした。其上、要害の地點を借用したいと申込んで、宗對馬守に逢はうとした。宗對馬守は、其暴狀に驚いてそれを長崎奉行へ急報して、頻りにビリレフに退去を促したが、言を左右に託して聽かなかつた。のみならず、交渉に當つて我役人に對して、恐嚇、愚弄の言を吐いて、箸にもかゝらないほどの有樣であつた。

 對馬島民の憤り

 それでも、宗對馬守を始め一般島民は、幕府から豫ねて外人に對して穏かな態度を執るやう論告されて居たので、ぢつと我慢を續けて來た。ところが、四月十二日、露船は對馬の役人が制止するのも聞かずに、大船越關所を通過した餓え、土地のもの二名を捕へて其一名を殺した。そして翌日も、大船越へ來て亂暴狼藉の限りをつくしたところから、宗對馬守も島民も非常に憤つた。彼等は、決死の覺悟をして、愈々露人と戰ふ時には、一致して、露人に打勝たうと考へた。

 外國奉行の對馬急行

 それらの事が、幕府に急報されたので、安藤對馬守は、少なからず憂慮して、外国奉行小栗豐後守、目付溝口八十五郎を對馬に遣はし、長崎先奉行らを一行に参かせしめて談判を聞いた。
 五月上旬、小栗らはビリレフに逢つて、度々退去を促したが、ビリレフは「退去の事は、目下、上海にゐる司令官リッハチョフの命令を受けてからでないと、どうすることも出來ない」と云つて、我要求を撥ね付けた、そして「宗對馬守に逢つて、直接面會すれば、早く事が片付くであらう」と云つて面會を求めたが、宗對馬守は、ビリレフに逢ふことを避けて、小栗に萬事を委託したので、中間に起つた小栗は大分當惑したが、結局、大局の上から考へて「對馬は英公使の云ふ通り、開港場にするにしても、また防備の方に全力を注ぐにしても、薄弱な藩侯の手に委ねて置く譯には行かない。此點については一應幕府老中の意嚮を質した上、露人と應對せねばならぬ」と決心した。それで、ビリレフには「追つて願意を許容するであらう」と漠然と答へて置いて、急に江戸に歸つてしまつた。

 小栗の復命

 幕府は小栗の復命を聞いたけれども、其意見を用ひないで、更に命令を箱館奉行村垣淡路守に下して、露國領事ゴスケウィッチと對馬問題について交渉させた。ゴスケウィッチは、全くビリレフの暴狀について關知しなかつたことを述べ、尚其行動の不穏なることを認めて、海軍提督の許へ具申してして、『ポサードニック』號を退去させることを確約した。

 英公使アルコックの盡力

 當時、安藤對馬守は、對馬問題の他に二都(大坂、江戸)二港(兵庫、新潟)の開市延期問題をも眼の前に控へて、肝胆を碎きつゝあつた。それで開市延期問題について、英公使アルコックに會見した時、切に對馬問題について盡力を懇請したので、アルコックも露國と對抗すべき必要上それを承諾した。其結果、英國は海軍中將ホープに命令して軍艦三隻を率ゐて、對馬に行かせた。ホープは、露艦『ポサードニック』號に赴いて嚴重に退去を要求したが、ビリレフは尚頑強にそれに應じなかつた。けれども間もなく、本國政府からビリレフに歸國すべき旨の達示があつたので、ビリレフも止むを得ず、一切の建築物を我有司に委託して歸國の途に就いた。畢竟、對馬占領のことは、露國外相ゴルチャコフが最初から反對して居たので、海軍方面の意圖と同一の歩調を執らなかつた爲め、最初の勢いに似ないで、見苦しく退去せねばならぬ破目に陥つたのである。

 二都二港開市問題

 對馬問題は、漸く落着したが、今一つ、重要な二都、二港開市延期問題が殘つて居た。當時、鎖攘熱は、東では水戸、西では京都を中心として、殆ど極度に沸騰して底止するところを知らない有樣であつたから、幕府當局は唯金川、長崎、箱館の三港を開いただけでも、鎖攘熱が急に沸騰したのであるから、此上、兵庫、新潟の開港江戸、大坂の開市を實行したら、どんな騒動を惹起するかも知れないと憂惧して、「當分の間、二港二都を開くことを見合せる他はない」と見込を付けた。安政五年の條約によると、外人と貿易する爲め、江戸は文久元年十二月から、兵庫、大坂は文久二年十一月から、新潟は安政六年十二月から開く筈になって居た。其中新潟は港が淺く、風波が荒くて、大船を容れるに不便である所から、其代りとして、他の一港を新たに選定することになって居たが、まだ正確に定まらなかつた。

 ハリス幕府に同情寄す

 安藤對馬守は、新潟の代港を選定するについて、頻りに各國公使から催促を受けて居たが、今はそれどころの事ではなく、總ての約束を延期しなければならなくなつたので、苦心の末、先づ米公使ハリスに事情を打明けて相談に及んだところが、ハリスは幕府當局の苦心を諒知して「此事は本國政府へ通報して力の及ぶ限り、幕府の希望が達し得られるやう取計ひませう」と答えへたので、安藤はそれに稍力を得て、愈、向ふ七箇年間の延期を實現しようと考へた。そして萬延元年六月、其事を英公使アルコックにも告げて其盡力を求めた。ところが、最初、アルコックは固く延期説に反對して、幕府の態度を難詰したが、安藤が根氣よく、手を替へ、品を替へて、アルコックに赤心を披瀝するに及んで、アルコックも漸く意を動かした。其時恰度英公使館書記官オリファントが、日本の暴徒から受けた傷を治療するため、英國へ歸らうとして居た折柄であつたから、アルコックは安藤に其事を告げて、幕府から英女皇に宛てゝ延期の希望を述べた公書をオリファントに託すべき旨を語つたので、安藤は少しく安心して、他の各國公使に對しても交渉を開いた。

 英佛領事の勸告

 アルコックは、安藤に同情するやうになつてから、佛國公使ベレクールと相談して幕府の爲め建言するところがあつた。其要旨は「日本が外國と交際を結ぶやうになつて以来、米國へは既に使節を派遣したけれども、まだ歐洲各國へは使節を送らないのは國際の禮儀輕視したやうに思はれる。それに就て、今度、新たに使節を歐洲の締盟各國派して、懇親の意を表せられたい。使節の施行に對しては、英佛二國協力して優待に力めるであらう。そして此機會を善用して、歐洲へ行つてから、直接各國政府に交渉して延期を求めたら、多分話が纏るであらう」と云ふのであつた。

 遣歐施設の確定

 安藤は、英佛公使の提議を至當だと考へたので、直ぐに其案を閣議の席上に持出したところが、大分、それに反對するものがあつて「目下、攘夷熱の旺んな折に、使節を歐洲へ送ると決したら、攘夷黨は火のやうに激怒して、これまでよりも一層過激なことをするであらう」と云つた。けれども安藤は其才辯を以て、頻りに老中らを説得することに力めたので、閣議も亦安藤の云ふ通りになつた。そして文久元年十月、使節、随員らを任命した。其時、正使に任ぜられたのは、勘定奉行兼外國奉行竹内下野守(保徳)で、副使に任ぜられたのは外國奉行兼神奈川奉行松平石見守(康直)であつた。それに目付京極兵庫(高朗)付けて、一行の監視に當らせることにした。随員は凡三十餘名であつたが、其中には福地源一郎(通辯)、川崎道民(雇醫)、松本弘庵(翻譯方、後に寺島陶藏と改名、外務卿になつた)、箕作秋坪(翻譯方)などの人物が居た。そして曩に、日本人として一番最初の渡米を試みた福澤諭吉も亦翻譯方に雇はれて、一行に加はることゝなつた。

 英艦『オヂン』で使節

 此際、アルコックは、一行の爲め種々便宜を計つて、英艦『オヂン』號("Odin")の内部をは修繕して一行の渡航用に供し、尚英公使館員マクドナルドを附けて、一行を宰領させることにした。使節が萬般の準備を終つて、品川から航海の途に上つたのは、文久元年十二月下旬だつた。

 (一)C.P.Hodgson:"A Residence of Nagasaki and Hakodate during 1850-60" London.
 (二)宗對馬守家來の哀願書、及び宗對馬守の『異樣船問情届書』参照。
 (三)村垣淡路守『魯西亞軍艦對州繋泊罷在候儀に付、同國コンシュルと談判仕候趣申上候書付』参照
 (四)侯爵大隈重信氏『開國大勢史』、一〇四四-一〇七〇頁、及び『對州表露西亞渡來一件』参照。

註:『海舟全集. 第2巻』参照

引用・参照・底本

『國民の日本史第十二編 江戸時代頽唐期』坪内逍遥監修 高須梅溪著
大正十二年三月廿四發行
(国立国会図書館デジタルコレクション)